30 事件の後
名雲さん事件の数日後、センター長が菓子折りを持って我が家を訪れた。
突然の来訪だった。表で落ち葉を掃いていた吾郎くんを見られてしまい、案の定センター長はあれは誰だと目を丸くする。
私は山崎さんから入れ知恵されていた通り、彼は義父の山崎さんの遠い親戚で今は一緒に暮らしているのだと伝えると、センター長は「女性ひとりだと不用心だからね、よかったよかった」と心から嬉しそうに笑ってくれた。山崎さんが用心棒に彼を寄越したと勝手に理解してくれたらしい。
センター長は、名雲さんという厄介者を引き受けた上に迷惑を二度も掛けられるという、かなり不幸な状況に陥った可哀想な人だ。だけど基本根がいい人なのだろう。ろくに知らない私にすらこうして心配するところを見ると、学校の先生が何故あえてセンター長に頭を下げてまで名雲さんのことを頼んだのか、何となく分かる気がした。
その名雲さんは、センター長が務める配送センターを即日退社した。さすがにもう面倒は見切れない、とセンター長が三行半をつきつけたそうだ。
残念ながら、名雲さんの両親は名雲さんといい親子関係を築いていなかったようで、名雲さんの引き取りを拒否。高校時代の例の先生が、身元引受人として名雲さんの身柄を引き取った。
このまま、名雲さんを野放しにはできない。ならば、先生が務める高校で傍で見張っていられる用務員に採用しよう。そう考えて働きかけたそうだけど、学校には女子もいる。当然ながら周りの反対は凄まじく、断念せざるを得なかったそうだ。
それはそうだろう。やってしまった事実は消えはしないのだから。私は、それに関しては同情は一切しなかった。
そもそも、考えが甘過ぎる。相手を信じることも更生の過程では必要だろうけど、名雲さんに必要なのは厳しさじゃないか。自分の傍に置いて見守りたいのは、あくまで先生の希望だ。そこには恐怖を与えられる側への配慮はなく、相手側への良心の無言の要求があるように思えた。
だけど、それは客観的に見られる立場にいるからこそ、思えることなのかもしれない。先生はきっと善良過ぎて、そこに気付けないんだろうと思った。
名雲さんは、薬物検査も行い、当然ながら何も出てこなかった。事件の後の様子は見るからに萎れていて、これまでの自信満々な雰囲気はどこにもなくなってしまったそうだ。でも、ショックから立ち直ったら、また再犯する可能性はある。本人がもう二度としないと口では言っても、今回はすでに二回目だ。
先生は考えに考え、知り合いの伝手を頼り、とある躾に厳しいと評判の大工の棟梁の元に名雲さんを預けるに至った。昔気質の大工職人だそうで、基本住み込み、食事も棟梁と取る。
少年院から出てきた者の更生の職場として何度か引き受けている内に、ならいっそのこと全員一人前になるまでみっちり育ててやると自宅の敷地に寮を建ててしまったというお方だそうで、この町からは車で二時間ほど掛かる町に住んでいる。名雲さんは早速棟梁の元に送り込まれ、ビクビクしながらも前向きにやっているのだとか。
このことからも分かる通り、結局私は被害届を提出しなかった。やられたことは許せないれっきとした犯罪だったけど、どこから吾郎くんの存在が明るみになってしまうかも分からない。まだ戸籍もない状態なので、下手に事を荒立てたくないのが本音だった。
だから、センター長を介し、名雲さんに約束を取り付けた。二度と私の前に姿を現さないでくれと。名雲さんからは、申し訳なかった、もう二度とこんなことはしないよう心を入れ替えますという伝言があったけど、それは本心からの言葉なのか。今はそう思っていても、一過性のものでまたむくりと欲求が湧き抑えきれなくなってしまう可能性はあるかもしれない。
まあ、山姥とその使いだとまだ信じているならば、近寄りはしてこないだろうけど。
私はそれから数日間、突然嵐のように襲いかかってきた出来事と名雲さんについて考えていた。所々で出てきた、君なら許してくれるとか、きっと今の自分を見てくれるといった言葉。その言葉の端々から、名雲さんが自分の過去を多少なりとも恥じていることが窺えた。
前回の女性とどういう関係にあり、どういう流れで襲うことに至ったのか、そこまでは聞いていないから不明だ。だけど、これまでの名雲さんの私への親切な態度やセンター長から聞いた生い立ちを統合すると、名雲さんは女性に対して癒やしを求めていたんじゃないか。
うまくいかない人生。両親とも不仲で、頼れるのは熱血漢っぽい先生だけ。周りはどんどん結婚して、自分は駄目な奴で周囲から置いていかれている。そんな焦燥感や苛立ちがあったのかもしれない。でも、前科はついていないとはいえ女性とトラブルになった経緯がある。周りはそれを、知っている。
駄目だったこれまでの自分を塗り替えて、親切な名雲さんという姿だけを見せたら、大人しそうで周りに人なんていない場所に住んでいる孤独な私なら、昔の彼もひっくるめて好きになってくれるんじゃないか。そう思ったのかもしれない。
名雲さんは、実際の私がどういう人間かを知らない。私は彼に、そういった面を一切見せなかったからだ。だから勝手に想像を膨らませた。陰から私を見ている内に、どんどん彼の中で美化していってしまったんだろう。だからこそ、「裏切られた」という言葉が出てきた。
――やはり私は、人間関係をうまく築くことができない。
この事件の後、痛切に思った。吾郎くんとこうして自然体で過ごせているのは、彼が人間ではない上に、赤ん坊に等しい無垢な存在だからに過ぎない。だからきっと、吾郎くんがここを去った後は結局は誰とも交わることができず、元の隠居生活に戻るのだと思う。それに耐えられるだけの心構えを今の内からしておくべきだろう、というのが今回悟ったことだ。
結局、私は何も変わっていない。駄目なものは駄目なのだ。
センター長は私と吾郎くんに一通りの状況説明をした後、これからはどんなに信用できる人間でも必ずペアを組ませて配達業務にあたること、私の家にはセンター長自らがもうひとり社員を連れてお届けに上がることを約束してくれた。
センター長がぺこりと頭を下げて、配達車を運転して帰っていった。とにかくこれでようやくあの騒動に一段落がついた、と肩を撫で下ろす。
そういえば、あの時の配送伝票に受け取りのサインをしていなかった。でも、あれはもういいのだろう。隣に立つ吾郎くんを見上げる。
「じゃあ、町に買い出しに行ってみようか」
「うん! 楽しみにしてたんだ! 美空大好き、ありがとう!」
「あは、あはは……」
最近は、何を言っても返事に大好きがつく。私は毎回、それを笑って誤魔化すだけだ。
「荷物、沢山持ってね!」
「うん、任せて」
吾郎くんは、にっこりと微笑んで力こぶを作ってみせてくれた。
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