第5話
それから約3時間後。
上履きとリノリウムの床が擦れるきゅ,きゅという足音を気にしつつC棟5階の廊下に踏み入る。7月に入ったからか放課後のこの時間帯もかんかんと日差しが降り注ぎ,窓の向こうには高く澄みきった青空を望める。それだけで外に出る気力が削がれるのだけど,信じられないことに陽炎の立ち昇る中学園の外周で走り込みを行っている野球部員の姿が正門の向こうに見えた。
正門の手前は煉瓦張りの広場でそこには花壇や噴水,ベンチ等が設けられている。日差しを遮るものがないせいかこの時期足を止める生徒は皆無だ。寧ろ日中赤外線をたっぷりと吸収した煉瓦がまるで鉄板のように放射熱を放つから,自然通り過ぎる生徒の足運びは忙しなくなる。現にちらほら下校しているらしい生徒の影が見えるけど,そのいずれもがうだるような暑さに俯き肩を落としている。この距離からは確認できないけど,きっと滴り落ちた汗が蝸牛のように彼らの足跡を残しているはずだ。
想像するだけでうんざりする外の景色から視線を戻す。廊下は真っ直ぐ突き当りまで伸び,そこから左右に渡り廊下へ続いている。左がE棟で右がD棟だ。突き当りの壁約120cmの高さに窓があるけど,風通しを良くするためか今その窓は開いている。その向こうにもやはり恨めしくなるくらい,深く濃く蒼い空間色が広がる。
やにわに,ふわりと夕風が吹いて肩口にかかる髪が靡く。首筋に籠った熱を掠め去って行った。
或いは時つ風だったかもしれない。
そんなことを考えつつこの階中央に鎮座する教室の前に立つ。室名札を見上げると物理学教室と無機質な文字が見えた。
物理学教室はこれまで同様,磨りガラスの窓も扉もまるで来客を拒むように閉じられているため中の様子は窺えない。照明が点いていないようだから恐らく今日もあの探偵は出払っているのだろう。試しに準備室の方に視線を向けてみるが,やはりそこの宿主がいないせいか同じように閉ざされた窓の向こうに黒々とカーテンが犇めき合う。しかし彼らがいないことは織り込み済みだ。この学園では理系科目も教室で教えるため特別教室に生徒が近寄ることは滅多にないのだけど,もう一度辺りを見回し扉を開ける。
物理学教室の空気は少しだけ涼しく感じられた。照明が点いていないとはいえ,廊下とは反対側の窓に目を向けると,カーテンは開けられその向こうには中庭の景色が臨めるくらいの光量があるため不思議を打つ。外気に晒されていたせいだろうか。
通りかかった生徒に中を覗き込まれないよう扉を閉め,誰もいない教室を奥へ進む。一先ず室内を観察しながら教壇の方へ歩くことにした。授業から解放された生徒達の喧騒はここまで届かないらしく,自分の足音がいやに大きく聞こえる。
昼休み川端先生に聞き込みをしたばかりなのに放課後押っ取り刀でここに来たのには勿論理由がある。井上が事件に関して気付いていることを突き止めるためだ。
当人に接触して聞き出すのが最も確実な方法だとは思うけど,どうも彼は先月の事件以降わたしを避けている節がある。同じく事件を調べる立場にあるのだから協力関係を築きたいのだけど,向こうにその気がないなら手段を選んでいられない。譬え無断でここへ忍び込んでも情報を手に入れる必要がある。今わたしが置かれている立場を考えると,悠長に構える余裕はないのだ。
教卓の中から調べてみようか。そう考えつつ教壇の前まで進んだ時,ふと教室両端に設置されている戸棚が目に付いた。
高さは大体わたしの腰くらい。開き戸が付いているため中に何が収められているのか確認できない。材質は扉を含め多分メラミンだ。作りを見ると高校の設備にしてはしっかりしていて,ちょっとした大学の研究室にあっても不思議ではないくらい。棚の上には滑走台やら音叉,オシロスコープ等の実験器具が並ぶ。授業での利用頻度はほぼないのにこれだけの器具を揃える必要があるのか甚だ疑問だが,コイルや分光計等見当たらないものもありそれらは棚の中に収められていると推測できた。
だからこそ,井上がここに事件の資料を保管している可能性はないだろうか。
捜査に際し集まる情報は膨大だ。一々それら全てを記憶していたら事件解決には年単位での時間を要する。だから学察では周辺情報は可能な限りデータ化し本部のパソコンで厳重に管理している。勿論記憶媒体による外部への持ち出しは原則禁止だ。どうしてもデータ化の難しい資料は事件担当者が鍵の掛けられる自分のデスクの引き出しで保管するか,同じく鍵の掛けられる戸棚で保管することが義務付けられている。
学園探偵にしたって情報の管理に注意しているはずだ。機密性の高い資料は第3者が目にすることができる形で残してはいないだろうけど,そうでない資料は存外活動拠点であるこの教室で保管した方が便利ではないだろうか。例えば歓迎会費の未納者リストだって事件に関係ない生徒にしてみれば何の価値もないのだ。井上が不在の時に一般生徒がここへ侵入するケースを想定していたとしても,実験器具が入っていると目されるこの戸棚に川端先生から貰ったリストを隠していても案外おかしくないのではないか。どうせ駄目元だ。どの道教卓の後にでも確認することになっただろうから,その順番が逆になったところで問題ない。
そう考え戸棚へ歩み寄る。それから取っ手に手をかけて戸棚の扉を開く。
軽い抵抗と共に何かが棚の中から弾け飛んできて,同時にピーと甲高い電子音が響いた。
しまったっ!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます