51.戦いの時
「ラグサは知っている?」
アイリスは頷いた。
「昔、行商人が宿泊していた宿屋ね」
「ええ。あそこがわたしたちの前線の指揮本部になっているはず。でもあそこまでどうやって」
「わたしが幼い頃から慣れ親しんだエリア。屋敷跡を抜けて……川沿いに北進するわ」
「川沿い……」
ユーラはしばらく考えていた。
「銃は一切使えない?」
アイリスは首を横に振った。これがこの国の現実だった。戦争の音が近づいてもなお、国民の大部分は武器に触れたこともなく、職業軍人しかいなかったのだ。
「分かったわ。けど、無理だと思ったら絶対に引き返してきて」
ユーラのその言葉でアイリスは走り始めた。
ダージャ・ランツにはいくつかの細い川が流れていた。メインとなる大きな川の支流であった。
住居エリアからラグサがある行政エリアまで行くには、メイン通りを行けばアイリスの足でも十五分程度で着くはずであった。
しかしその道はすでに南側から進軍してきていたアンデ兵士たちがいるはずであった。
――あの道が行けないのなら、少し遠回りになっても屋敷街を通って川を北に上るしかない。
川土手は他より低くなっていたし、そこで身を隠しながら進む方が敵軍に見つかることなく行けると思った。
北部に近づくにつれ、砲弾に加えて小銃の音が鳴り響いていた。武器庫のあたりが、暗闇の中ぼうっと明るくなっていた。
アイリスはなんとか北部エリアにたどり着いたが、屋敷街からラグサまで一箇所、東側から西側に折れなければいけなかった。ただ、その辺りは、アンデの兵士がかなりいる。
「真横に突っ切れない……」
ここまで身を隠しながらも、かなりのスピードで来たアイリスは肩で息をしていた。
――あの先の橋の下を、川を渡るしかない。深さも流れもない。
この冬の時期に川に足を突っ込むなど、考えただけで身を切られるような寒さだったが、それしか方法が思いつかなかった。
「あっちだ!」
「上官の数が少ない!!」
あちこちからアンデの兵士たちの声が響いていた。
アイリスはなんとか川土手までたどり着いた。
ここを渡って西側に回れば、すぐにラグザに着く。
その時であった。
「待て! 動くな!」
アンデの兵士に見つかった。
アイリスは咄嗟に両手を上げて、その場で静止した。
「お前、どこに行く」
小銃を持ち上げるような音がした。恐らく、今その銃口は自分に向いているのだろう。
――殺される……。
本能的にアイリスは全身で感じた。
――終わる。全てが終わる。人生があっけなく終わる……。
全身の血流が逆流するように感じ、その後一気に血の気が引いた。
卒倒しそうになる自分をなんとか保たたせる。
その時だった。
「どうした!」
すぐ後ろで声がした。
「今、ここで人が」
近づいてきた、その人は、アイリスの前面に回り込んできた。
目が合った。
その人は銃を構える振りをしながら、もう一人の男に言った。
「ここはわたしが引き受けた。お前はあちらでライナス大佐の軍に追いつけ。いいか、深追いはするなよ!」
アイリスは震えが止まらなかった。
「手を降ろせ」
動きやすいように、いつものワンピースではなく、運動用のズボンを履いていた。この国では女性も運動用にこのような格好をするが、夜に明らかに不自然な格好であった。
「このまま川を渡るのか」
その兵士、ルーカスは聞いた。
手を降ろしながらアイリスは頷いた。視線はずっとルーカスを捉えていた。
何かを言おうと、ルーカスは口を開きかけたが、アイリスの顔を見てやめた。
一瞬の間のあと、ルーカスが再び口を開いた。
「こんな戦闘の一番激しいところで、武器も持たず……」
ルーカスは自分が被っていた鉄製のヘルメットをアイリスに渡した。武装具も、アンデはポリシアより進んでいた。鉄製のヘルメットはポリシアではまだあまり普及していなかった。
「これを被っていけ。少なくともこれを被っていれば、我が軍に見られてもすぐには撃たれまい」
アイリスは何も言わず、それを受け取った。
「もう二度と会えないかもしれない。……だが、死ぬな」
ルーカスは真っ直ぐにアイリスの瞳を見て言った。
周囲の銃弾の音や怒声が激しく聞こえていたが、アイリスはその一瞬、世界の音がすべて止んだように聞こえた。
しんとした中に、ルーカスと二人。伝えたいことはたくさんあった。
――あなたに触れたい。あなたに伝えたい。あなたが愛しいと全身全霊で伝えたい。
だがしかし、アイリスが絞り出せた言葉はこれだけであった。
「あなたも……生きて。必ず」
アイリスのその言葉を聞いて、ルーカスは少し微笑んだ。
その時間は、二人にとってひどく長く感じた。だが、実際の時間は一分にも満たなかった。
ダージャ・ランツに久しぶりに出張で来たルーカスは、偶然アイリスと街中で再会した後、その衝撃にしばらくの間は何も考えることができなかった。
自分の中で彼女を愛しいと思う気持ちと、自分の元を去ってなお、会いたいと思う気持ちを抑えきれなかった。
――明後日、彼女に会えるのだろうか。
暖炉の中の薪が、パチッと音を立てて崩れた。
それを見つめていたルーカスは、立ち上がった。
明後日という言葉に、一瞬大きく反応していたアイリスをルーカスは見逃さなかった。
ダージャ・ランツの地図を机の上に広げ、街につながる三本の道を順番に見た。
「北、南、西に道が三本……。北はともかく、南への道になんらかの障害が出ると、本国からの連絡に支障をきたすな」
それはわかりきったことであったが改めて地図を見ると、外と繋がる道が少ない分、援軍などを呼びにくい造りである。
「守りやすいが、逃げ道も少ない……か」
ルーカスは最近の報告で、北部の抵抗勢力が弱まってきていると聞いていた。
以前より武力衝突も減っているし、どうやら規模が縮小してきているようだと。
だが、ルーカスにはその理由が分からなかった。
――以前と比べて、抵抗勢力に加わる者が減ったようには思えない。アイリスのようにアンデから逃げ帰る者もまだ一定数いる。その手引きをしている者たちもいるのだ。
不審に思い、今回の視察が決まった。少ししたら特別部隊を率いてもう少し北部へ行く予定であった。
――アイリスは何かに巻き込まれているのか……。
アイリスは自らの意思でここに帰ってきたはずなのに、まだどこかでアイリスが受け身でいることを願う自分に呆れていた。
だがしかし、アイリスの予感通り、ルーカスは警戒心を強め一番近くのポリシア中部に駐屯させている統治軍に連絡を出した。
上官を説得させるのに多少の時間は要したが、秘密裏に一部の部隊を首都近くまで移動させていたのだ。
そしてそれが、あの戦闘が始まった夜に、アイリスが見つけた北進する部隊であったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます