第二章 2
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「ごちそうさまー」
一足先に昼食を食べ終えた朱翔が、勢いよく立ち上がる。
「俺もー」
それに続くように、白翔も昼食を食べ終える。その
「それじゃ行ってくるねー」
そのまま同時に、朱翔と白翔は家を出た。思い返せば、確かにこの光景は毎週日曜日の日常だった。
「母ちゃん、午後から出掛けるって言ってたけど、どこ行くの?」
マイペースに動く碧翔の箸が止まり、集中の矛先が自分に向けられる。
「ちょっと、友達に会いに行くの」
真っ赤な嘘は、言ってないはずだ。大幅に曲解すれば、そういう見方もできる。
「ふーん、珍しいね」
無意識に的を射抜く碧翔の言葉に、三十六年間の人生が頭を駆け巡る。思い返せば私には、友達と呼べる存在などいない。
「夜ご飯までには帰るようにするけど、もし間に合わなかったらお父さんに言ってくれる? 一応、伝えてあるから」
「うん、わかった」
夫は相変わらず働く気はなさそうだが、一昨日に無惨な身なりで帰ってきてから、少しだけ、私の話を聞いてくれるようになった。それ以上は当然、何も起こらない。
「私もそろそろ、行ってくるね」
「うん。気を付けてね」
碧翔は一週間前から、私を気に掛けてくれている。あの日からパソコンの話題を出すことをやめ、さりげなく朱翔にもその姿勢を伝染させた。一昨日帰ってきたときも、家族の誰よりも泣き喚いていた。
「……ごめんね、碧翔」
「ん? どうしたの?」
「ううん、なんでもない。それじゃ、行ってくるね」
「……わかった。母ちゃん、帰ってきてね。……待ってるから」
「……うん」
母親が連日自分たちを裏切っていることを知ったら、彼らはどう思うだろうか。どんな言葉で、私を罵ってくれるだろうか。その言葉を代わりに彼に言わせたら、私の欲求は満たされてしまうだろうか。私の心はそこまで、彼の中に閉じ込められているのだろうか。
胸騒ぎを携えながら昼下がりに我が家を後にする、普段よりも着飾った人妻の生き様が、何よりもその成れの果てを象徴している。
昨日も押した番号の並び、昨日も聞いたインターホンの音、昨日よりも
「はい。あ、亜希さん! 本当に、来てくれたんだ……!」
少し間があって応答した彼の声は、本当に嬉しそうだった。
「ごめんなさい、今ちょっと飯食ってるんですけど、それでもいい?」
「え? あ、えっと、お邪魔でなければ……」
「俺は全然大丈夫です。それじゃ、待ってます」
声が切れると同時に自動ドアが開き、それを潜り抜けてエレベーターで十六階に上がった。そうして外廊下の端まで歩き、昨日と同じ部屋の前に立つ。扉の横のインターホンを押すと、心なしか鍵の開く音が、昨日よりも遅く感じた。
「亜希さん、……来てくれて、ありがとう」
それ以降は何も言わず、川の水を
「こんな時間にお昼ご飯食べてるんですか?」
リビングに行くと、食事用のテーブルの上には食べかけのカップ麺が置かれ、容器の上に置かれた箸の先は右を向いていた。お洒落な置き時計の針は、十四時過ぎを指している。
「実は起きたのがさっきで……、さすがに今日は来ないと思ってたから、完全に油断してました。だからこれ、どっちかって言うと朝飯、なのかな」
冗談めかしてはにかむ彼の面持ちに、ふと子供たちの笑顔を思い出す。
「よかったら、何か作りましょうか? もしあれだったら買い物も──」
「いえいえ! そんな気遣ってもらわなくて大丈夫です! でもなんか、嬉しいな」
初めて彼の照れた顔を見る。より、子供たちの面影が頭を
「こういう食事、多いんですか?」
「……そうですね。ほとんど自炊しないから、食事はだいたいこんな感じです」
今度は少し申し訳なさそうに、顔を弱らす。この頃
「やっぱり、亜希さんから見たらこんな生活、だらしないですよね」
「いえ! そういう意味で言ったんじゃないです! 私だって若い頃はいい加減でしたし、今だって決して人に見せられるようなものじゃないですから! だけど──」
私の中には既に、彼の何かが入り込んでいる。
彼の生活の一部が、私の生活の一部と繋がっている。そんな在りもしない感覚が、赤の他人相手に深く根付いている。
「もし私がお役に立てるなら、できることなら何でもしたいっていうか……。私にできるのは、それくらいしかないですから……」
