第13話
ワーウルフの一件から三日が過ぎた。
その間アリシアは言いつけを守って屋敷から一歩も出ず、セドリックの書斎や仕事部屋にこもる日々が続いた。父の行方に繋がる何かが見つかればと思ったが、セドリックの部屋は彼が失踪してから散々探したので、目新しい情報が得られることはなかった。
けれど今回はそこに別の目的もあった。薔薇の花嫁と、支配の指輪のことだ。
ノクスから話はほとんど聞いたが、それでも自分なりに整理してちゃんと理解しようと思ったのだ。他にやることがない、というのも理由のひとつではある。
「チャ、イレタ。ノモウ」
セドリックの書斎にある本を読んでいると、ノックと共にメアリーが紅茶を持って入ってきた。彼女の肩にはウィルとレオナルドが座っている。
ワーウルフに噛み付かれ、裏庭の土壌で養生していたレオナルドの足も今はすっかり完治している。たっぷりと栄養を吸い込んだのか、体は一回り大きくなったようだ。
「メアリー、ありがとう」
書斎の机に散らばっていた本を脇に押しやって、空いたスペースにトレイを置く。今ではメアリーもメイド業にずいぶん慣れたのか、お茶を淹れる手つきも様になっている。
今日のおやつはカラフルな色合いがかわいいマカロンだ。屋敷から出られないアリシアを思って、ノクスはこうしてお菓子を買ってきてくれるのだ。甘いおやつの餌に釣られている感じがしないでもないが、それでもノクスの気遣いと、正直おいしいお菓子には心がほっこりとしてしまう。
「何か新しい収穫はありましたかな?」
専用のグラスに注がれた水に浸かりながら、レオナルドが机の脇に寄せた本を指差して聞いてきた。
「ううん。特には、何も。薔薇の花嫁については幾つか本が見つかったけど、支配の指輪やお父様の行方に繋がるものは見つからないわ」
ヴァンパイア関連の古い本には、確かに薔薇の花嫁の記述があった。けれどその内容のほとんどはノクスから聞いた話と同じだ。
数百年に一度、生まれるか生まれないかという稀少な血を持つ純潔の乙女。その血はヴァンパイアの能力を底上げする力が秘められており、薔薇の花嫁の血を飲んだヴァンパイアは軽く二百年は異界の王として君臨することができるという。
ただでさえ強力な一族で、現時点でも異界の頂点に君臨しているヴァンパイア。彼らがこぞって薔薇の花嫁を欲するのは、ヴァンパイア一族内の覇権争いが理由だ。異界最強の一族の中で誰が頂点に君臨するのか、ヴァンパイアたちはその最強の王の座を誰もが虎視眈々と狙っているのだ。
今までも薔薇の花嫁を巡って異界が混乱に陥ったことはあったらしい。ヴァンパイアの中で派閥ができ、自分が従うヴァンパイアに薔薇の花嫁を献上しようとする魔物たちが争いを始めたのである。
薔薇の花嫁がヴァンパイアに捧げられたという記述はなかったが、伝わっていないだけで過去には生贄になった花嫁もいたのだろう。ヴァンパイアのみならず、多くの魔物たちに狙われたのなら、無力な人間は為す術がない。
今でこそ魔晶石の研究が進んで人は武器を手に戦うこともできるが、それでも異界最強と謳われるヴァンパイアが襲ってきたらひとたまりもないだろう。
書物を読んで、薔薇の花嫁の認識を改めて頭にすり込んだアリシアは、今までの自分の行動にノクスがいかに心を悩ませていたのかを知ってしまった。
アリシアはノクスやフレッドのように戦う術を持たない。彼らが身を挺して守ろうとしてくれているのだから、アリシアはその思いを踏みにじるようなことを決してしてはいけないと心に刻んだ。
たとえ屋敷から出られなくて暇を持て余していても、それがアリシアにできる最善なのだと、今ではその意味を嫌というほど理解していた。
