第9話

 完全にしくじった。

 二体のワーウルフの攻撃を避けながら、フレッドはもう何度目かわからない舌打ちをこぼした。

 ワーウルフ討伐の依頼を受けた後、ティーヴの森へ足を運んで入念に下見はおこなった。森の中に残されたワーウルフの痕跡は確かに二体分だけで、依頼内容との差違はなかったはずだ。予備も含めて用意した銃弾もワーウルフ二体を倒すには十分だった。

 今、フレッドの手持ちの銃弾は二丁あわせて残り五発。闇雲に撃っていい弾数ではない。

 射程圏内に捉えさえすれば、確実に仕留められる自信はある。けれど群れで攻撃されれば狙いを定めにくく、三体を倒すのにかなりの銃弾を使ってしまった。

(いつの間に五体も集まりやがったんだ!)

 一人で討伐に向かう以上、想定外の事態にも対処できるよう準備はしておくべきだった。銃弾の数さえ気にしなければ、残り二体くらい何とか退治できるのに。

 最悪逃げることも考えたが、少ない弾数と疲弊した体では森を抜け出すことも難しいだろう。身を隠して一体ずつ狙うにしても、二体のワーウルフがフレッドをこの場から逃してはくれない。せめてどちらかの動きが一瞬でも止まってくれたなら――。

「フレッド!」

 闇を揺らして響き渡る声にハッと顔を上げると、物凄い勢いで小さな何かが飛んでくるのが見えた。反射的に身を捩ったが、飛んできた「何か」を取りこぼすことはしない。聞こえた声がフレッドの知る男のものなら、渡されたそれは今の状況を打開するものに違いない。

 受け取った小袋の感触だけで、フレッドは中身が銃弾であることを確信した。

 どうしてノクスがここにいるのか疑問は浮かんだが、今はワーウルフを倒すほうが先だ。見ればワーウルフのうち一体は、ノクスの黒鞭に捕らわれて地面に膝をついている。

 ノクスの扱う黒鞭には使用者の意図を汲み取る魔晶石とは別に、属性を付与した魔晶石も装着できると聞いたことがある。拘束されたワーウルフが小刻みに震えていることから、今回装備してきた魔晶石は麻痺の効果があるものなのだろう。

「もう一体も拘束しましょうか?」

「言ってろ!」

 受け取った銃弾を素早く弾倉に詰めて、襲い来るワーウルフに狙いを定める。弾の残数は十分だ。けれど無駄撃ちはしない。視界の端に映るノクスの涼しい顔に、一発で決めてやるのだと子供じみた対抗心が燃え上がった。


 ***


 ズガァンッと響いた銃声に、二体のワーウルフがほぼ同時に崩れ落ちた。どちらも動かないことを確認してから、ようやく安堵したのかフレッドがその場にぺたんと尻餅をつく。

 周囲を見回していたノクスの視線がこちらで止まったので、アリシアはやっと茂みの間から顔を覗かせた。案の定、フレッドが呆れとも怒りともわからない表情を浮かべている。

「もしかしてとは思ったが……やっぱりお前も来てるよな」

「急だったから、無茶しないって約束でノクスも同行を許してくれたの。無事でよかった」

「本当なら諫めるべきなんだろうけど……。悪い……助かった」

「立てる? 森の入口に馬車があるから、一緒に帰りましょう」

「歩けなければ私が引き摺っていきますが?」

 そう言ってノクスがわざとらしく黒鞭で地面を叩いた。まさか鞭で縛って、そのまま引き摺っていくつもりだろうか。さすがにそこまで冷徹ではないだろうとノクスを窺ったアリシアだったが、彼の表情を見てもその想像を完全に否定することは難しかった。

「そんなこと言わないで、ノクス」

「善処します」

「もう」

「嫌よ嫌よも好きのうち! ノクス殿の愛情表現はこの上なくわかりにくいですが、そのぶん胸焼けするほど濃厚ですぞ。だからご安心を、フレッド殿」

「いらねぇ」と呟くフレッドと、絶対零度の視線をレオナルドに浴びせるノクスに挟まれて、アリシアは困ったようにため息をこぼした。

 協力してワーウルフを倒したというのに、二人の間に流れる空気は変わらず刺々しい。気を利かせたつもりのレオナルドのせいで周囲の温度も少し下がった気がするが、こうしていつも通りの光景を目にすることができるのも無事にワーウルフを倒せたからだと思えばホッとする。

