第2話
懐かしい夢を見た。
セドリックの背に隠れるようにして、見知らぬ少年が立っている。アリシアより五つも年上だというのに剥き出しの手足は枯れ枝のように細い。セドリックの後ろからこちらを窺うネイビーブルーの瞳は張り詰めていて、まるで手負いの獣のようだと思った
「はじめまして、ノクス」
無邪気に笑って、アリシアが手を差し出した。その小さな手が重なり合うことはなかったが、間近に見たネイビーブルーの瞳からくすんだ色が消えていく。
霧が晴れ、瞬く星屑を抱く夜の色だ。
宝石みたいで綺麗だと思った瞳は、大人になった今も変わらずアリシアを静かに見つめている。
***
「……ま。……お嬢様」
夢の中の少年が、驚くほど低い声でアリシアの名前を呼んでいる。銀縁眼鏡の奥、呆れたように目を細めてため息をつく姿は子供には似つかわしくないはずなのに、この少年はその仕草が嫌というほど板についている。
「いいかげん、起きて下さい」
「ぅうん……ノク、ス? んんー、声変わりしちゃった……?」
「いつの話をしているんですか。早く目を覚まさないと、シーツを剥ぎますよ」
というわりには秒でシーツを剥がされて、アリシアは強制的に夢から目覚めてしまった。
「ひゃぅっ!」
ぬくぬくだったベッドの中があっという間に冷たくなる。寒さに身を丸めて目を開けると、シーツを持ったノクスが冷たい目を向けてアリシアを見下ろしていた。
「おはようございます、お嬢様」
ボサボサの髪に乱れたネグリジェのアリシアとは違い、黒い執事服に身を包んだノクスは頭のてっぺんから足の爪先まで一片の乱れもなく完璧そのものだ。いつもは目にかかる長さの前髪もきっちり後ろに流されていて、おかげでネイビーブルーの冷たい輝きがより鋭くアリシアを射貫いてくる。公私で変わるノクスの髪型を自分だけが知っているということに、かすかな優越感を抱いていることは秘密だ。
「ちょっと、ノクス! いきなりシーツを剥ぐなんて非常識よ」
「剥がされたくなければ、自分で起きられるようになって下さい」
「ちゃんと起きてたわよ! ちょっと微睡んでただけ」
「そのわりにはだらしない顔で涎も垂らしていましたが?」
「えっ、嘘!」
「嘘です」
しれっと答えるノクスに反論しようとするも、口を開く前に頭の上からさっき剥がされたシーツを被せられる。相変わらず扱いが雑だ。
「朝食が冷める前に食堂へ。歩けなければ担ぎますが?」
「結構よ!」
「なら急いで下さい」
最後まで辛辣に言い捨てて、ノクスはそのまま部屋から出ていってしまった。
ノクスは今から十二年前、アリシアが七歳の時にこの屋敷にやってきた。年上だという彼の体は当時のアリシアよりも痩せていて、今思えば細い腕や足には痛々しい痣や縛られた痕のようなものもあった気がする。
ここに来る前のことをノクスは語らない。知りたい気持ちがないわけではないが、今のノクスがつらくないのならそれで十分だと思った。
手早く着替えをすませて部屋を出る。昨夜捻った足にはまだ少し痛みが残っていたが、歩けないほどではない。ノクスの調合する薬は相変わらずよく効く。
食堂につくと、ちょうどアリシアが来る時間を見計らったように、温かい朝食が用意されていた。冷たい態度を取るくせに、ノクスはいつもこうやってアリシアを第一に考えてくれている。
そういうところが、ズルいのだ。
「ねぇ、ノクスも一緒に食べない?」
「私は先に頂きました」
「どうしていつも先に食べちゃうのよ。一緒に食べた方が絶対おいしいのに」
「私はお嬢様のように暇ではありませんので」
この屋敷には今、アリシアとノクス以外誰もいない。元々多くはなかった使用人も、一ヶ月前に当主のセドリックが消息を絶ってからは暇を出している。幼い頃から執事見習いとして働いてきたノクスが、今は屋敷全般の雑務を一人でこなしている状態だ。
