台本
月雨はる
第1部『寝室から』第1章‐就寝
6月29日 22:13
買いだめしておいた水が無くなって、もう2週間が経つ。カップ麺なども一昨日無くなって、今は大分前に買ったビールと不味い水道水を
洞窟のような一室の隅っこで常夜灯を月明りと仰いだ僕は、冷蔵庫の寝息と小さな音楽を聴いていた。音楽を止めてもう一方に耳を澄ますと、その奥に音楽が鳴っているような気がしたが、すぐにただの無機質な唸り声に戻った。昼間の蝉の大合唱もあって、
急に耳を襲ったけたたましい緊急アラートに舌打ちをする。数分後に来る黒い流れ星に備えて、ベッドのサイドテーブルに置いてある耳栓をねじ込む。
2週間前からの授業は体調不良を理由に休んだが、さすがに明日は‥‥。しかし、学校に行こうとすると体がいう事を聞かなくなる。考え事が巡る頭で、前に登校した時のことを思い出していた。
◇3週間前◇
『おはようございます』
『あ、おはよー。昨日大丈夫だったのー』
昨日は動けなくなる程に体が重く、授業を休んでしまったのだ。
『あ、はい。一応、なんとか』
『ん——、そう。あ、そういや先生心配してたよ。製作の柳井先生。最近よく休むからさ』
『申し訳ないです‥‥』
『最近2日おきに季節変わってるし、ほかの子も休んでるからね。気をつけなね——』
『はい』
授業の30分前に登校して、同じ科に唯一いる先輩と一緒に掃除をする。それが終わると、それぞれ刃物の手入れや、終わらせた課題の再確認などをして先生を待つ。
一先ず、漠然とした不安や恐怖で震える手を利用して、研いでいるナイフの刃で指先を傷つける。そして薄く削った木材を熱で曲げるベンディングアイロンという道具に指を押し当てる。食後のコーヒーと同じような感覚と言ったら想像がつくだろうか。こんな要素を散りばめながら、今日も心を安定させていく。
一緒に住んでいる親友の春野の様子が最近おかしく、その動揺もあるのかもしれない。それとも酒量の増加の所為か。いや、そんなことはいいんだ。とにかく今は集中しないと————
『大丈夫?』
『‥‥』
『えっ、大丈夫?』
トントンと肩を叩かれて、ようやく先輩が僕に声を掛けていたことに気付いた。
『えっあっ、はい。大丈夫です』
『さっき柳井先生からLINEあって、早めに着きそうだって』
それから時間は過ぎ、先生の指導の下、バイオリンの横板を曲げる作業に取り掛かった。横板は、6枚の長さの違う
『病み上がりで本調子じゃないかもしれないけど、遅れてる分少しだけ頑張ろうか』
『はい』
先生に手順を教わり、黙々と作業を進める。1.3mmを目安に薄く削った楓を少し水で濡らし、ベンディングアイロンに押し当てて、丁寧に曲げていく。集中しなければいけないのに、周りの音やこの前見た悪夢の事、希死念慮や無数の不安によって、1コマ目は1枚も完成させられずに終わった。整頓された作業台の上には不格好に曲げられた残骸が2つ、恥ずかしそうに横たわっている。
昼休憩に入り、僕は昼食を買いにコンビニへ向かう。専門学校から徒歩3分、僕の事を嘲笑う太陽に照らされながら歩く。特に食欲もないので、サンドイッチとエナジードリンクを買って戻る。学校の裏に広がる田んぼとなだらかな山々を眺めながら井の中に昼食を詰め込む。夏日のギラギラした日差しと生ぬるいそよ風を受けた稲穂はふわふわと揺れていた。トンボはそれを羽に受けて命を有意義に使っていた。
エナジードリンクを流し込んで、
その日は結局先生の期待に応えられずに終わり、自主練も目立って成果を残せずに日が暮れる。昨日あまり眠れなかったのもあり、疲れが酷い。
ほとんど防音加工されていないボロの練習室から、寮生のショパン作曲『革命』が流れてくる。入学当初はこんな風に荒々しい情熱が体内で暴れていたのだが、今となっては荒廃した公園に落ちている空き缶みたいに、心が沈黙を貫いている。
永遠にも感じられるこの地獄のような日々は、僕が命を落とすまでずっと続いていくのだ。と、こんなことを毎日のように考えている。考えた数だけ、子供の背丈を柱に刻むみたいに身体に切り傷を増やしていく。
◇◇◇
6月30日 1:34
そんなひび割れた日々をずっと続けるうちに、まるで別人のような、というより今までの自分が偽物で今の僕が本物なような、いや、どうなんだ。もう気が狂いそうだった。
常夜灯を消してしまえば、本物の明かりや不規則に点滅する街灯、トラックがそこかしこにまき散らしていくハロゲンライトとエンジン音、排気ガス。1日で最低でも1回は流れる黒い流れ星の轟音などで、カーテンの外はまるでパレードの様相だ。
「そろそろ寝ないと」と思ったものの、脳内までパレードのように後悔や不安でごった返しているので、嘘つきになる他なかった。
今日はいつもより朝が熟睡している。まるで自分みたいだ。このまま目覚めなければ、どれだけ幸せかしれない、と何度目か分からない希死念慮と、詰まる息。ほんとにそろそろ寝ないと。明日も授業だ。
右太ももの上で微かにずっと同じ歌を歌っているスマホが、ブブッと季節外れな身震いをする。僕はなんとかピントを合わせる。
[今日ストロベリームーンなんだって]
今日の昼は28度、爆音の
会話の内容なんて本当に何でもない。学校がすんごいだるいとか、バイトがどうとか、プライベートに踏み込んでくる先生の悪口だとか。そのひとつひとつに過去の人生の反省会がついて回るのだが、どうにも取れそうにない。服に飛び散ったコーヒーと一緒だ。洗剤桶に1日浸したら取れないものだろうか。業者に頼もうか。電話番号調べるか。
22時には布団に入っていたはずなのに、気付けば日を跨いでいた。
もう随分と詩を書いていない。ギターも立派に埃を被り、いつの間にか3弦が切れていた。授業で仕方なくする音楽を楽しむ心の余裕もない。何があっても手放すことはないと思っていたものが、今まさに指の隙間から零れ落ちようとしている。
何の意味もない深いため息を吐いて、右太ももの音楽を止める。僕に相応しくない柔らかい枕に頭を沈めて、起き上がって、また沈める。そしてまた起き上がる。
秒針と冷蔵庫の寝息の
非常食全部食べちゃったな。いつ買いに行こう。
あの課題、明日までに終わらせないと怒られるな。
母さん、持病悪化したって言ってたけど、大丈夫かあ。紺中夢には
だめだ、
窒息しそうな部屋に呼吸させるためにカーテンを開ける。栄養不足か自律神経が乱れているのか、少し体がふらつく。見事に散らかった部屋が月明りによって暴かれて、開けなきゃよかったと後悔した。
薬を飲み込んでもっと埃っぽいベッドに横たわる。首を傾けて窓から月を見上げた。窓を額縁としてやけにリアルに描かれたそれは、ストロベリームーンというほど色付いてはいなかった。なーんだ。という味気の無い落胆をその辺にぷかぷかと放り投げて、ゆっくりとシャッターを切り、今日もくぐもった夢に溺れる。
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