宵月喫茶
美澄雪音
第1話 1杯の珈琲から始まる縁
京都の小さな路地裏にひっそりと佇む喫茶店「宵月喫茶」。入り口には木製の古びた看板が掛かり、柔らかな筆致で「心を癒す憩いの場」と書かれている。その言葉に惹かれて訪れる人もいれば、ただ道に迷い、偶然その暖簾をくぐる人もいる。
僕の名前は
ある雨の夜、カウンターで読書をしていると店の扉が静かに開いた。入ってきたのは、灰色のスーツを着た若い男だった。スーツの袖は雨に濡れ、彼の手には折りたたみ傘が握られていた。疲れたような表情の中に、どこか洗練された雰囲気を漂わせている。
「いらっしゃいませ。」
声をかけると男は軽く会釈をし、カウンターの端の席に腰を下ろした。
「珈琲を下さい。ブラックで。」
低い声で簡潔に告げる男の様子には、どこか隠された疲労感がある。
僕は頷きながら豆を選び、手際よくコーヒーを淹れ始めた。静かな店内に、珈琲豆を挽く音と湯の注がれる音が心地よく響く。その間、カウンター越しに男を観察していた。彼の「音」が耳に入ってくる。それは、まるで壊れたオルゴールのようだった。美しい旋律が途中で途切れ、また繰り返される。その「音」に触れた瞬間、彼がただの客ではないと感じた。
「お待たせしました。」
湯気の立つカップを男の前に置くと、彼はじっとそれを見つめ、ゆっくりと一口飲んだ。
「……いい味だ。」
その一言に、思わず笑みが溢れる。だが次の瞬間、男が口を開いた。
「君、この店をどうやって守っているんだい?これだけの気配があれば、普通の人間じゃ持たないだろう。」
一瞬、心臓を掴まれるような妙な感覚に襲われた。この男、普通の人間ではない。それは確信に近いものだった。
「貴方は……?」
慎重に尋ねると、男は疲れたように目を伏せ、小さく笑った。
「俺の名は
その名前を聞いたとき、僕は彼の「音」に宿る重い真実を感じ取った。この男が背負っているもの、それが自分の店に現れた理由に違いない。
僕は目の前の男――朔夜から目を離せなかった。流れ者と名乗ったが、その佇まいには何か言い知れぬ重さがある。単なる流れ者ではないことは明らかだった。
「流れ者っていうわりには、この店のことを知ってるみたいだね。」
あえて軽い口調で問いかけた。朔夜はカップを片手に、じっと僕を見つめる。その目にはまるで深い湖のような静けさが宿っていた。
「いや、ここに来たのは偶然だ。ただ、扉を開けた瞬間に分かった。この店には境がある。」
「境?」
朔夜はカップをカウンターに置き、背筋を伸ばした。
「そうだ。君も分かっているんだろう? 普通の人間の場所じゃない。ここはあちらとこちらを繋ぐ場所だ。」
その言葉に、心臓が跳ねるのを感じた。この店を始めてから、時折普通ではない客が訪れることがあった。喋る猫のような声だけを残す客、鏡のように顔がない人影。その存在を恐れず、ただ客として扱ってきた。だが、自分の店が「境目」そのものだとは考えたことがなかった。
「君はそれを意識し此処を守っているのか? それともただの偶然か?」
朔夜の言葉は穏やかだが、どこか探るような響きを含んでいる。一瞬返答に迷ったが、正直に答えることにした。
「意識してるわけじゃない。でも、時々……普通じゃない客が来ることはある。それを避けるつもりもないんだ。どんな人でも、この店では少しでも楽になってくれたらいいと思ってる。」
朔夜は僕の答えに目を細め、笑みを浮かべた。
「なるほど。君らしいな。」
「……どうして俺のことをそんな風に言うんだ? 初対面のはずだろう。」
微笑を消し、真剣な表情に変わる。
「もしかすると……俺もこの店に呼ばれたのかもしれない。」
「呼ばれた?」
「ああ。俺は、あるものを探して各地を放浪をしている。そのものは人間に害を及ぼし、世界を歪ませる力を持つ。それを追ううちに、気がつけばこの店の前に立っていた。」
朔夜の言葉に僕は眉を寄せた。
「そのものって……具体的には?」
朔夜は言葉を選ぶようにして、答えた。
「
店内に静寂が広がる。胸の中に不安を抱えつつも、その言葉が嘘ではないと感じていた。
そのとき――。カラン、と扉の鈴が鳴った。
朔夜と同時に振り向くと、そこには黒い影のような存在が立っていた。人の形をしているが、顔は暗闇に覆われ、輪郭さえ曖昧だ。その姿から、冷たい気配が店内に満ちていく。
「……来たか。」
朔夜が立ち上がり、低い声で呟いた。僕は一歩下がりながらも、毅然とした態度で影に向き直った。
「ここでは誰でも歓迎する店だが、暴れるなら出てもらうよ。」
影は微かに震えるように動き、耳障りな声で囁いた。
「温かいものを……くれ。」
そんな言葉を聞き驚きつつも、静かにカウンターに戻り再びコーヒーを淹れ始めた。影が敵か味方か、それはまだ分からない。だが、この店ではすべての客に心を癒す一杯を提供する――それが僕の流儀だった。
朔夜はこちらを見つめながら、そっと手をポケットに入れる。その中に隠されている何かが、次に備えるかのように静かに光を放ち始めていた。
「はい、お待たせしました。」
湯気の立つ珈琲カップを影の前にそっと置いた。影はまるで躊躇う様に身を揺らし、一瞬停止した。そして、黒い手の様なものを伸ばしカップを掴む。珈琲を口元へ運ぶと、静かに一口飲んだ。その動作が終わると、陰から僅かに柔らかな空気が漂い始めた。
「温かい……。」
そう低い声で呟く。
「ここでは誰でも休んでいっていい。ゆっくりしていきなよ。」
僕は穏やかな声で告げたが、内心では緊張の糸が張り詰めていた。この客が何者なのか、未だに正体が掴めていない。朔夜はこちらをじっと見守っていたが、ふと小さく笑った。
「君は大したものだな。普通の人間なら、こいつを目の前にして腰を抜かすだろうに。」
「別に驚かないさ。どんな姿でも、うちの店に来た以上は客だからね。」
コーヒーポットを置き、彼を一瞥する。
「それより、君はどうなんだ? さっきから妙にこの状況に慣れてるみたいだけど。」
朔夜は少し考えるように視線を落とし、再び影に向き直った。
「俺は、こいつみたいな存在を追ってここに来た。それだけだ。」
「追ってる?」
眉をひそめたその時、影が突然大きく震え始めた。
宵月喫茶 美澄雪音 @misumi_yukine
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