28Peace 「失恋」

 彼女には想い人が居た。いつからだろうか、昼も夜もふと思い出す彼の、優しい表情がいつも決まって疲れを忘れさせてくれていたと。そのことに気づいたのはずっと前のことだ。

 しかし彼女は「恋」というものをロクに知らなかった。周囲に浮いた話が降って沸いて、それに一喜一憂をする周囲の身内や、他人の吹聴に「なんと無恥な会話だろうか」と俯瞰するほどのそんな女だった。

 けれど今は「想い人」という単語が脳裏を往復するたび、少しだけニヤとして再び平静を意識して取り戻す。そのような変化を感じていた。

 その最中で、日々が彼女をせわしい職務へと駆り立てた。

「はい!」「ご注文はじゃがいもグラタン一つですね、承りました只今お作り致しております時間ですので何卒お待ちください」

 彼女は彼女にとって見慣れない、塔のような背をした男の姿を視界に捉え、その文言を接客の模範口調で発声した。

 その後、その男にグラタンを届けることになった。彼女は、何度も見て見慣れているグラタンが、トレンチの中でグラタンが蒸かしたじゃがいもやチーズに混ざって僅かなシナモンの香りを漂わせているのを確認した。ひと目見て、コレは飛び切りウマイぞ、と張り切る気持ちが逸っていた。しかし彼女にとって驚くような出来ごとが起きた。

 

 実はこのお店の東側の通りに面した角は大きくガラスが張ってあり、その為に中の様子が見られるようになっているのだが。それはこう昼の明るさに照らされると、中の人の姿が店内であわせ鏡になって僅かにガラスに映るようになるのがあるが。ただ一人、それを確認できない人物がいた。そう、それを確認したのは彼女だ。そして確認されたのはその、塔のような男だ。


 彼女が遠くの、そのガラスからの死角を抜けた時。間際に視線がヒュッと、しかし物憂ものうげに移動した。とここまで、何も変なことはなくそれまではいつもの仕事をつかまつり行うに過ぎない日常であった。


 ビクリッ! 遠くから気づいた彼女は途端に肩首が「逃げろ!」と空気が破裂するようであった。瞬間に怖気が走ると、それを彼女は瞬時に自覚した。

 その余波で、彼女はトレンチとその上のグラタンを落としそうになる。

 彼女はイヤに目がカッと開いて、塔のような男の姿に目が釘付けになった。魑魅魍魎だと思って光のあたったその影の有無を確認したけれどそこに問題はなかった。しかしボロの黒いブカブカなローブをまとったその姿は、空間の異変を漆黒の余白で塗りつぶしたような気配を纏っていた。その上、ガラスに映らないという違和感が店の端に発生している、その為に彼女は黒い輪郭を目に捉えたとき恐怖に囚われた。

「何故……どうしたら!? どう逃げれば!?」

 彼女は叫びたくなる。

 事実として足が竦む。心中、苦痛が心の臓を裏返っていくように発作が始まる。

 私の周囲は同僚がウェイターの職を異変に気づかないまま全うしている。それにお客さんの人らも装いを正した楽しげな雰囲気を纏ったまま食器のカチッと皿にぶつかる音を一様に立てて食事にいっていた。一方で彼女だけがこの異変の空気に取り残されている。

 そしてこの、接客という裏切れない職務。と責任。それより遥かに異常な非日常に。「逃げるべきだ」と心でも頭でも分かっていた。ただ、その知らない感覚と未知の存在の恐怖に只々…………立ち尽くしたきり一歩も踏み出せない彼女だった。



 私は動けなかった。形容できない恐怖のあまりに、私は喉が焼けるようになった。極度の緊張が喉を干上がらせたと、自分自身で自覚し始めた。

 そして私はどうするべきかを考えた。思考停止はどんな場合も悪手だと子供時代の経験から知っていたから。

 するとすぐに結論が生まれる。今のところ、あの男に敵意はないことが分かっている。なら私は普通に配膳するだけでいい。途端に、頭の中から逃げるという選択肢が消えたことを自覚した。

 しかし私は足が動かないままだ。なぜなら、私の中から恐怖が消えていなかったから。

 そして数秒間。「もし?」が加速する。もしいきなり襲われたら?

 そんな未然みぜんな疑問が湧き上がってくると数巡しそうな勢いで脳裏によぎった。けれど、なにか直感的な報せのようなものがあって視線を手元に落とした。

 

 手元には出来たてのグラタンがあった。仲間が大切に作った料理だ。「コレを届けなくてどうしたらいいの?」心の中から頭から、突き抜けるように言葉が走った。「そうだよ!」と心で叫ぶ。

 私は少し早足に歩き出した。

「かもしれない! じゃなく、するべき! で動く。なにを当たり前なことを考えられなかったんだ!」

 私は心で強く強く叫ぶ。決心や覚悟なんて今は要らない、するべきをして、そのあとで考えるべきだ。私は正しく、料理を運ぶウェイトレスだ。

 それだけを考えて私は坦々とを進めて食卓へ向かった。

 

 食卓について、しゃがいもグラタンを渡そうとした時、さっきは死角でみえなかった、とも連れのお相手が目に入った。その御方は忘れもしない、ローラ様だった。この街の創始者にしてあらゆる原点であり、その守り人の。御方です。 

 ローラ様を目にして私はとりあえず安心する。なぜかって私はローラ様が果てしなく、もう以上もなく強いことを知っているからです。そのローラ様が連れてこられた方なら安心できる、少なくとも仮に狂気的に暴れたとしても抑えてくれるはずだから。

 そのあと、少ししてそのお2人はもう一人と合流した。とても目立つ、長い白髪と白の軍服ロリータ、この方も忘れない。クレアシアン様だ。

 私はもう安心しきって、ましてあいだに入るなんてお水を挿すような行為は考えられなくて、一部始終を見ることなく、仕事に専念しきった。

 ただひとつ、ガラスに映っていなかったこと以上に忘れられなかったのは、グラタンを届ける時に男の顔をチラリと見てしまった。その時に一瞬見えた、キバだった。


 その帰りのことです。細かく言えば、仕事が終わって退勤をし、その帰路の話です。

 私は目撃した。いいえ、聞いた。見るよりも先に聞こえたから、見てしまった。

「?」

 と振り向くと彼がいた。彼が通りの先にいるあの男、塔のような背の男に果たし状を投げていた。私はなんだか分からずにただ、それを逃すまいとして眼前に納めようとした。

「その男はは吸血鬼だよ!」

 叫びたくても叫べない、なぜかってその男のすぐよこにはクレアシアン様がいて、私は口を効く身分にないと知れているから。

 けれど胸のざわつきが熱を上げて加速していく。

 ただ胸の中では激しく、不吉な予感がまるでうねうねとするような拒否的観念として溜まっていた。


 なぜ、彼がわざわざそんな勝負を挑んだのか、それがこの様子を見て最初に思った疑問だった。でもそんなのは分かりきっていた。彼はクレアシアン様に気持ちがあるからだろう。

 私は一抹の悪寒のあとで思った。できれば彼に勝って欲しいけど、負けて欲しいともまた自身の中で熱望しているんだ。私は私の思い通りにならない彼を、少しうらんでいるんだから。


 私は、確かに彼の敗北を願った。

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