「だから私も手伝うって言ったでしょ。全部ノクス一人でする必要なんてないんだから」
「お嬢様が手伝うと仕事が倍に増えますので、お気持ちだけで十分です」
セドリックは、元々はノクスを養子に迎え入れるつもりだった。母親を早くに亡くし、一人っ子で寂しい思いをさせているアリシアのためもあったのだろう。けれど本人が屋敷で働きたいと頑なに養子縁組を断ったので、当時の執事の下について見習いとして働くようになったのだ。
現在はメイドの仕事すら完璧にこなす、毒舌執事として屋敷を切り盛りしてくれている。
「あぁ、でも朝食後に少しお時間を頂けますか?」
そう言いながら用意してくれた食後の紅茶は、アリシアが好きな銘柄だ。そういうところに胸をほっこりさせながら頷くと、アリシアを見つめるネイビーブルーの瞳が銀縁眼鏡の奥でキラリと光った。
「では……これについて説明して頂きましょうか」
ノクスが胸のポケットから何かを取り出して、それをテーブルの上に置く。折り畳まれた紙を開くと、そこにはアリシア本人の字で「魔物の事でお困りのあなた! タチの悪いゴーストからいたずら妖精まで、この私アリシア・ロウンズが迅速に解決致します。ご用の方はロウンズ邸まで!」と、大きく書かれていた。
言葉を詰まらせたアリシアに追い打ちをかけるように、テーブルの上には黒水晶のステッキまでもが置かれてしまう。昨夜アリシアが墓地へ行く時に護身用として持っていったものだ。
宣言通りノクスはアリシアがお茶を飲み終えるまでは待っていてくれたのだが、その間ずっと背中に冷ややかな視線を感じていたので、正直お茶の味を楽しむ余裕はなかった。
「昨日買い物へ出かけた際に、これを見つけました」
白手袋をした長い指が、テーブルの上のビラをトンッと叩く。声はとても静かなのに、まるで雪解け水に触れたみたいにアリシアの体がびくんと震えた。誤魔化そうとして曖昧に笑うと、余計にノクスのネイビーブルーが冷気を纏う。
「あなたが昨夜クランジール共同墓地に向かったのはこれが理由ですか?」
「そ、そうなのよー。毎夜、墓地の奥からベルの音が聞こえてくるって、墓守のおじいさんが怖がってて」
「昔は誤診で死亡したと勘違いされることも多かったようですね。本当なら仮死状態であるにも関わらず死亡と判断され、生きたまま埋葬される。そういう者たちが棺の中で蘇生した場合に外へ合図が送れるよう、棺にベルが取り付けられたと聞きます。もちろん医学の発達した今は、そんなことはないようですが」
そんな昔のことまで知っているとは、さすがノクスだと感心する。墓守に聞くまで、ハンドベルを持った可愛い妖精を想像していたアリシアとは大違いだ。
「昨夜の骸骨は、ベルを鳴らすも気付いてもらえず亡くなった者の霊かもしれませんね。一人が寂しくて、一緒に棺に入ってくれる者を探していたのでしょう。そこに愚かなあなたがちょうど居合わせた」
「愚かって……」
「愚か以外の何者でもないでしょう。戦う術を持たず、意気込みだけでどうにかなると思っているのですから」
「ちゃんと黒水晶のステッキは持っていったわ!」
「派手に転んで放り投げていましたがね」
「で、でも……ノクスが来てくれたし、最終的には丸く収まっ」
「お花畑の脳味噌は一度死なないと治りませんか? 骸骨と一緒に棺に閉じ込めて差し上げても構いませんよ」
ノクスの毒舌は聞き慣れているのだが、今日はいつもに増して棘が鋭い。アリシアを見つめる瞳も冷たすぎて凍っているのではないかと焦るほどだ。言い返したいのに口では負けるのが目に見えていて、アリシアは子供のように頬を膨らませるしかできなかった。
「あなたがセドリック様の真似事をする必要はありません。屋敷でおとなしくしている方が、よっぽど捜索も捗るでしょう」
