わかればなし
寒い日だった。手先すら凍えてしまって、まるで感覚がない。吐き出す息は嫌に白く、それが現実世界を霞ませる霧に見えた。凍ってしまった肺が必死に冬の空気に潜む酸素を探し、俺を生かしてくれている。
一秒、一秒と時が過ぎ去っていく中で、結衣は白く息を吐き出しながら言葉を紡いだ。
「別れよ、颯斗」
二十九歳の冬。時が過ぎるのも早いもので、俺たちは付き合ってから四年が経っていた。最大限の愛が交差する世界は確かに居心地が良かった。周りの目や法律も気にならないくらい、お互いに没頭した四年間は、無駄じゃなかった。
けれど、こうも考えられた。
俺たちの愛は永遠じゃない。
仕事が忙しくなるにつれすれ違っていく心。会うことも話すことも少なくなって、好きなはずなのに一緒にいる事が苦痛になってしまっていた。
きっと、必ず終わりのある愛だったんだ。ほんの少し前からこうなる気はしていたから別に驚きはしなかった。
「理由、聞いてもいい?」
家路に着くほんの直前。家を出て十秒の分岐点に俺たちは立っていた。
「私のエゴ、だよ」
「それじゃあわからんよ」
ふふ、と笑いを零して結衣の方に近づく。数歩の距離はすぐに縮まって、お互いが吐き出す息が混じり合う近さになった。
ごめんね、と結衣は一言俺に謝った。
可哀想な人だなぁ、と俺は目を細めて結衣を見る。このまま俺が手を離せば、死ぬほどの後悔に追われてしまうだろう。その時のことが、俺には手に取るように分かる。いや、嫌でも分かってしまう。伊達に四年近くこいつの隣に立っていない。
「私と、別れてくれるの」
「うーん、どうしよっかな」
「颯斗、」
「ごめんごめん。ちょっとくらい悩むふりくらいさせてよ。どうせ結果は同じなんだからさ」
はにかみながら結衣に待ったをかけて、この関係を少しでも長引かせるように空間を空ける。くすくす笑うと、結衣は眉をひそめた。俺の策略に気づいていなきゃいいけど。俺の中の、まだ溶け切ってない熱が冬の寒さに対抗して燃える。このまま、溶けてしまえばいいと何度も思った。
「あー、どうしよう。このまま溶けちゃいたい」
「雪と一緒に?」
「うん。形も残らないような終わりになって欲しい。結衣もだろ?」
結衣はぎこちない笑みを浮かべ、一拍置いて。
「そうかも」
と答えた。
「やっぱり、分かっちゃうよな」
自分のこと、相手のこと。相手より先に自分が答えを口にするのは、言葉に出来ない優越感がある。
「そろそろ終わりにしよっか」
結衣までの数十センチを詰めて、距離をゼロにする。離れると、結衣の驚いた顔がすぐ近くで見えた。時が動いて、俺と結衣の関係を引き延ばしてくれていた。
ねぇ、ちゃんと終わりにするからそんな顔すんなよ。
唇に残った温度を感じながら、俺は結衣から二歩下がる。
「ありがとう。ありがとう、結衣」
俺の想いだって、心だって、溶けてはくれなかった。ただ、そこに愛としてあり続けた。
「俺を一番愛してくれて」
俺がお前以外の誰かと付き合っても、結婚しても、俺はお前を忘れることはできない。これは予想じゃない。確定だ。
「俺も、お前を一番愛してた」
それでも、わざと過去形にして結衣を俺から解放させた。まるで俺に心残りがないように錯覚させて、その顔に安堵を刻み込ませた。
結衣は何も言わなかった。何も言わず、ただじっと俺の言葉に耳を傾けてくれていた。
季節は初冬。
これは、君を過去にした冬の話。
悴んで感覚の無い足に懸命に力を込めてくるりと体を回転させる。結衣の姿が一瞬にして視界から消えて、ただの冬の景色に早変わりする。
結衣のいない世界。声も、姿もない。それでも、足は勝手に歩き出す。この先を歩むことを暗示しているみたいで奇妙だった。
「私も、颯斗のこと、」
もう一度振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます