第四十八章

 電話はロバートからだった。

集まってミーティングをする約束のリマインドだった。

トニーは通話を終えて茫然とした。

ジェシカと生活することだけを考えて、音楽活動のことは微塵も考えていなかった。

母親と暮らしていた家から、ここまでは半日かかる道のりだけど…。

この家からミーティングの為に行くロバートのスタジオまでの距離は更に遠かった。

バスや列車を乗り継いで…どれだけ急いでも帰りはタクシーに頼るしかない。

ジェシカから離れたくないのに。

だけどミーティングには行かなくては…。

ミーティングは何回も行われる。

そのうちレコーディングが始まったら何日も帰ってこられない。

ジェシカが自分の境遇を受け入れて彼女の心が落ち着いたら…音楽活動に支障がない場所に引越しよう。

あまりにも考えなさ過ぎた。

「トニー」

ジェシカが呼んだ。

「うん?なに?」

振り返ると彼女は相変わらず遠い距離を保っていた。

「買うもの決まったわ」

「ああ、うん解った…ねぇ、ジェシカが、そんなに嫌なら俺、指一本触れない。キスも我慢する。近付かないよ。だから、そんな誘拐犯でも見るような目で見て露骨に距離を置かないでくれないか…」

泣きそうになりながらトニーが言った。

実際、悲しくて泣き出してしまいたい。

こんなはずじゃなかったのに。

愛し合っていたはずなのに。

もし逆の立場だったら、どうしていただろうか。

俺が死んで生き返ったら…ジェシカは嬉しいと思ってくれるんじゃないか?

もしも俺が一度死んで生き返ってジェシカに会えたら嬉しくてたまらないのに。

涙声で言うトニーの言葉にジェシカは答えなかった。

「アップルパイ、冷蔵庫に入っているから自由に食べてね。紅茶もコーヒーも、どうぞ」

トニーは、そう言って自分の部屋に入った。

パソコンで通販の手続きを済ませてからトニーは庭に出てマウンテンバイクの点検をした。

ここから一番近い駅までマウンテンバイクを飛ばしても一時間はかかる。

トニーは家の内見に来た時に列車を使わなかったことを思い出した。

──家からここまではバスとタクシーを乗り継いで帰りは不動産業者が途中まで送ってくれたんだっけ。

部屋に戻ってロバートのスタジオに行くまでの経路を調べた。

この家に帰ってくる為に最寄り駅に終電で間に合うように帰ってくるのは不可能だった。

バカだ、俺…。

今回は、とにかく一晩家に帰れないことは仕方ない。

留守中にジェシカは逃げ出さないで居てくれるだろうか。

いや、逃げても彼女が行く場所なんてない。

ジェシカの心が落ち着いていなくても早急に引越しよう。

こんな僻地に住むのはダメだ。


ディナーの時間にトニーはジェシカに一晩帰ってこられないことを話した。

ジェシカは無言で頷いた。

「ごめんなさい、トニー」

少しの沈黙の後にジェシカが呟いた。

「うん?」

「私が生き返ったことを素直に喜んでくれて、こうして食事も用意してくれて感謝しているわ…世界中の他の誰でもない、トニーだから、トニーじゃなかったら、私、化け物扱いされてもおかしくない境遇にいるのに。さっき、やっと解ったの。恩知らずだわ。ごめんなさい」

ジェシカの美しい青い瞳が涙で潤み、涙が溢れ頬を伝ってポタポタとテーブルに零れた。

彼女は昼間、トニーが涙ぐみながら自分に指一本触れないと言った彼を見て心が動いた。閉じ込める云々より自分を支えたいと言ってくれて、家まで用意して…トニーが作ってくれたアップルパイは絶品だった。トニーは私が自殺する前も後も変わらずに接しているのに。どうして彼を拒む理由があるだろうか…。

「いや、謝らないでよ。ジェシカは何も悪くないじゃないか」

トニーはテーブルの上のジェシカの手を握ろうと伸ばしかけた自分の手を止めた。

──俺、指一本触れないって言ったばかりじゃないか。

「あ、オニオンスープおかわりする?」

引っ込めるトニーの手をジェシカが、そっと握って席を立つと身を屈めてトニーの唇にキスをした。

「トニーだって何も悪くないわ」

トニーも席を立ってテーブルを迂回してジェシカを抱き締めた。

ジェシカは逃げようとしなかった。

トニーは、もう我慢出来なくて何回も何回も唇にキスをした。

「あ、ごめん、俺…」

トニーは放そうとしたがジェシカは離れようとせず逆にトニーを抱き締めた。

「ジェシカ…ひとつだけ…お願いがあるんだ」

重ねた唇を、ほとんど離さないでトニーが言った。

「なに?」

「もう、もう二度と自殺なんて…考えないで。お願いだ。俺、ジェシカを支えたいんだ」

言葉の後半は嗚咽混じりだった。

「二度としないわ。ごめんなさい、ごめんなさい、トニー」

謝り続けるジェシカを頷きながら抱き締めた。

トニーはジェシカを抱き抱えて寝室に行った。

ベッドに寝かせて彼女が着ているトレーナーを脱がそうとするとジェシカがトニーの手を止めた。

「嫌?その、そうだよね…ごめんね。昼間に指一本触れないって言ったばかりなのに」

「違うの…、綺麗に縫合されているけど…傷が」

ジェシカは司法解剖されていた。

「俺、気にしないよ。ジェシカ、綺麗だ」

トニーはジェシカにキスした。


白んできた空に夜空の星が消えていく早朝、目覚まし時計の音にトニーが飛び起きた。

隣で眠っていたジェシカも目を覚ました。

「ごめん、起こしちゃって」

「ううん、一緒に起きたかったから。見送りさせて」

ジェシカが言いながらキスした。

一晩を一緒に愛し合って過ごした二人は元の恋人同士に戻っていた。。

二人で一緒に朝食を済ませてトニーがマウンテンバイクに乗って出発する姿をジェシカは見送った。

自分が吸血鬼になってしまうかもしれない問題は解決していないけどトニーは寄り添ってくれる。

これ以上、心強いことはない。

ひとりぼっちではないのだから。

トニーの姿が見えなくなって、ジェシカが家に戻ってドアを閉めた途端に背後から声がした。

「やあ、ジェシカ。はじめまして、だね」

アガロンが鍵を締めたはずの玄関ドアの前に腕を組んで立っていた。



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