「さ、もう帰りましょう。正直ワーウルフの死体に囲まれていると落ち着かないわ」

「私の美声を披露できずに残念です」

「あなたの悲鳴を聞いたらみんな死んじゃうでしょ」

「そこはご安心を! 私まだ声変わりしておりませんので」

「え! あなたいくつなの?」

「百二十……」

「二人とも気を緩めすぎです。帰るならさっさと帰りましょう。ケット・シーはどこですか?」

 そういえばいつの間にかケット・シーの姿がどこにも見えない。フレッドとノクスがワーウルフを退治した時までは、確かにアリシアのそばにいたはずだ。

 アリシアが隠れていた茂みのほうを見ても、ケット・シーはおろか白猫もいなくなっていた。

 不気味な静寂が肌にべったりと張りつくようだ。ざわ、と木の葉を揺らして風が吹き抜けたと思った瞬間、森の奥から静寂を切り裂く甲高いケット・シーの声が木霊した。

「もう一体おるぞ!」

 響く声に茂みから飛び出したのはケット・シーだけではなかった。

 低い唸り声を上げて、アリシアの頭上――木の上から新たなワーウルフが躍り出る。一瞬翳った視界にたたらを踏んだ体がそのままくんっと真後ろに引っ張られ、アリシアは後ろ襟を鷲掴みにされワーウルフに引き摺り倒されてしまった。

「きゃっ!」

 ノクスとフレッドが動くよりも早く、ワーウルフはアリシアを掴んだまま森の奥へと走り去る。

 乱暴に引き摺られ、体のあちこちが痛んだ。必死になって伸ばした手の先で、ノクスの姿が木々の向こうに消えていく。わずかに差し込んでいた月明かりも木々の天蓋に遮られ、アリシアの視界は完全に絶望の闇に呑み込まれた。

 怖い。

 暗い。

 痛い。

 こんなにも乱暴な扱いを今まで受けたことがなかったアリシアは、恐怖と痛みのあまり涙が滲んでしまった。掴まれた襟を切って逃げようにもダガーはノクスに渡していたし、必死の抵抗でステッキを振り回してみても黒水晶はワーウルフを吸い込みはしなかった。

 今更ながらに魔物の恐ろしさを実感する。初めて接した魔物のレオナルドやメアリーが想像以上に友好的だったものだから、心のどこかで甘く考えていたのだ。ノクスがあれだけ危険だと教えてくれていたのに、自分の身が危うくならないと本当の意味で実感できていなかった。

 馬鹿だ、とアリシアは自分自身を呪った。

 死を感じて、心が恐怖に震えてゆく。そして恐怖を上回るほどの後悔が、アリシアの胸を埋め尽くした。

 ここでアリシアに何かあれば、ノクスはきっと自分自身を責めるだろう。ならば恐怖に、後悔に打ち勝って、アリシアがやるべきことはただひとつだ。

 何が何でも生き延びることを諦めてはいけない。

 バッグの中を必死に探って、ハンカチに包んだ転送石を掴む。後は襟を離された瞬間にワーウルフから距離を取って石を叩き割れば、アリシアはロウンズ邸へ戻れるはずだ。

「お嬢」

 耳元で囁かれた美声に鼓膜が震える。ハッを顔を上げれば、視界の隅にレオナルドの姿が見えた。

「今、助けます。距離が近いゆえ、お嬢は耳を塞いでおいて下さい」

「レオ……」

「ていっ!」

 かけ声と共に、肩に乗っていたレオナルドがアリシアの襟を掴むワーウルフの手を伝って一気に駆け上がった。

 彼が何をするつもりなのかは考えなくてもわかる。慌てて転送石をバッグに戻し、アリシアは両耳を手でぎゅっと押さえ込んだ。反射的に瞼を閉じたが、一瞬だけ視界の片隅に青い炎も見えた気がした。

「うちのお嬢に手ぇ出してタダで済むと思っとんのかぁ! ワレェェ? その首、もぎ取ったろかぁ? あぁん?」

「お姉ちゃんを、苛めるなー! うわぁぁん!」

 予想していたよりもはるかにドスの効いたレオナルドの怒声に、アリシアの指先が麻痺したようにびりびりと震えた。意識は無事だが、耳を塞いでいなければ気を失っていたかもしれない。無害に見えても、やはりレオナルドはマンドラゴラだったということか。

 一方ウィルも最大限に炎を膨らませてワーウルフの眼前に飛び出していた。火力も追加しているようで、目の前で弾ける熱源に一瞬だけワーウルフの足が怯む。

 けれども所詮は下位の魔物の儚い足掻きだ。

 レオナルドの怒声にワーウルフの魂が抜け出ることもなければ、ウィルの精一杯の炎を怖がることもない。数秒の足止めには成功したが、瞬きひとつする間にワーウルフは眼前で揺らめくウィルを煩わしげに威嚇した。