「でも……行方不明になって、もう一ヶ月よ。何の連絡もないし、もしかしたら異界に迷い込んでしまったのかも……。お父様が消えた日は新月の夜だったから」
人の住むこちら側と、魔性の者が住む異界。二つを繋ぐ扉はあらゆる場所に点在しており、新月の夜にだけそのすべてが一斉に開かれると言われている。それを裏付けるように新月の夜には魔物関連の事件が倍増するし、彼らの持つ魔力が結晶化した魔晶石もあちらこちらで発見されるのだ。
その魔晶石の性質を調べる者のことを魔晶石学者といい、魔晶石を加工して武器や道具を作る技術を持つ者を魔石職人という。
セドリックはその界隈では有名な魔晶石学者であり、自身で魔晶石同士を掛け合わせて強力な武器を作れる魔石職人でもあった。魔物狩りを生業とするゴーストハンターに同行することもあるのだが、一ヶ月前顔馴染みのハンターであるフレッドと出かけたきり、セドリックだけが戻ってこなかった。
「蟻さえ踏み潰せないような顔をしていますが、セドリック様はああ見えて意外と強かです。異界に飛ばされていたとしても、こちらに手のかかる娘がいるのですから、何が何でも帰ってくるでしょう」
「ノクス……」
言葉は決して優しくないが、彼なりにアリシアを気遣ってくれているのがわかる。墓地へ一人で向かったことに怒っていたのも、アリシアの身を案じてのことなのだろう。
ノクスの言い分も痛いほどわかるし、それが正解だということも理解はしている。だがそれをおとなしく承諾するかどうかは、また別の話だ。
「確かに私はゴーストハンターでも魔晶石学者でもない、ただの非力で可憐な女の子だわ」
「可憐は余計です」
「んもう! 話の腰を折らないで。要するに私が言いたいのは、そんなに心配ならノクスも一緒に手伝ってくれればいいじゃないってことよ」
「どうして私が手伝わなければならないんですか」
「だって私はお父様を探すことを諦められないもの。ノクスだって、本当はわかっているんでしょう? 私がおとなしくできない性格だってこと。だったらもう最初から容認してくれた方が、お互いの」
「却下です」
すげなく断られ、アリシアの言葉はまたしても宙ぶらりんのまま喉の奥に消えていく。今度はさすがに頬を膨らませるだけでは終われなかったアリシアが、テーブルをバンッと叩いて椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。
その拍子にテーブルの上からステッキが転がり落ち、先端についた黒水晶が淡いダークブルーに輝いて――。
「お……お嬢。み、水を……」
「オナ、カ……スイタ……」
心なしか干からびた様子の美声マンドラゴラと、既に干からびて肉すらない骸骨が床に倒れ込んだ状態で再び姿を現した。弱っているからなのか、それともノクスがそばにいるからなのか、昨夜ほどの恐怖はもう感じない。
「ノクスが黒水晶に吸い込んでたの、忘れてたわ」
昨夜アリシアが武器として持っていったステッキは、セドリックが作った魔法具のひとつだ。魔晶石から生成した黒水晶には、一時的だが魔物を閉じ込めることができる。力の弱い魔物にしか効果を発しないが、ハンター初心者には必須のアイテムだ。
「処分しますか?」
いつの間に用意したのか、ノクスの手にはカトラリーのナイフが握られている。
「ちょっと待って、ノクス。見たところ、随分と弱っているようだし……それに何かお父様に繋がる情報が得られるかも」
「雑草とガラクタに有益な情報があるとは思えませんが」
そう言いつつも、アリシアに従ってノクスがナイフをテーブルの上に置いた。代わりに水差しとグラスを手にして、アリシアとマンドラゴラとの間に割って入る。
「不用意に近付かないで下さい。弱っているとはいっても魔物です」