「支配の指輪も……見つかって、ない?」
「そうね。お父様が厳重に保管してるってノクスは言ってたけど、この部屋にそれらしい物はなさそう」
「そう……よかった」
ウィルは明らかにホッとした表情を浮かべている。それもそうだ。魔物を操る指輪なのだ。ただでさえ怖がりのウィルが怯えないはずはない。
「何ですか、ウィル。支配の指輪でお嬢が我々を操るとでも?」
「そ、そうじゃないよっ。そうじゃないけど……やっぱり怖い、もん。そんな物騒な物が近くにあるの……皆は怖くない、の?」
「ノープロブレム! 操られずとも私はお嬢のそばを離れませんので」
「オマエ、イラナイ、イワレタラ?」
「何があろうと……え? いらな……え? ……お、お嬢?」
さっきの勢いは葉っぱと一緒にシュンと萎れて、レオナルドがウィルより泣きそうな顔でアリシアを見上げてくる。その様子があまりに可愛くて、アリシアはつい声を漏らして笑った。
「大丈夫よ。レオナルドもウィルもメアリーも、今では大切な友達だわ。皆こそ、危険かもしれないのに私のそばにいてくれてありがとう」
「お嬢~! お嬢を狙う魔物は私たちが撃退してやりましょうぞ! 薔薇の花嫁か何か知りませんが、お嬢は奴らのおもちゃではありません」
「そう、だよね。むしろノクスさんの花嫁だもんね」
しれっと爆弾を落としたウィルの発言に、アリシアは声と息を纏めて喉に詰まらせ盛大に噎せてしまった。
「ちょっ……と、何言って」
「だってノクスさん、お姉ちゃんが他の人に取られそうになってるから、あんなに必死になってるんじゃないの?」
「そっ、それとこれとは話が別よ! ノクスはお父様に頼まれて行動してるの。そういうんじゃないわ」
「そうですかな? ワーウルフにお嬢が襲われた時のノクス殿は、それはもう地獄の魔王かと思うほどに恐ろしかったですぞ? 俺の~、女に~、手を出すな~……みたいな」
後半はやけに美しいリズムを取って歌うように語ったレオナルドに、ウィルが青い炎をパチパチ散らして合いの手を打つ。なまじよく通る美声なので廊下の外にまで響いていそうだったが、幸いノクスは今フレッドと一緒に街へ情報収集に出かけていて屋敷にはいない。それが唯一の救いだと胸を撫で下ろしたアリシアだったが、頬の熱はしばらく収まりそうにはなかった。
「余計なこと言わないで!」
恥ずかしさのあまり、レオナルドの頭を水の中へぐいっと押し込んだ。けれど一回り大きくなったレオナルドの体はグラスにぴっちりとはまり込んで、水だけがテーブルの上に溢れるだけとなった。
「ヨケイ、チガウ。ヨメ、ナレ。ノクスノ」
からかうでもなく、至って真面目な口調でそう言ったメアリーが、読んでいた本をテーブルの上に置いた。アリシアもさっき読んだもので、ヴァンパイアのことについて書かれているものだ。開かれたページには薔薇の花嫁の記述があり、その一文をメアリーの細い指――の骨がなぞる。
そこには「薔薇の花嫁は純潔の乙女」と記されていた。
「ネ?」
可愛らしく首を傾げるメアリーの前では、彼女の言わんとすることを悟ったレオナルドが葉っぱを器用に動かして自身の目を覆った。
「いやん、メアリー。まだ昼ですぞ」
「アイノ、イトナミ。ウツクシイ」
「わぁぁ! 何てこと言うの! ダメッ! 禁止! 二人とも口噤んで!」
別にいかがわしいことが書いてあるわけでもないのに、アリシアは開かれた本をひったくる勢いで手に取ると「封印」と言わんばかりにバタンッと乱暴に閉じた。そんなアリシアを見て、なぜかウィルだけはきらきらと瞳を輝かせている。
「純真無垢なお姉ちゃんの花嫁姿……とっても綺麗なんだろうねぇ」
