41 嫌な感じがする
私に腕枕をしている吾郎くんの息が、私の額に優しく吹きかかる。
「私の声を聞いて……安心したの?」
「うん。今も美空の傍にいる時だけ安心してる。――歌って、美空」
「う、うん」
乞われるがままに、吾郎くんに何度も歌って聞かせた子守唄を口ずみ始めた。
安心――。これまで私は、にこやかで肩の力が抜けた吾郎くんの姿しか見たことがなかった。だけどウドさんへの徹底した冷たい態度を見て、私が見ていたのはあくまで吾郎くんが私にしか見せない一面だと気付かされた。
吾郎くんは、ちゃんと色んな面を持っていたのだ。これはウドさんという外の世界に触れてみなければ分からなかったことだった。
ふと思う。もしかしたら、あの冷たい態度も実は、吾郎くんが恐れを感じていたからなのかもしれないな、と。ウドさんと対峙する時の強張った表情は冷たいのではなく怯えていたものだとしたら、今になって安心という言葉が出てきたのも納得だ。
「美空の声、好き」
吾郎くんが、眠そうにゆっくりと瞬きをする。
初めて見る物に怖がっては泣く吾郎くんに、こうして歌ってあげた記憶が蘇った。トン、トン、と背中も叩いてあげると、安堵したような幸せそうな息を吐く。
歌いながら、気付いた。吾郎くんとこうして過ごす内に、いつの間にか心の中にずっとあった焦燥感が消えていることに。誰かといる時に、常に感じていたあの感覚を。
相手に合わせなければ、笑われないように頑張らなければ、追いつかなければ。もうこの場に戻ってきていたというのに、それでも常に追われている感覚が抜けなかった。ここの外には別の世界が広がっていて、私ひとりがこの場に取り残されているという考えが拭えずにいた。
だけど吾郎くんは世界なんて気にもとめず、常に隣で笑ってくれた。どんなに私がゆっくりでも、嫌な顔ひとつせず、ずっと待っていてくれた。
だから私はようやく思えたのだ。
縁側でお茶を飲みながら過ごす相手は、吾郎くんがいい。いや、吾郎くんじゃなきゃ駄目だ、と。
その為には、怯えてないで一歩を踏み出さないといけない。吾郎くんなら、私と手を繋いで一緒に最初の一歩を踏み出してくれるだろうから。
瞼を閉じて寝息を立て始めた、吾郎くんの穏やかな寝顔を見つめる。
明日、私の想いをちゃんと吾郎くんに伝えよう――。そう心に決めた。
◇
唐突に上半身を抱き起こされる。
「ひゃっ!?」
吾郎くんの腕の中にすっぽりと収まりながら熟睡していた私は、突然の覚醒に目をぱちくりさせた。え? 何? な状態だ。
雨戸を閉め切った部屋は暗い。硝子戸の向こうにある台所の奥から差し込む僅かな光が、そろそろ朝が訪れようとしていることを告げていた。
「……え、どうしたの?」
吾郎くんの腕にしっかり抱えられているので、吾郎くんが今どんな表情をしているのかは分からない。
切羽詰まったような声で、短い答えが返ってきた。
「――嫌な感じがする」
「嫌な感じ? え? 何が?」
「僕がいた方、あっちの子たちが、叫んでる」
吾郎くんの唸るような低い声に、何かまずいことが起きているんじゃと不安を覚え始める。
「え?」
僕がいた方。――聖域の跡地の方面のことだ。
……まさか。嫌な予感に襲われた。
「吾郎くん、ちょっと手を離して!」
吾郎くんの拘束から抜け出すと、障子戸を開け、急いで雨戸を開ける。昨夜ウドさんは、車の横にテントを張っていた。だけど今は、車はあるのにテントがなくなっている。
「……いなくなってる……!」
最後に見せた、ウドさんの穏やかな笑顔が脳裏を過ぎった。
「僕、行かなくちゃ!」
吾郎くんの声に振り返ると、洋服に着替えているところだった。
「私も行く!」
窓を閉めると、自分の部屋に駆け込んだ。山道で転んでもいいように、生地の分厚い登山用のズボンを選ぶ。シャツの上にフリースを着て、更に上から薄手のダウンジャケットを羽織った。鏡を見ると髪の毛がボサボサだったので、急いで梳かして後ろでひとつに結ぶ。
居間に戻ると、泣きそうな顔をした吾郎くんが振り返った。頭を抱え、首をふるふると振っている。
「なんで、何が起きてるか分かんないよ……! 声がいっぱいすぎて、聞こえない……っ」
「吾郎くん、私がついてる! だから大丈夫だよ!」
吾郎くんの手を握ると、玄関に引っ張って行く。吾郎くんはかなり混乱した様子だったけど、それでも素直に靴を履くと、私と並んで走り出した。ここから吾郎くんが生えていた場所までは、十分は掛かる。落ち葉で溢れたその道を、私たちは必死で走り続けた。
「はあっはあっ」
普段走ることなんて殆どないからか、私の息はあっという間に上がる。まずい。私がついてると偉そうなことを言っておいて、これじゃ完全なお荷物だ。すると吾郎くんが立ち止まり、私の前にしゃがんで背中を見せた。
「おんぶ!」
「――うん! ごめんね!」
悩んでいる時間はない。相変わらず泣きそうな顔の吾郎くんの背中に飛び乗ると、吾郎くんは私の足をしっかりと抱えて全速力で走り出した。速い。ここが山道だなんて思えないくらいの速さだ。
「吾郎くん! その子たちはなんて言ってるの? ちょっとでも分からない!?」
吾郎くんが言っていた「あっちの子たち」とは、恐らくは吾郎くんの周りに生えていた、綺麗な木漏れ日を見せてくれていた樹木のことだ。
吾郎くんは落ち着きなく前を見たり私を振り返ったりしながらも、懸命に伝えてくれた。
「ええと……! 僕に早く来てっていうのは聞こえる……! あと、ああもう! みんな色んなことを喋ってるから!」
どうやら、みんなてんでバラバラに勝手に叫んでいるらしい。大勢の叫び声の中から聞きたい声だけを探し出すのは、確かに至難の業だろう。
「落ち着いて、ひとつだけに耳を澄ませて!」
無理難題を言っているのは重々承知だ。だけど何が起きているのかを、到着する前に把握できた方が絶対いい。
「できる、吾郎くんはできるよ! だってマンドラゴラの王様だもん!」
「美空……!」
私の励ましの後、吾郎くんは口を閉じた。多分今、物凄く集中している。だけど足の速度はちっとも衰えない。吾郎くんの集中を邪魔しないよう、息を潜めて様子を見守った。
「……抜いちゃ駄目って言ってる」
暫くの沈黙の後、吾郎くんがぽつりと言った。
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