「ノクスが雑草とガラクタって言ったんじゃない」
「その雑草とガラクタに、あなたは手も足も出なかったことをお忘れですか?」
「うっ」
反論の余地もなく、アリシアはただ悔しげに呻くだけだ。けれどもノクスのそういう態度も、裏を返せばすべてアリシアを思ってのことだとわかる。けれどアリシアには刺々しいのに、マンドラゴラを水に浸けてやる手つきが意外と優しかったので、アリシアはほんの少しだけマンドラゴラに嫉妬してしまった。
「いやはや……助かりました。おいしい水を感謝致します、ノクス殿」
根っこの足を水の中でちゃぷちゃぷと揺らすマンドラゴラは、恐ろしい勢いで水を吸っていく。あっという間にグラス一杯分の水を吸収してしまったので、ノクスが水差しから追加の水を注いでやった。そのおかげで彼の髪の毛である三枚の葉っぱも生き生きとよみがえってきた。
骸骨はと言えば、朝食の残りのパンをマンドラゴラの隣で貪っている。食べたものがどこに消えているのかわからないが、骨の間からこぼれ落ちていないので、ちゃんと栄養にはなっているのだろう。心なしか血色……骨色もよくなっている気がする。
「あなたたちに聞きたいことがあるんだけど、お父様……セドリック・ロウンズという人物を知らないかしら。もしかしたら異界に迷い込んでいるかもしれないの」
「先ほどのお二人の会話にこっそり聞き耳を立てておりましたが……残念ながら、そのような話は耳に入っておりません。我々のような下位の魔物に、そういった情報はあまり流れてきませんので……」
「キョウミ、ナイ」
「はっきり言いすぎです!」
ぴちゃんっと、マンドラゴラが水を飛ばすと、骸骨が「キャッ」と存外可愛らしい声を上げて顔を両手で覆った。
「下位ということは、あなたたちよりももっと位の高い魔物なら、何か情報を持っているかもしれないのね」
「お嬢のお父上が異界に迷い込んでいるというのなら、ですが」
「それを知るためにも、上位の魔物に聞いてみるのはアリよ。何もわからないより一歩前進だわ」
何もわからず闇雲に探すよりかは、目指すものがある方が動きやすいし、何よりも気の持ちようが違う。ようやく得た手がかり……にはほど遠いかもしれないが、その先っぽを掴むことができて、アリシアの頬が自然と緩んだ。
「それを許すとお思いですか?」
「許して」
首を軽く傾けて、アリシアが思う可愛らしいポーズでおねだりしてみる。これで落ちるとは思わなかったが、予想以上にノクスのネイビーブルーが冷気を増した。
「色仕掛けのつもりですか? それで落ちる男がいるなら見てみたいものですね」
「フレッドはこれで落ちるもの!」
「……なら、その目は後で潰しておきましょう」
「何でよ! そもそもノクスが落ちてくれたら全部解決するのよ。ねぇ、お願い。一緒にお父様を探す手伝いをしてちょうだい」
「できません。何度も言わせないで下さい」
「ノクスの石頭!」
「お嬢様こそ、もう少し脳味噌を詰めて下さい」
ぎゃあぎゃあと言い合う二人の足元では、マンドラゴラと骸骨が呆れたようにため息をつきながら、互いに水とパンを味わっている。
「夫婦喧嘩は魔物も食しませんね」
「マズイ、マズイ」
アリシアを心配するノクスと、どうあっても父親を探したいアリシア。平行線のまま永遠に続くかと思われた喧嘩は、第三者の声によって強制的に終了した。
「あのぅ……勝手に入ってすみません。呼び鈴を鳴らしたんですけど」
扉を少しだけ開けて顔をのぞかせたのは、不安そうな表情をした見知らぬ男。その手に握られているのは、アリシアが街の広場と酒場の掲示板に貼っていた魔物退治のビラだった。
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