うっとりと呟くウィルのほうが無垢すぎて、アリシアは「純潔」の言葉に照れている自分がひどく穢れた存在に思えて仕方がなかった。
夕方前に帰ってきたノクスの肩にはケット・シーが乗っていた。野良猫ネットワークを通じて得た情報を元に、今日もノクスたちと一緒に行動していたのだ。
人間社会に隠れて生きる魔物を見つけるのに、ケット・シーのネットワーク網は意外と役に立っているようだ。まだギルドの手配書に載っていない魔物の情報も多く、ノクスとフレッドは連日魔物退治に追われている。
疲れて帰ってくるノクスの負担を少しでも減らそうと、ここ数日アリシアはメアリーと一緒に夕飯作りをおこなっている。それまで料理らしい料理を作ったことがなかったが、意外にも手先の器用なメアリーに救われた。
それでもアリシアが作ったものより、ノクスの料理のほうが何倍もおいしかったりするのだが。
「お帰りなさい、ノクス」
「ただいま戻りました。変わりはありませんか?」
「うん、大丈夫。ノクスは? 怪我とかしてない?」
「ご心配には及びません」
ノクスの帰宅後、毎回行うこのやりとりが何だか新婚みたいでドキドキする。そう思っているのはアリシアだけだろうか。ノクスの表情を見たい気もするけれど、いつもの無表情だったらそれはそれで少し悲しい気もする。
結局アリシアはノクスの顔を見ることができないまま、彼の肩に乗ったケット・シーへ視線を逸らしてしまった。
金色の瞳と視線が絡み合うと、ケット・シーが意味深にニヤリと笑う。
「何じゃ、新婚みたいじゃの」
「はぅっ!」
「照れるな、照れるな。おぬしとて、あやつらとそういう話で盛り上がっておったではないか」
「な、何の話? そんなことしてな……」
「こやつに純潔を捧げるとかなんとか」
「わぁぁっ!」
ケット・シーを捕まえて追い出そうとしたアリシアだったが、慌てすぎて自分の足に躓いてしまい、ノクスの胸へ自ら飛び込む形となってしまった。ノクスは冷静にアリシアの体を抱きとめてくれたのだが、その拍子に彼の肩からケット・シーがぴょんっとアリシアのほうへ飛び移る。そして耳元に顔を寄せると、からかうように囁いた。
「そのまま誘惑するんじゃ。案外コロッと落ちるやもしれんぞ」
囁く声は小さく、それはきっとノクスには聞こえていない。けれどケット・シーの言葉と体を支える強い腕の感触に、アリシアは全身から汗が噴き出すのを感じて慌ててノクスの腕の中から抜け出した。
その勢いのまま自分の肩に乗っているケット・シーをむんずと掴むと、ノクスから逃げるようにして壁際へと避難する。
「何てこと言うのよ!」
「わしのネットワークを舐めるでないぞ」
「舐めてないけど、今のは伝えなくていい情報よ。私だってそんなつもりないから」
「おぬしもウブよのぅ? 好いた男に抱かれるのなら本望じゃて」
「あなたもう喋るの禁止っ!」
「何の話ですか」
「きゃあっ!」
いつの間にか背後にはノクスが立っていて、アリシア……ではなくケット・シーをジトリと睨みつけていた。
「お嬢様に余計なことを吹き込まないで下さい」
焦るアリシアとは逆に少しの動揺も見せず、ノクスがケット・シーの首根っこを掴んで持ち上げる。相変わらずケット・シーは「不敬罪だ」と喚いていたが、ノクスは一言も聞く気がないのか、そのまま廊下の窓を勢いよく開け放った。
「待て待てぇ! 今日の報酬は?」
「あれくらいの情報で報酬を得ようとは甘いですよ。それにさっきので、僅かだった今日の評価がマイナスです。マタタビが欲しいのなら、もっと身を粉にして働いて下さい」
そう言うと、ノクスは何の躊躇いもなくケット・シーを窓の外へと放り投げてしまった。
「あっ!」
「仮にも王を名乗る猫です。心配ないでしょう」