彼は、私にないものを満たしてくれる。それなら私は、彼にないものを捧げてあげたい。
平たく言えば、ただそれだけだ。
「俺は、亜希さんと会えるだけで充分ですよ」
そのとき初めて、彼は、私の肩に手を置いた。
「でももしそれが亜希さんの気を病ますなら、改善しなきゃダメですね。そうすれば亜希さんも、俺を……」
肩に置かれた右手が、少しずつ肩から鎖骨に下りていく。
「……座りましょうか。昨日みたいに」
胸に届く直前で、右手は身体を離れた。
限界が迫る導火線の、時間が止まったように。
「亜希さんって、いくつなんですか?」
昨日と同じ、柔らかなソファの左端に座る。対して彼は、最初からその隣に座った。
こうも近くに身を置くと、意外と彼は私の目を見据えない。実は苦手なのか、それともあれは、体得した切り札だったのか。
「……恥ずかしながら、三十六です」
私も当然、彼の目を見られない。黒い無地のシャツが守る、彼の胴体ばかりを見て誤魔化している。
「恥ずかしいことなんてないですよ。三十六歳なんて、女性が一番美しいときじゃないですか」
生まれて初めて、私の三十六年が肯定された。記憶に根拠はないが、そんな気がする。
「でも、そうですよね、いきなり女性に年齢訊くなんて、失礼でしたね」
そう言って彼は、ほんの少し私から離れた。それを見て、自分の言動に罪悪感を覚える。
「逆に、おいくつなんですか?」
彼が離れた分、気付かれないようにそっと、彼に近寄ってみた。距離はさっきよりも近付いた気がする。
「歳は二十四、だったかな。だからちょうど、亜希さんとは一回り差ですね」
十二歳差。これをこの世の人間関係に当て
実の親子はあり得ないし、通常の男女関係としてもマイノリティだ。強いて言うなら、禁じられた情交を結んだ当時の生徒と若い教師だろうか。しかし私は、彼に教えられることなど何もない。性の手解きすらできないだろう。
「嫌に、ならないんですか……? 十二歳上のおばさんなんて……」
「逆になんで、嫌になると思ったんです?」
「え……?」
予想以上に速い反応に、つい彼の目を釘付ける。彼も、私を見つめていた。
「美しい人を美しいと思った先に、年齢なんて関係ないですよ。二十歳には二十歳の可愛さがあって、四十歳には四十歳の美しさがある。ましてや年齢差なんてなおさらです。確かに俺は亜希さんより若いですけど、それはただ、俺が亜希さんより十一年遅く生まれた、それだけです。それだけのために美しい人を美しいと思えないなんて、俺はこの世で一番の不幸だと思います」
彼の右手が、私の
「あなたは、その、熟した女性が好き、ということですか……?」
動いていた小指が止まる。その後ろで、左手が産声を上げた。
「客観的には、そうなるのかもしれません。理由はわからないですけど、同じ年齢よりも亜希さんの年齢の人の方が惹かれるのは確かです。ただ、これだけは言わせてください」
少しずつ、彼の上半身が私に近付いてくる。それと同時に、目付きが鋭くなっていく。
「確かに俺にそういう
左手が、背中を捕らえた。そのまま、私の身体は彼と並行になっていく。
「だから……」
右手が、腰を捕らえた。そのまま、私の身体は彼と一体になっていく。
「ダメ……! だって、私は……」
「とか言って、覚悟はしてきてるんだろ?」
目付きと声は、同じだった。
その鋭さに負け、唇が奪われることに抵抗できない。何年ぶりかの感覚に、鋭さ以上のものが生まれる。それは感覚の域を超えた、悦びの極地に相違なかった。
「私は……、あなたに相応の女なんかじゃ……」
「それを決めつける人間は、今、ここにはいない。ここにいるのは、俺と、亜希さん、それだけだよ」
息遣いは間違いなく、私の方が荒かった。
抵抗する余地もなく下着姿になった私は、彼の思い描いていた造形の枠に収まっただろうか。
「美しいよ、亜希さん。本当に、何もかも」
そうして最後の砦は取り去られ、猥雑な全裸が彼の瞳を直撃した。
「通報するなら、今のうちだよ……?」
今、この瞬間を迎えられるなら、三十六年を無駄にしたのも悪くないと思う。
彼の二十四年を、少しでも味わえるなら。
「……お願い、好きにして……!」
彼は、笑った。
まるで、この世の
「ありがとう、亜希さん」
私は、感じた。
この世の自然の摂理の総てを。
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