運命の章 5話

夜の帳が大地を覆い尽くし、星々が天蓋に瞬く刻限。明保能阿久刀は愛馬に跨がり、隼人殿から己が屋敷へと続く街道を駆けていた。蹄の音が規則正しく地を打ち、夜気を切り裂く風が頬を撫でる。だが阿久刀の心は、この穏やかな夜の静謐とは裏腹に、波立つ水面のように揺れ動いていた。

手綱を握る手に力が籠もる。兄・十勝が口にした「特使」という二文字が、脳裏を離れることなく反芻される。

――勅使ではなく、特使。

この差異に、阿久刀は言い知れぬ不安の影を見出していた。朝廷の最高位である太政官長、大炊御門経頼が薨去すれば、通常であれば勅使が諸国に派遣されるはずだ。それが慣例であり、秩序であり、朝廷の権威を示す儀礼でもある。しかるに特使とは何か。

「朝廷は勅使を送らぬのではなく、送れぬのか」

阿久刀の呟きが夜風に消える。高天が倒れ、経頼が数日のうちに薨去する。この事実が朝廷内部にどれほどの衝撃を与えているか。派閥の力学が崩れ、権力の空白が生じる。そこに群がる者たちの思惑が、複雑に絡み合い、もつれ合う。まるで嵐の前の海のように、表面は静かでありながら、深層では激しい流れが渦巻いているのだろう。

二十年前の内戦。明保能岩雄が起こした大乱。北地を血で染めたあの惨劇を、阿久刀は鮮明に記憶している。権力の空白がいかなる惨禍を招くか。血を血で洗う抗争が、どれほど多くの命を奪い、家を滅ぼし、大地を荒廃させるか。その記憶が、阿久刀の胸に重く圧し掛かる。

「また、あの時のような……」

思考が深淵へと沈み込もうとしたその時、阿久刀は己が無意識のうちに馬の速度を上げていることに気づいた。愛馬は主人の焦燥を感じ取り、本能的に疾走していたのだ。蹄の音が激しさを増し、風が耳元で唸りを上げる。

街道の両脇には古い家屋が立ち並び、その間を縫うように細い路地が無数に伸びている。昼間は商人や職人で賑わうこの一帯も、今は人影まばらだ。所々に灯る篝火が、石畳に揺れる影を落としている。

その時だった。

薄暗い路地から、突如として人影が飛び出してきた。

「うお!?」

阿久刀の反応は瞬時であった。手綱を強く引き、全身の筋肉を使って馬を制御する。馬は激しく嘶き、前脚を宙に跳ね上げた。石畳に火花が散る。間一髪のところで、馬は停止した。

人影――外套で頭から膝までを隠した小柄な者は、幼い悲鳴を上げて尻餅をついた。その声の高さと質から、年若い女であることが分かる。

「無事か!?」

阿久刀は馬から飛び降り、駆け寄った。相手の安否を確かめようと手を差し伸べる。だが、少女はその手を激しく打ち払った。

「触れないで!」

鋭い拒絶の声。その瞬間、外套の頭巾がほどけ、少女の素顔が月光の下に晒された。

阿久刀の動きが、完全に止まった。

言葉を失った。呼吸すら忘れた。心臓が不規則に脈打ち始める。

薄めの褐色の肌。紫色を帯びた黒く長い髪。凛とした顔立ち。そして何より、その瞳に宿る強い意志の光――

「……紫……?」

阿久刀の唇から、掠れた声が漏れた。今は亡き愛娘の名が、自然と口をついて出る。

目の前にいるのは、紫の生まれ変わりではないのか。いや、そんなはずはない。理性がそう告げる。だが、この瓜二つの容貌は何なのだ。なぜ、なぜこれほどまでに似ているのだ。

阿久刀の額に、じっとりと脂汗が浮かぶ。手が微かに震えている。己でも驚くほどに、動揺していた。

「あてぃや」

遅れて路地からもう一人の少女が飛び出してきた。先ほどの少女――アティヤと呼ばれた者――に駆け寄る。

こちらの少女はすでに頭巾を外していた。白い肌、白亜色の髪。月光を受けて、その髪は淡く発光しているかのように見える。その姿は、人ならざる者の気配を纏っていた。

阿久刀は一瞬、この少女に見覚えがあるような気がした。だが、それが何なのか、思い出すことができない。

「ゆるしてください」

白髪の少女は、アティヤを庇うように立ち、地面に転がっていた桶を拾い上げると、阿久刀に向かって投げつけた。

阿久刀は身体を僅かに傾けるだけで、それを躱した。そして同時に、白髪の少女の手首を掴み、優しく寝かせるようにひねりを加える。少女の身体が宙を舞い、地面に押さえ込まれた。