ノクスの言葉通り、ケット・シーの切ない鳴き声は案外すぐに聞こえてきた。それでももう彼を中に入れるつもりはないようで、ノクスは窓に背を向けると一人ですたすたと歩いていく。
アリシアも置いていかれまいと後を追えば、ややあってからノクスが一旦足を止めて振り返った。お互いの視線は重なり合ったものの、ノクスにしてはめずらしく何か言い淀むように視線をさまよわせている。
「……確かに薔薇の花嫁は純潔であることが条件です」
「聞こえてたの!?」
アリシアの動揺など見ないふりをして、ノクスは淡々と言葉を続ける。
「けれどそのためにお嬢様が望まぬ夜を迎えることを、セドリック様は回避しようとなさっていました。セドリック様の思いを無駄にしませんよう」
「そ……そんなこと、言われなくてもしないわよ!」
「それなら純潔の件はフレッドにも内密にお願いします」
「え? どうして?」
元々そんなことを言うつもりはなかったが、改めて釘を刺されると理由が気になってしまう。本当にただの純粋な疑問だったのに、ノクスの眉間には深い皺が刻まれてしまった。
「とうとう手段がなくなれば、お嬢様を守るためという理由を盾にして最悪の場合、力尽くで……ということもあり得るからです」
「フレッドはそんなことしないわよ」
「お嬢様は男というものを知らなさすぎます。理性の枷が外れれば、何をするかわかりません」
フレッドは父の仕事仲間で、友人だ。彼に嫌なことをされた記憶はないし、今回だってアリシアを助けるためにノクスと協力してセドリックの情報を集めてくれている。少し粗野なところはあるが、ハンター仲間と楽しそうにしているところを何度か見かけたし、基本仲間思いのいい青年だ。
そんな彼が、アリシアに無理を強いることはないと思っている。それでも彼が男であるがゆえに暴走するというのなら、同じ男のノクスも理性が飛べばアリシアを組み敷くことがあるのだろうか。
さっき躓いた体を抱きとめたノクスの腕の力を思い出して、アリシアの心の奥がぞくりと震えた。
「……それならノクスも……そう思うことが、あったりするの?」
ほんの少し勇気を振り絞って、小さな一歩をノクスの心へ踏み出してみる。
怖い。
でも、ノクスの心を……覗いてみたい。
「私は……」
静かに落ちる声と共に靴音が響く。
俯いているのに、アリシアにはノクスが背を向けて歩き出したことがわかった。
「執事である私がお嬢様に手を出すことなどありえません」
ひやりと。アリシアの心に落ちたのは、感情の見えないノクスの言葉か。それとも、あるいは瞼を押し上げてこぼれた一粒の涙か。
遠ざかっていく靴音に追い縋りたい思いの裏で、誰もいない廊下の静けさに安堵する自分もいる。
恐る恐る顔を上げると、ノクスが廊下の向こう側に消えるところだった。
幼い頃から、何度も追いかけたノクスの背中。纏わり付くアリシアに辟易した表情を浮かべつつも、ノクスが本気でアリシアの手を振り払ったことは一度もない。それは大人になった今もずっとそうだ。
だから。
だからさっきの言葉にも、何か意味が込められているのかもしれない。
――と、我ながら諦めも悪く、そう思ってしまう。
今は薔薇の花嫁のこととセドリックの行方を突き止めるのが最優先だ。自分の感情には一旦蓋をして、アリシアは窓ガラスに映る自分を見て必死に笑顔を作った。
大丈夫。まだ笑える。
この気持ちには、すべてが終わってからもう一度向き合おう。
そう自分を奮い立たせて臨んだノクスとの夕食だったが、自分なりに上手くできたはずの料理の味はまるでしなかった。
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