第4話

「ウィル・オ・ザ・ウィスプですな」

 体を震わせて水気を飛ばしながら、マンドラゴラが青い炎――ウィル・オ・ザ・ウィスプの方へ近寄った。同族の様子を伺うというよりは、濡れた体を乾かそうという目論見があるらしい。両手をかざして暖を取ろうとしたようだが、ウィル・オ・ザ・ウィスプはさっきから大粒の涙を雨のように降らせて泣いているので、マンドラゴラの体はまたびしょびしょに濡れてしまった。

「冷たっ!」

「ごっ、ごめんなさい。僕……僕……うわぁぁん!」

 声の高さから、ウィル・オ・ザ・ウィスプはまだ子供のようである。さっきからずっと泣いてばかりいるので、アリシアたちもすっかり毒気を抜かれてしまった。先に攻撃を仕掛けたことですら、何だか申し訳ない気持ちになってしまう。

 ウィル・オ・ザ・ウィスプに敵意はないようなので、とりあえず彼の事情を聞くために、アリシアたちは揃って馬車の荷台に腰を下ろした。

「ウィル・オ・ザ・ウィスプって……さっきの本に載ってたわ。えぇと……」

 ノクスが読めと言って渡したハンター入門書の本を捲ると、わりと最初のページに挿絵付きでウィル・オ・ザ・ウィスプの項目が記されていた。

「ウィル・オ・ザ・ウィスプ。または愚者の火。人を惑わせて死に至らしめる魔物、ですって」

「私たちを沼におびき寄せて沈めようとしていたのかもしれません」

「僕、そんな怖いことしないもん! お家に帰りたいだけだもん!」

「なら、さっさと帰って下さい。あなたがここにいることで迷惑を被っている人がいるんですよ」

「そんな言い方しなくても……僕だって帰りたいのに、どうやって帰ったらいいかわかんないんだよぅ。……ぐすっ……この人、怖いよぅ」

 びぇびぇと泣くウィル・オ・ザ・ウィスプは、さっきよりもまた一回り小さくなったような気がする。ノクスの冷たいオーラに萎縮しているのだろうか。

 アリシアは長い付き合いだからまだ耐性があるものの、相手は出会ったばかりの、しかもまだ子供だ。ノクスの放つ冷酷無比な雰囲気はかなり堪えるだろう。

「ちょっと、ノクス。相手は子供なのよ。もう少し優しくして」

「子供ですが魔物である以上、警戒は必要です」

「それはそうだけど……ノクスだって、彼が脅威でないことくらいわかっているんでしょう? 彼の魔晶石は小さかったし、何かあってもノクスなら十分対応できるはずだわ」

「お嬢様が対応できなければ同じことです」

「うぐっ。だ、大丈夫よ! いざとなればこのステッキで……あら? 私のステッキはどこかし……ら」

 周囲を見回すアリシアと、荷台の隅に転がっていたステッキを拾い上げたノクスの視線がぶつかり合う。冷ややかに見つめられ、かつ呆れたようにため息をつかれてしまい、アリシアはウィル・オ・ザ・ウィスプ以上に縮こまってしまった。

「お嬢様は武器の用途もご存じないようですので、私が一から教えて差し上げましょう」

 そう言ってノクスが自分の武器である黒鞭をこれ見よがしに持ち上げる。まるで罪人を罰する執行人のようだ。

「ノクスが言うと冗談に聞こえないのよ!」

「冗談ではありませんが?」

「そう言って本当は……って、え? 待って待って! 本気なの? か弱い女の子に鞭振るうつもり?」

 ノクスが本気で鞭打つつもりはないと頭ではわかっていても、無言で詰め寄られればアリシアの背筋を冷や汗が伝う。ノクスの無言は迫力がありすぎるのだ。

「まぁまぁ、ノクス殿。お嬢が大切なあまり過剰に心配するお気持ちは十分わかりますが、だからといって怯えさせてしまってはいけませんぞ」

 声のした方を見ると、二人の間でマンドラゴラがぴょんぴょんと跳ねていた。

「それにこのウィル・オ・ザ・ウィスプは脅威ではありません。いつの間にか扉をくぐってこちら側へ迷い込んでしまったようですな」

 二人が言い合っている間に、マンドラゴラがウィル・オ・ザ・ウィスプの話を聞き出してくれたらしい。やはり同族同士、泣き虫のウィル・オ・ザ・ウィスプも話をしやすかったのだろうか。心も幾分落ち着いているようで、体のサイズが少しだけ大きくなっている。

