30Peace 「買い出しとサックス」
私は買い物に来ていた。自分の生活の為の買い出しだ。私の働くお店「喫茶 La Seine」とは別の用事をしている。
人混みのなか、ふらりと視線を泳がせているとあの黒い輪郭を連想させる姿があった。あの塔のような背の男だ。また私の身体はビクリと反応してしまった。しかし、前ほど怖くは感じていないと気づいた、それが自分で驚きだった。
男はじっと私の方を見ていた。なんだろう。と思った。だから私は思わず男に近づいた。
近づいてわかったのは、なにやらその男の背中には、木管楽器をしまうような大きな黒いバックが仕掛けられていることだった。
「……久しぶりね」
私はまだ少し緊張をおぼえていた。
「キミはいつも落窪んだ顔をしているよね」
私はこれに嫌悪感を感じた。
「は?」
「すみません、センスがなかった。ただしくは元気がない顔だ」
「はぁ」
私はまた毒気を抜かれた。つまり気づかいのセリフだったのか、と。
「でもまだ名乗ってなかったよね」
すっかり話す気力を失った私は帰宅を急ごうとした。そこへこの男は自己紹介をしようと言うのか。仕方なしに重たい足をもちなおして、男に向き直る。
「俺はティネス・ジーク・ドレークだ。分け合ってこの街にお世話になっている者だ」
「はぁ」
気だるさを隠そうともせず私はドレークと名乗った男の顔を見る。それにしてもドレークなのかと思った。
確か、昔の話にはドレーク船長というのがいた。そう、ドレーク海峡を渡った船長のことだった。海の名前はその船長の名前に由来するはず。世界一の荒い海だと。
ドレーク船長とは異邦人の名前にふさわしい、たくましい名前だと思った。ドレークの顔を見たついでに、その背負っているバックが目に入る。
「楽器を弾くんですか?」
興味本位にポツリといったふうに聞いた。
「そうだ、最近からだな」
「へ〜、何の楽器を?」
正直、私は聞くだけで満足してしまう人種だ。だから楽器の名前を知ったところで分からないかもしれない。
ドレークは大事そうに楽器ケースを触りながらその仕草のまま答える。
「これはサックスだな」
「……失礼しました」
聞いたそばから笑ってしまった。そうか、サックスか……サックスは好きだ。あの音域の広い自由な音色は私も家のレコードで聴くことが多い。
「まだ見習いだな」
「そう、優れた奏者になれるとイイわね」
私はおかしくて堪らなかった。だってこの不吉な雰囲気をまとった男がサックスだなんて、きっと演奏の姿は不似合いなんだろう。
「そんな調子だ。おかしくても笑ってくれたならよかった」
そう言われてハッと気づく。私の笑いはバカにするような声色が現れていたのだろうか、それは失礼に感じた。
「すみません」
会釈するような角度でお辞儀した。
「じゃあそろそろ」
昼も過ぎた時間だった。切り上げたのは、私はこれから夕食の支度前に、しばらくの朝食用にサラダの作り置きをしなければならなかったからだ。
そうして帰路を進めながら私は思った。なんだか近所の人や身内のように話してしまったな、と。そして悪い気がしなかったことを、軽やかに自覚した。
私は帰宅すると、ワンLDKの借家の見かけの小綺麗なドアを開ける、鍵を開けるときは未だに少しだけ緊張する。かつてと比べとても贅沢な暮らしをしているのだとつい滅入るような感じてしまうからだ。
すぐ、台所に立つ。横のローテーブルに荷物の袋を広げると中の食材を剥ぐような手つきで取り出し野菜はそのまま流しに放り込む。最後の野菜を左手で持ち上げると、そのレタスは右手でパッと運んできたまな板の上に置いて、そして軽い手際であけた戸棚から包丁を取り出すとその右手は左手のそえられたレタスの玉を真二つに切る。
「カンッ!」
強めに、包丁がまな板にぶつかる音がする。
この手際は我ながら誇らしい。ただこの度に、お店では私よりも上がいるのだと痛感しもする。
続けて、私はレタスから芯を切り取るとボウルを用意してからザクザクと大まかな大きさに半玉切り分ける。そしてムラサキ玉ねぎを流しから取り出すと、軽く洗い皮も向かずにザクッと切り分ける。それから皮を剥きとる。千切りにしてレタスと一緒にボウルに放り込む。次に人参の下ごしらえをするとあっという間に裁断が終わる。
「あとは干し肉か」
これに200gで買ってきたものを用意する。お酒につけて塩コショウをまぶしたラムを蒸して干したという、それなりのお肉だ。
私はそれを細かく裂く作業をしながら一日を思い出す。
昼の買い物のこの肉は量り売りだった。100g 3ソアレ(450円)で買うことが出来た。ラム肉自体、この街だと貴重なものなので、いい買い物だったと感じている。この街は量り売りの店が多くあり、なので今日の食材は全て量り売りのものだ。だから私には住み良い土地だと言える。
なぜ量り売りが多いのかと考えてみたことがある。もとをただせばこの東区自体、軍事施設が他に比べて多くあり兵士の習慣からして休日を楽しむという風潮が強い土地柄から、休暇に買い物をする大勢の兵士たちのおかげで量り売りという仕方をしても儲けに繋がりやすいというのが理由にあると言えた。なので私は東南区を軍事施設のおかげで栄える店や「喫茶 La Seine」のような小料理屋がある街だと思っている。
けれど朝は、夜勤あがりの兵士の主役となって湧きたてる活気がうるさいのが、私には良くて絶妙なニワトリの朝鳴きのように感じる。
ここで私はひと口大の8/1まで細かく裂きおえて、それらを均等になるよう小さな使い捨てカップへ仕分けを始める。なんとなくこの作業はお店での仕事を彷彿とさせる。
職場での人との関わり合いやその難解さはきっと私に、この料理のようにシンプルな感動をくれていたと。作業を通じて感じた。
そして今日会ったドレークとの会話やそこにあった感情を思い出した。
空間作りは得意だった、おそらく昔から。だからしようと思えばあの時の会話も
そう思って考えた。
あの吸血鬼を味方につけるのはどうだろうか。丁度、失恋したところだし恋人の席に据えるのも……。そう考えて自分に嫌悪したので辞めた。まったく気が起きなかった。
次に思ったのはそのドレークの楽器、サックスだった。部屋のレコードで聴いていたというのは本当だ。だから簡単に上達するものではないことを私は知っている。しかし演奏を聴いてみたいというのも本当だ。
そこまで思って私は思い出し気に部屋のレコードをかける。それは「Blues for Alice」だ。
「次は夕食のシチューを作らないと、朝食の分も」
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