泡と涙の境界線

cat

第1話 零れ落ちた真珠の涙

泡と涙の境界線バウンダリー







「おい待て!!!」


走る。


「泥棒め!!!!!」


走る。

走る。




……なぜ私は、こんなことをしているのだろう。

身の丈に合わない、綺麗な真珠の首飾りを抱えながら思う。


………こんなことになるのなら、潔く諦めていれば良かったのだろうか。






◇◇◇◇◇◇◇



きっかけは、愛する父の病気が発覚したことだった。


「突然倒れるなんて……無理して欲しくないって、言ったばかりだったでしょう。」

「…すまないな、ルナ。」


私と私の父は、ただの貧しい村人だ。母は私が幼い頃に亡くなり、2人暮らし。海の近くにある村だったため、父は毎日漁に出て魚を捕り、その魚を私が捌いて売って食費にしていた。

もちろん、季節や天候によって左右される職業。飛ぶように売れる日もあれば、魚自体が捕れない日もたくさんある。

そんな日は、私の宝物である母形見のナイフを大切に研いで、心を満たしていた。


そんな、慎ましやかな生活の中だった。歳をとって体力を少しずつなくしていた父に、重い病気が見つかったのは。


「お父様を治すには、高額な薬を飲む他ありません。それ以外では手の施しようがなく……申し訳ありません…。」


なけなしのお金で診療所に駆け込んだが、突きつけられたのは容赦ない現実。

私は魚が捌けても、魚を捕ってくることはできない。捕る魚がなければ、捌いて売ることも不可能だ。


要するに、諦めろ、と言われているようなものなのだ。





「…なぁ、ルナ。」

「…なぁに、お父様。」

「…私はもう、長く生きたよ。」

「……っ!」


縁起でもないことを、父は呟く。


「お前はもう18になるだろう。もう、私に構わずとも生きていけるのだよ。」

「…でもっ…私は、お父様とのお仕事が好きでした…!それ以外の食い扶持など何も…!」

「…お前は大丈夫。器量の良い娘に育ったのだから。……あぁそうだ、家の神棚に、真珠の首飾りがあるだろう。それを売って、当面の生活を賄えばいい。」

「その首飾りって…お母様の大事なものじゃないですか…。」

「その間、生きている間に、私はお前の伴侶を探してやるよう、村長に話をつけておく。器量良しのお前なら、すぐ貰い手もつくだろう。…お前は大人になったんだよ。」


そんな、残酷な話があるだろうか。

私は、魂の抜けたような心地で帰路に着いた。

神棚にかけてあった、母の大事な首飾り。



手に取って、眺めて。



「…お父様の糧に、なるのなら。」



私は、その首飾りをもって、宝石商の所へと向かった。










「こりゃ、バロック真珠じゃないか、はした金にならないよ。」

「…えっ…?」

「んーまぁ年代物だし、ちょっとは高くつけとくから。ほら、帰った帰った。」



何も聞こえない。

静寂だけが私を包んで離さない。



私の手元には、数枚の金貨しか残されていない。

そう、あの思い出の首飾りは、数枚の金貨になってしまったのだ。

父が、愛する母のために働いて贈った首飾りが、だ。

父の病に必要な薬の金額は、少なくとも100枚は金貨が必要。絶望的に足りない数なのだ。



ぽつ、ぽつ。

空は綺麗な夕焼けが滲んでいるのに、私の頬には雨が降っていた。


「っ……お父様ぁっ………!」


もう、限界だ。

私の愛する父はもうすぐこの世を去ってしまうかもしれないというのに、私には何も出来ないのだから。


どうやって家に帰ったか分からなかった。

何も考えられなくなったまま、薄い布団に突っ伏して泣くしかなかった。








どれくらい時間が経ったのだろうか。

すっかり辺りは暗くなって、気味の悪い空気を纏っているような、そんな気のする夜だった。


そんな夜のせいだろう。

絶望のあまり、魔が差してしまったのだ。





町の宝石商の寝息を確認して。


___母の首飾りを、取り返すことにした。


しかし、そんな私の悪行を、天は見逃さなかった。。