「あう……」

「お前たち、何者だ?」

阿久刀の声は低く、だが威圧的だった。この状況の異常さに、彼の武人としての警戒心が目覚めている。

「あてぃや。にげてください。にげてください」

白髪の少女は、押さえつけられながらも、必死にアティヤに呼びかける。その声には、深い慈愛と献身が込められていた。

アティヤは躊躇いなく立ち上がり、来た路地へと引き返そうと走り出した。だが、一歩遅かった。

アティヤの傍らに、突如として巨大な白狼・碧天が姿を現したのだ。その顎が、優しくも確実にアティヤの首筋を甘噛みする。

『抗えば、柔い首肉を喰ろうてやるぞ』

碧天の低い声が、静かな脅しとして響く。アティヤの顔が、恐怖に引きつった。

阿久刀は白髪の少女から手を離した。少女に抵抗する素振りがなかったこと、そして何よりも、不敬罪を犯しているような奇妙な感覚に苛まれたためだった。

その時、路地の奥から野太い声が響いた。

「あそこだ!」

四人の男が、抜き身の短刀を握り締めて突進してきた。その目は血走り、殺気を帯びている。

「そいつを離せ!」

男たちの意図は明白だった。この二人の少女を追っていたのだ。

「碧天」

阿久刀は静かに告げると、腰に下げた咒刀の柄に手を添えた。指が柄を撫で、刀身が微かに震える。咒刀が主人の意志に呼応しているのだ。

『存分にやれ』

碧天の言葉を合図として、阿久刀は動いた。

その動きは、流水のようであった。四人の男が放つ太刀筋を、阿久刀は紙一重で躱していく。身体が風のように翻る。そして、抜刀。

一閃。

咒刀の刃が月光を反射し、銀色の軌跡を描く。

ごろり、ごろりと、四つの頭が地面に転がり落ちた。胴体がよろめき、血飛沫を上げながら倒れる。切断面は驚くほど滑らかだ。阿久刀の剣技の冴えを物語っていた。

「あぁ……!」

アティヤが悲鳴を上げた。その顔は蒼白になり、恐怖と衝撃で震えている。

阿久刀は咒刀を鞘に納めると、まず白髪の少女の後ろ首を掌で打った。寸分の狂いもない一撃。少女は声も上げずに意識を失い、阿久刀の腕の中に崩れ落ちる。

次いで、碧天が押さえていたアティヤにも同様の措置を施す。アティヤもまた、意識を奪われた。

『さて、この童ども。どうするつもりだ?』

碧天が、低い声で問う。その金色の瞳が、阿久刀を見つめている。

「……連れていくさ」

阿久刀は白亜色の髪の少女を抱き上げた。その身体は驚くほど軽い。まるで羽毛のようだ。血と肉で構成された人間の身体とは思えない。別の何か、より高次の存在で形作られているかのような感覚を、阿久刀は覚えた。

『こやつらの匂い。一人はおそらく――』

「よせ。屋敷で聞く」

阿久刀は碧天の言葉を遮った。ここで全てを知ることは、危険だと直感したのだ。

『ならよい』

碧天は四つの死体まで足を進めると、顎を大きく開いた。そして、一呑みにする。骨の砕ける音さえ聞こえない。まるで幻であったかのように、死体は消失した。

『いつの世も、人の肉はまずい』

「すまん」

『口直しの菓子がほしい』

「最高の菓子をやる」

阿久刀は二人の少女を馬に乗せた。荷物を括りつけるように、慎重に固定する。そして自らも鞍に跨がると、馬を全力で走らせ始めた。

夜風が激しく顔を打つ。馬の蹄が石畳を叩く音が、規則正しく響く。

駆けながら、阿久刀はアティヤの顔を見つめていた。

あまりに似ている。紫に、あまりにも似ている。

なぜ、このような偶然があり得るのか。なぜ、自分は今、紫と瓜二つの少女と出会ったのか。

奥底に沈めたはずの感情が、堰を切ったように甦ってくる。愛しさ、悲しみ、後悔、自責――様々な感情が、阿久刀の胸を引き裂く。

胸が痛い。まるで咒刀で抉られるような、鋭い痛みだ。

「紫……」

阿久刀の唇が、再び亡き娘の名を紡ぐ。その声は、夜風に呑まれて消えていった。

碧天は、そんな阿久刀の横を並走しながら、何も言わなかった。ただ、その金色の瞳には、深い憂慮の色が浮かんでいた。

屋敷までの道のりは、阿久刀にとって永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。心は過去と現在を行き来し、理性と感情が激しく揺れ動く。

果たして、この出会いは偶然なのか。それとも、何か大いなる意志によって導かれたものなのか。

阿久刀には分からなかった。ただ一つ確かなことは、この夜の出来事が、彼の運命を大きく変えることになるということだった。

月が中天に昇り、星々が静かに瞬く。夜の帳の下、一頭の馬が二人の少女を載せて、暗い街道を疾駆していく。

その姿を、運命の女神は、どのような眼差しで見つめていたのだろうか。

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