ノクティルカの深淵 ーThe Abyss of Noctilucaー

ねむたん

ノクティルカの森にて

第1話 ノクティルカの洋館

ノクティルカの忘れられた森は、ただの森ではなかった。陽光は葉の重なりに吸い込まれ、地上へ届くのはわずかな木漏れ日だけ。風が吹いても木々は微かに揺れるばかりで、森の奥深くへ進むほど、音は吸い込まれるように消えていった。霧がたちこめる朝には、まるで息をする森そのものが目覚めるような気配が漂う。だが夜になると様相は一変する。かつて人々が語り継いだという光の現象――月明かりが樹々の間で揺れるように反射し、夜空の星と競うような幻想的な輝き――今は誰も見たことがない。ただの伝説となり、森の名前だけがそれを記憶している。


森の奥深くに踏み込む者はいない。その静けさと孤独を感じると、どんな冒険者も引き返してしまう。だがその心臓部には、一棟の洋館があることを誰も知らない。




その洋館は、森の中でも異質な存在だった。黒い石造りの外壁は蔦と苔に覆われ、どっしりとしたゴシック様式の建物は、まるで時間が止まったかのような威厳を漂わせている。開かれることのない大きな扉。外壁に絡みつく蔦が隙間なく覆い、外界からの侵入を拒むかのようだ。


しかし内部は別世界だった。ヴァレリオの長き生の記憶が息づく場所。石造りの冷たい床の上に敷かれた高価な絨毯、壁には時代を感じさせる絵画が整然と飾られている。暖炉にはいつも薪がくべられ、夜はゆらめく火が部屋全体を温かな光で包んでいる。広い窓から見えるのは森の深い闇だけだが、その静寂こそが彼には心地よかった。


ヴァレリオが眠りにつく以前、この館には同族の吸血鬼たちが集っていたという。だが、目覚めた彼の周りには、もう誰もいなかった。それでも、彼にとっては孤独であることが当たり前のように思えた。少なくとも、セラフィーナに出会うまでは。




セラフィーナは窓辺に座っていた。淡い金髪が揺れるたび、まるで光を纏っているように見える。彼女の手元には小さな花瓶があり、森で摘んできた野の花が生けられている。白と紫の花々は洋館の冷たさに少しだけ温もりを添えていた。


「セラフィーナ」

ヴァレリオの低い声が部屋に響く。


彼女はすぐに顔を上げて笑みを浮かべた。彼の足音が近づくたび、その笑顔は少しずつ明るくなる。部屋に入ってきた彼は、手に小さな本を持っていた。


「読んであげようと思ってね。退屈していないかい?」

「退屈なんてしてないよ」彼女はすぐに応える。「あなたがここにいる限り」


彼はそれに満足げな微笑みを返し、彼女の隣に腰を下ろした。本の表紙を開き、ゆっくりと読み始める。セラフィーナは、彼が読む物語よりも彼の声に耳を傾けていた。深く、柔らかく、時折彼女を包み込むような響き。それだけで彼女の心は満たされた。


だが彼の視線が本から離れ、彼女の顔に留まったのを彼女は感じ取る。ふと目を上げると、彼は静かに微笑んでいた。その微笑みにはどこか危ういものが潜んでいたが、セラフィーナにとってはそれすらも心地よい。


「セラフィーナ、ずっとそばにいてくれるだろう?」

「もちろん」彼女は迷いなく応えた。「私はあなたのものだから」


その言葉に満足したように、ヴァレリオは再び物語を読み始める。だが彼の声には、先ほどよりもわずかに熱がこもっているように感じられた。




セラフィーナが目を覚ましたとき、窓の外にはまだ薄い霧が立ち込めていた。ノクティルカの森の朝はいつも静かで、外界から隔絶された洋館は、時の流れを忘れさせるほど穏やかだった。


彼女はベッドの上で体を起こし、少しぼんやりとした頭を軽く振る。視線を向けると、すでに目を覚ましているヴァレリオが部屋の隅の椅子に座っていた。彼の黒い髪は朝の柔らかな光を受けてわずかに輝き、その端正な顔立ちはどこか静謐な雰囲気を漂わせている。


「ヴァレリオ、どうしてそんなに早く起きてるの?」

セラフィーナは声をかけながら小さく欠伸を隠した。


ヴァレリオは本を閉じ、彼女に目を向けると微笑んだ。その微笑みは穏やかだったが、どこか彼特有の深い孤独を感じさせるものでもあった。

「君が眠っている間に、一人で過ごす時間も好きなんだ。こうして静かに君の寝顔を見守るのも悪くない」


彼女はその言葉に少し驚きながらも、微笑みを返す。彼の言葉は時折心をくすぐるようで、彼女を安心させるのと同時に、胸の奥に妙な暖かさを残した。


朝食の準備は、ふたりの日課だった。ヴァレリオは紅茶を淹れるのが得意で、セラフィーナは小さなパンケーキを焼くのが好きだった。広いダイニングルームのテーブルには、湯気の立つティーカップと、金色に焼き上がったパンケーキが並んだ。


「今日は少し焦げちゃったかも」

セラフィーナはパンケーキを皿に載せながら、申し訳なさそうに笑った。


「君が作ったものなら何だって美味しいよ」

ヴァレリオは穏やかな声で言いながら、カップを彼女の前にそっと置く。


ふたりは向かい合って椅子に腰掛けると、静かに食事を始めた。洋館の中は暖炉の薪がはぜる音だけが響き、ふたりの朝の時間を満たしていた。


セラフィーナがパンケーキを一口頬張るたび、ヴァレリオの視線が彼女に向けられているのを感じた。彼の深い青い瞳がじっとこちらを見つめていることに気づいたとき、彼女は思わずフォークを止めた。


「……何?」

恥ずかしそうに尋ねると、彼女の頬がわずかに赤く染まる。


「ただ、君がそこにいるのが嬉しいだけだよ」

ヴァレリオは静かに微笑んだ。その言葉には嘘が一つもないようだった。


セラフィーナは視線をテーブルに落としながら、小さく笑みを返した。「そんなふうに見られたら、なんだか落ち着かないよ」


「そうかい?」

彼は少し首を傾げたが、それでも視線を逸らすことはなかった。


ふたりの朝はいつもこんなふうに、穏やかで優しい時間が流れていく。だが、その静けさの中には、言葉にはならない感情が確かに潜んでいるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る