28.その先へ

 アイリスは、国外逃亡の話をその翌日ユーラに持ちかけられた。

 この話をすれば決行までは日がない。明日、決行するという。

 事前に話しておけば、決行までの間に必ずどこかで顔や表情に緊張が出る。そこからばれてしまう可能性が大きいため、このような話は直前までしないと言う。


 ――国に帰る。


 アイリスの動揺は想像以上に大きかった。

 これが、ルーカスに出会う前の自分なら即決であっただろう。

 アイリスの迷いを察したユーラがすかさずに言った。

「ダンテが待っているわ」

 その言葉にアイリスの表情は一変した。

「ダンテが!?」

 あの首都陥落の日、たくさんの死者が出た。民間人も巻き込んで。政府所で働いていたダンテは、最後まで首都にいたのではないか。

 その後の消息は一切分からなかった。自分自身も捕虜としてアンデに来たため、もう一生その行方を知ることはないだろうと思っていた。

 ユーラがどうやってポリシア内の人たちと連絡を取っているのかまでアイリスには

分からなかったが、少なくともポリシアに帰りを待ってくれている人がいると知らされて、心が色めいた。

 母や、姉たちもいるのだろうか……。

「ダンテはあなたの家族の居場所を知っているそうよ」

 アイリスの心を読んだように、ユーラが続けた。

「家族……父も!?」

 その言葉に、アイリスは激しく動揺した。

 だが、ユーラは静かに首を横に振った。

 母親や姉妹の無事には心底安堵したが、父親のことは、覚悟はしていたがショックが大きく、アイリスはうなだれた。

「あなたにどこまで話せばいいのか、わたしも判断しかねていたの。けど、あなたの帰りを待つ人たちがいるわ」

 ポリシアに帰り、家族や大切な人に会いたいという気持ち、望郷の念はアイリスのを掻き立てた。


 そして、今に至るのだ。ポリシアに帰ってきたのだ。

 アイリスは興奮していた。だが、一方で心の一部は一生アンデに囚われたままになるだろうと思った。

 ルーカスは……わたしに一生切り離せない鎖をつけたのだ。わたしが去った後、彼はわたしを憎むだろう。

 ――どうか、憎んで、そして忘れてください。わたしはその代償として、あなたから離れることを許されない心の一部を、きっと一生抱えて生きていく。

 

 アイリスが去った後、ルーカスは彼女の部屋を再び訪れた。

 アイリスがいなくなったこと、反逆罪を恐れた家族や屋敷の者たちは、アイリスの存在など初めから一切なかったような振る舞いであった。

 ――なかったことにするのだ。彼女の存在も、ここで過ごしたことも。

 あの夜、いつもと少し様子が違う彼女に、どこかで気付いていた。だが、自分を選ぶのでは、ジュリアとアイリスは違うと、どこかで信じたい自分がいた。

 しかし、そんな自分が信じる心を嘲笑うように彼女は去っていったのだ。

 ――一生恨めばいいのか……。

 どうしようもなく腹立たしい気持ちと、悲しい気持ちと、感情が入り混じっていた。ふと、クローゼットの隅に本が置いてあるのが見えた。

 自分が渡した歴史書であった。

 本にはしおりはもうなかったが、代わりに一枚の紙切れが挟んであった。

『愛している』

 何かの包み紙の破片に書かれていた。

 誰に対して書かれたものかも分からない。アイリスが書いたとも言えない。彼女の文字を見たことはなかったからだ。

 だが、それを見つけたルーカスは、その文字を読んだ瞬間に自分でも驚くほど自然と涙が流れた。

 どうしてこんなに涙が流れているのか、ルーカスは自分自身にも理解ができなかっ

た。

 誰かに愛していると伝えられることが、これほどまでに心を締め付け、苦しくさせるのか。もう二度と会うことがないであろう人。この思いをどうやって昇華させればいいのか。

 ジュリアの時は、何も言葉は残されなかった。いや、残す暇もなかったのだろう。彼女がどこまで真実で、どこからが嘘だったか今となっては全く分からない。

 けれど、アイリスは……。

 不毛な問いだと分かってはいたが、何度も同じ問いを、これからずっと問い続けるのかもしれない。心の一部が彼女に持っていかれたままであった。

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