「ぴぇぇっ」

 獰猛な唸り声になけなしの勇気が吹き飛んでしまい、ウィルの炎がみるみるうちに萎んでいく。

「ウィル! 負けてはなりません。あなたの炎は強く美しく逞しい! 自分を信じるのです。男児たるもの、譲れない戦いがある。そう、それは今! 私たちが負ければお嬢がひどい目に遭うのですぞ。さぁ、一緒にたたか……ほわっ!」

 気持ちよく熱弁を振るっていると急に腕が伸びてきて、レオナルドはワーウルフにむんずと体を鷲掴みにされてしまった。心配したウィルが慌てて近寄ったが、何もできずにオロオロと小さな炎を涙のように飛ばすだけだ。

「レオナルドさん!」

「心配ご無用! 私はマンドラゴラ。めくるめく魅惑のヴォイスを真正面から受け取るがいいー……い、い……いぃぃぎゃぁぁっ! 待って待って! 足噛まないで、痛い!」

「わぁぁ! レオナルドさん! レオナルドさんがぁぁ!」

 後ろ襟を掴まれて尻餅をついているアリシアには、二人の様子が全く見えない。ただレオナルドの物凄い悲鳴とウィルの号泣で、何が起こっているのかは理解が及んだ。

「レオナルド! 待って、あなた無事なの?」

「お、お嬢の代わりに足一本で済むのなら……フンギッ!」

「ちょっと、やめなさいよ! レオナルドを離しなさい。この……っ」

 仲間の危機に、アリシアの恐怖が吹き飛んだ。握りしめていたステッキを闇雲に振り回して、どこでもいい――とにかくワーウルフの体に打撃を与えて、噛み付かれているであろうレオナルドを救い出したかった。

 アリシアの奮闘に勇気づけられ、ウィルも再び炎を燃え盛らせてワーウルフに突進していく。攻撃自体は弱くとも地味に煩わしい手数の多さに辟易したのか、ワーウルフがついにアリシアを自分の前へと放り投げた。

「きゃっ!」

 自由になった途端に体が回転し、視界が明滅する。頬をザリッと擦りむいた感触と共に、鼻腔を強い土の匂いが刺激した。

「お……お嬢……」

 消え入りそうな声に顔を上げると、目の前に立ちはだかるワーウルフの口――その鋭い牙に片足を噛み付かれてぶら下がっているレオナルドの姿が目に入った。

「レオナルド!」

「逃げ、て……お嬢。私は幸せでした」

 レオナルドを咥えたまま、ワーウルフがグルルと喉を鳴らしてアリシアに一歩近付いた。

 その首が、突如としてくんっと真後ろに引っ張られる。見ればワーウルフの首には黒鞭が巻き付いていた。その先に静かに佇むのは、ノクスだ。

 あまりに強い力なのかワーウルフが背骨ごと弓なりに仰け反る。間髪入れず、大きく後ろに傾いたワーウルフの眉間に深々と突き立てられたのは、アリシアがノクスに渡した毒の刃のダガーだ。

 首に巻き付いた黒鞭が気管を圧迫しているのか、ワーウルフの口から悲鳴は一切出てこない。ただ唾液の混じるくぐもった呻き声だけが湿った音としてこぼれ、半開きになった口元からもぞもぞと這い出したレオナルドが力なくぽてりと地面に転がり落ちた。

「下劣な魔物が、何をした」

 冷たい風が吹き、木の葉を揺らして暗い森に満月の光が差し込んだ。

 夜を明るく照らす満月の光を受けてなお、ノクスを包む闇は晴れない。まるで彼自身が夜の化身であるかの如く、あるいはわき上がる憤怒の情が可視化したとも思えるほどに、ノクスの周りは闇よりも濃い暗黒の瘴気が噴き出しているかのようだった。

「ノクス……」

 アリシアの声も耳に入っていないのか、ノクスは底冷えのする眼差しでワーウルフを睥睨したままだ。首を締め上げている黒鞭を乱暴に引き寄せて仰向けに倒すと、ワーウルフの眉間に刺さったままのダガーを踏み抜く勢いで更に深くめり込ませた。

 短い呻き声と共に、ノクスの足元でワーウルフの体がびくんと跳ねる。それでもまだ絶命しないワーウルフを、ノクスは汚物を見るような目で見下ろしていた。

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