 マンドラゴラが話題を逸らせてくれたおかげで、ノクスの意識もアリシアからウィル・オ・ザ・ウィスプへ移ったようだ。手にした鞭を下ろして、難しい顔で考え込んでいる。

「迷子、ですか。それはまた厄介ですね」

「どういうこと?」

「異界とこちら側を繋ぐ扉のことは当然理解していますね?」

「えぇ。幾つか点在していて、常にどこかの扉は開いているんでしょ。それが新月の夜には一斉に開くってお父様が言ってたわ。それに扉といっても時空の歪みのようなもので、必ずしも決まった場所にあるわけではないって」

「その通りです。移動する扉も厄介ですが、それよりも問題なのは、人間界――つまりこちら側からは扉を目視することができません。仮にここに扉があったとしても私たちにはわからない」

 二つの世界を繋ぐ扉――時空の歪みを見ることができたなら、魔物たちへの対処の仕方も随分と楽になる。扉の現れる場所がわかればハンターとの連携も取りやすい。

 アリシアの父セドリックが作った魔法具の中にも、扉の場所を探るものは確かにある。けれどその精度は低く、まだまだ改良が必要な魔法具なのだ。

「扉の場所がわからない限り、私たちではどうすることもできません」

「でも同じ魔物ならわかるんじゃないの?」

 そもそも人間には見えない扉をくぐって、魔物たちは二つの世界を行き来しているのだ。迷子だというウィル・オ・ザ・ウィスプも美声のマンドラゴラも、マスコットのような見た目をしているがれっきとした魔物である。

 そう思ってマンドラゴラを見つめると、彼の頭で三枚の葉っぱがシュン……と萎れてしまった。

「お嬢の期待を裏切るようで申し訳ないのですが、そもそも人間界と異界では大気中に満ちる魔力に差がありますので、私たちもこちら側から扉を認識することは難しいのです。大体ここら辺にあるかな~……くらいならわかるのですが、まぁ九割はハズレますね!」

「下位の魔物に期待しても無駄です」

「ノクス殿、容赦なしっ! とはいえ真実なのでこればっかりはどうしようもありませんな。しかし中級以上の魔物なら扉は見えるでしょうし、上位の魔物ともなれば扉そのものを引き寄せることも可能ですぞ」

「ってことは、この子を異界へ帰すには中級以上の魔物を見つけて頼むしか方法はないのね」

「そういうことになりますな」

「じゃあ……ノクス。しばらくこの子を」

「却下です」

 纏まりかけた話をバッサリ切り捨てて断固拒否したノクスが、小さな魔物二人に向かって黒水晶のステッキを向けた。きらりと光る黒水晶に、あんぐりと口を開けたマンドラゴラと、涙に潤んだ目を見開いたウィル・オ・ザ・ウィスプが映る。かと思えば次の瞬間にはもう、二人の体は黒水晶の中にひゅんっと吸い込まれてしまった。

「ノクス殿のいけずぅ~」

「うわぁぁん! 悪魔に食べられるぅ!」

 情けない悲鳴は徐々に小さくなって、荷台の上に残ったのはアリシアとノクスだけだ。そのノクスはアリシアが何か言う前にさっさと御者台に移動し、手綱を握るとそのまま馬を走らせてしまった。

「ちょっと……ノクス! どこ行くのよ」

「魔物退治は終了です。依頼人への報告と、この馬車も返さなくてはいけませんので。彼の商売道具でしょうから」

「退治って……まだ子供じゃない」

「この件は屋敷に戻るまで一旦保留です。いいですね? 依頼人への報告が済むまでは、彼らにはおとなしくしてもらいます」

 そこでアリシアはようやくノクスの意図を理解した。

 もう沼に炎は現れないと説明するその横に、当の本人が堂々と姿を見せていればさすがに依頼人も不審に思うだろう。彼らを黒水晶に閉じ込めたのは、魔物退治における信頼を失わないためだ。

 ならば最初からそう言ってくれればいいのにと思いはしたが、アリシアよりも先を見据えて行動するのがノクスだ。どんなに冷たく見えようとも、ノクスはアリシアのためにならないことはしない。それがわかるからアリシアはもう不満を口にすることはやめて、ノクスの言うとおりおとなしく荷馬車に揺られることにした。

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