宵月喫茶

美澄雪音

第1話 1杯の珈琲から始まる縁

 京都の小さな路地裏にひっそりと佇む喫茶店「宵月喫茶」。入り口には木製の古びた看板が掛かり、柔らかな筆致で「心を癒す憩いの場」と書かれている。その言葉に惹かれて訪れる人もいれば、ただ道に迷い、偶然その暖簾をくぐる人もいる。

 僕の名前は藤木蓮ふじきれん。二十代半ばの大学生で、この店の店主だ。昼間は講義に出席し、夜はこの店を切り盛りするという少し変わった生活を送っている。そんな僕には特殊な能力があった。それは、人が抱える「心の音」を感じ取れるという力。楽しい旋律の人もいれば、重い不協和音を纏う者もいる。この力は時に自身を疲弊させたが、喫茶店を営むことで「音」を整理し、人々を少しでも楽にできると信じていた。


 ある雨の夜、カウンターで読書をしていると店の扉が静かに開いた。入ってきたのは、灰色のスーツを着た若い男だった。スーツの袖は雨に濡れ、彼の手には折りたたみ傘が握られていた。疲れたような表情の中に、どこか洗練された雰囲気を漂わせている。

「いらっしゃいませ。」

声をかけると男は軽く会釈をし、カウンターの端の席に腰を下ろした。

「珈琲を下さい。ブラックで。」

低い声で簡潔に告げる男の様子には、どこか隠された疲労感がある。

 僕は頷きながら豆を選び、手際よくコーヒーを淹れ始めた。静かな店内に、珈琲豆を挽く音と湯の注がれる音が心地よく響く。その間、カウンター越しに男を観察していた。彼の「音」が耳に入ってくる。それは、まるで壊れたオルゴールのようだった。美しい旋律が途中で途切れ、また繰り返される。その「音」に触れた瞬間、彼がただの客ではないと感じた。

「お待たせしました。」

湯気の立つカップを男の前に置くと、彼はじっとそれを見つめ、ゆっくりと一口飲んだ。

「……いい味だ。」

その一言に、思わず笑みが溢れる。だが次の瞬間、男が口を開いた。

「君、この店をどうやって守っているんだい?これだけのがあれば、普通の人間じゃ持たないだろう。」

一瞬、心臓を掴まれるような妙な感覚に襲われた。この男、普通の人間ではない。それは確信に近いものだった。

「貴方は……?」

慎重に尋ねると、男は疲れたように目を伏せ、小さく笑った。

「俺の名は朔夜さくや。……ただの流れ者さ。」

その名前を聞いたとき、僕は彼の「音」に宿る重い真実を感じ取った。この男が背負っているもの、それが自分の店に現れた理由に違いない。

 僕は目の前の男――朔夜から目を離せなかった。流れ者と名乗ったが、その佇まいには何か言い知れぬ重さがある。単なる流れ者ではないことは明らかだった。

「流れ者っていうわりには、この店のことを知ってるみたいだね。」

あえて軽い口調で問いかけた。朔夜はカップを片手に、じっと僕を見つめる。その目にはまるで深い湖のような静けさが宿っていた。

「いや、ここに来たのは偶然だ。ただ、扉を開けた瞬間に分かった。この店にはがある。」

「境?」

朔夜はカップをカウンターに置き、背筋を伸ばした。

「そうだ。君も分かっているんだろう? 普通の人間の場所じゃない。ここはを繋ぐ場所だ。」

その言葉に、心臓が跳ねるのを感じた。この店を始めてから、時折普通ではない客が訪れることがあった。喋る猫のような声だけを残す客、鏡のように顔がない人影。その存在を恐れず、ただ客として扱ってきた。だが、自分の店が「境目」そのものだとは考えたことがなかった。

「君はそれを意識し此処を守っているのか? それともただの偶然か?」

朔夜の言葉は穏やかだが、どこか探るような響きを含んでいる。一瞬返答に迷ったが、正直に答えることにした。

「意識してるわけじゃない。でも、時々……普通じゃない客が来ることはある。それを避けるつもりもないんだ。どんな人でも、この店では少しでも楽になってくれたらいいと思ってる。」

朔夜は僕の答えに目を細め、笑みを浮かべた。

「なるほど。君らしいな。」

「……どうして俺のことをそんな風に言うんだ? 初対面のはずだろう。」

微笑を消し、真剣な表情に変わる。

「もしかすると……俺もこの店に呼ばれたのかもしれない。」

「呼ばれた?」

「ああ。俺は、あるを探して各地を放浪をしている。そのは人間に害を及ぼし、世界を歪ませる力を持つ。それを追ううちに、気がつけばこの店の前に立っていた。」

朔夜の言葉に僕は眉を寄せた。

「そのって……具体的には?」

朔夜は言葉を選ぶようにして、答えた。

あやかし。だが、ただの妖じゃない。人の心に取り憑き、憎悪や悲しみを増幅させるのような存在だ。もしこの店が境なら、そのもここに引き寄せられる可能性がある。」

店内に静寂が広がる。胸の中に不安を抱えつつも、その言葉が嘘ではないと感じていた。


そのとき――。カラン、と扉の鈴が鳴った。

 朔夜と同時に振り向くと、そこには黒い影のような存在が立っていた。人の形をしているが、顔は暗闇に覆われ、輪郭さえ曖昧だ。その姿から、冷たい気配が店内に満ちていく。

「……来たか。」

朔夜が立ち上がり、低い声で呟いた。僕は一歩下がりながらも、毅然とした態度で影に向き直った。

「ここでは誰でも歓迎する店だが、暴れるなら出てもらうよ。」

影は微かに震えるように動き、耳障りな声で囁いた。

「温かいものを……くれ。」

そんな言葉を聞き驚きつつも、静かにカウンターに戻り再びコーヒーを淹れ始めた。影が敵か味方か、それはまだ分からない。だが、この店ではすべての客に心を癒す一杯を提供する――それが僕の流儀だった。

 朔夜はこちらを見つめながら、そっと手をポケットに入れる。その中に隠されている何かが、次に備えるかのように静かに光を放ち始めていた。

「はい、お待たせしました。」

湯気の立つ珈琲カップを影の前にそっと置いた。影はまるで躊躇う様に身を揺らし、一瞬停止した。そして、黒い手の様なものを伸ばしカップを掴む。珈琲を口元へ運ぶと、静かに一口飲んだ。その動作が終わると、陰から僅かに柔らかな空気が漂い始めた。

「温かい……。」

そう低い声で呟く。

「ここでは誰でも休んでいっていい。ゆっくりしていきなよ。」

僕は穏やかな声で告げたが、内心では緊張の糸が張り詰めていた。この客が何者なのか、未だに正体が掴めていない。朔夜はこちらをじっと見守っていたが、ふと小さく笑った。

「君は大したものだな。普通の人間なら、こいつを目の前にして腰を抜かすだろうに。」

「別に驚かないさ。どんな姿でも、うちの店に来た以上は客だからね。」

コーヒーポットを置き、彼を一瞥する。

「それより、君はどうなんだ? さっきから妙にこの状況に慣れてるみたいだけど。」

朔夜は少し考えるように視線を落とし、再び影に向き直った。

「俺は、みたいな存在を追ってここに来た。それだけだ。」

「追ってる?」

眉をひそめたその時、影が突然大きく震え始めた。

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宵月喫茶 美澄雪音 @misumi_yukine

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