近くにあった他の髪飾りが、一緒になって落ちてしまったのだ。



ガチャンッ



怒号を背に、私の足は駆け出していった。







◇◇◇◇◇◇◇






闇の中を、ただひたすらに走る。

街を出て、森をぬけ、山道を登り……


足が、止まる。


「…っ!!」


気づけばそこは崖の上。


「罪人め!大人しく降伏しろ!!!」


あぁ、ごめんなさいお父様。

私はあなたを助けることも、あなたの言いつけを守ることも出来なかった。

せめて、お母様の首飾りだけは守りたかったの。

あなたを助けるお金にすらならない、他人にとっては価値のないものだったとしても。



追っ手の方を向き。

後ずさりしながら。



「___ごめんなさい。」




私は、深い海へと、身を投げ出した。





口に、喉に、塩水が入り込むのがわかる。

高いところから落ちたせいか、足も痛い気がする。

あぁ、このまま、お母様の元へと行けるなら、もうどうでもいいの。


そう思って、私は意識を手放した。




◇◇◇◇◇◇◇



夢を見た。

いや、走馬灯の方が正しいのかしら。

記憶には無い、お母様との光景。


「ねぇ、どうしてお姫様は泡になってしまったの?」

「それはね、お姫様が、心から王子様を愛してしまったからよ。」

「結ばれないの…?」

「王子様が、お姫様の想いに気づいていたなら、一緒になれたかもしれないわね。」

「…??」

「…ふふっ、ルナも大人になれば分かるわ。」


あぁ、お母様。

私は、そんな恋も知らぬまま、あなたの元へ行くことになってしまった。

本当に、ごめんなさい___




◇◇◇◇◇◇◇







___ろ


____きろ!



誰かが私を呼ぶ声がする。

幻聴だろう。

私は海に沈んだというのに、声が聞こえるわけが無い。



「起きろ!!!」

「__っ?!」


耳につんざく低い声で目を覚ました。

どうやら私は、生き延びてしまったらしい。


「死んで償おうとしたのか。」


腕章のついた上官らしい男が、しゃがんで目線を合わせようとする。


「…………。」

「…まぁいい。ここはどこだか分かるか?」


横になったまま、目だけで辺りを見回す。

灰色の壁、天井。

そして窓についている格子。

つまり、そういうことだ。


「ここは牢屋だ。お前、名前は?」

「……っ………。」


声が、出なかった。

男による威圧から?

違う。

それとも、海に落ちた衝撃で?

違う。


一目惚れ、とでも言うのだろうか。

目を覚まして、視界がクリアになった時から、なぜだか目が離せない。

この方が、助けてくれたのだろうか。


「………ん?」


私が何も喋れないでいると、彼はこちらに手を伸ばして。


「っ!」

「……顔が、赤い。海に落ちたから、きっと熱を出したのだろう。」


額に触れる。

冷え性の私とは違う、暖かい手。


「…仕方がない。どうせここから出られないのだし、俺が面倒を見よう。」

「………ぇ…?」

「俺は、ベリル・ジルビア。この牢獄の守衛と監視をしている騎士だ。何かあれば俺に言え。とはいえ、出すことは出来ないが。」


そう名乗って彼は立ち去ろうとする。



待って。

お願い。

もう少しでいいの。

声を聞かせ______




ガシャンッ!!!




私が掴んだのは、彼の腕ではなく、格子戸。

力が抜けて、ズルズルと座り込んだ。





あぁ…私は。





お父様の為と、偽善者ぶって。


罪を、働いて。


あまつさえ、死のうと、したのに。


この期に及んで。








叶わぬ恋をしてしまったのね。










格子窓の雨避けに降る雨の音をいいことに。

私は、声を押えて、頬に雨を降らせたのだった。







続く_____

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