第3話 鬼哭 前編

   二か月後


 カツン、コツン、カツン、コツン。人気のない駅の階段を、初老の男が下っていく。地下鉄へと流れ込んでくる冷たい外気に彼は背中を丸め、トレンチコートの襟を立てた。普段ならば警備会社のトップとして警護をつけ、送迎の車に乗り込み帰路についているはずだったが、今日は違った。


 殉職した会社の従業員のために弔辞を作成していたのだ。

 彼は親会社から働き方改革という名のコストカットを求められていた。手始めに退職金の殉職時割り増しのパーセンテージを削減した。当然に遺族からは不満が出る。それを殉職者への労いと弔いのメッセージが押し留めてくれていた。〈羨ましいものだ〉遺族は少なくとも死者が立派な人間だったという誇りを手にすることができるのだから。


 そしてこの弔辞の作成は、生命保険には加入できないような特定業務に従事する社員への、男個人のせめてもの情けでもあった。社員が、仲間が、死んだのだ。思うところが無いわけではない。男はけっして冷血漢ではないと自負していた。


 駅の自動改札を通り抜け、男は駅のホームに向かう。終電の時間が近づいているせいか、ホームにも人影はない。男の会社の最寄り駅は小さく、一日の利用者数も少ないため、夜になれば駅員すらもいない半無人駅だった。


 電車を待ちながら、男は壁の姿見で自分の顔を見た。髪の毛は薄くなり、髪には白いものが混じっている。顔全体には深い皺とクマの爪で引き裂かれたような痛々しい古傷が刻まれていた。


 電車が来た。男は右手で顔の傷をなぞりながら電車に乗った。サイバネ置換された右腕の感覚センサーは正常に作動しているようだった。役員報酬の金で手に入れた最新式のサイバネアームの指先は、無精髭の一本一本を分けて感じ取れるほどに敏感だった。

〈感覚が鋭すぎるな。今度にキャリブレーションの予約を入れよう〉


 男は電車の座席に腰を下ろした。

〈遅くの電車は座れていい〉男は自分のふくらはぎをさすった。鍛えているとはいえ、男の全盛期はとうに過ぎていた。今や尻でイスを磨くばかりの毎日だ。

 男は背もたれに背中を預けると、コートの懐から電子手帳を取り出した。サイバネクリニックへの予約のため、明日以降の予定を確認した。

〈来週の火曜がいいか〉彼は指先を画面に滑らせてメモをした。


「ヨモギ・アサカさん?」


 自身の名前を呼ばれ、男は顔を上げた。


「いかにも、私がアサカだ。君は、失礼だが、どこかで会ったことが?」


 ヨモギは手帳を懐にしまった。その視線は自分の右斜め前に立つ金髪の女を見据えたままだ。女のむき出しの敵意から、ヨモギにサインを求めてきたわけではないことが瞭然だった。


「ええ、知っている。あなたはどうか知らないけど。だから名乗らせてもらう、あたしはクイーン、一緒に来てもらう」

 少女はヨモギに向かって名乗った。

 それを聞いたヨモギは眉間にシワを寄せて目を細めた。瞳孔が縦に裂けた黄金の瞳。人間離れした目だったが、サイバネ施術の形跡は見られない。見覚えがある瞳だ。はっきりと思い出せないながらもヨモギの本能はけたたましい警報を鳴らしていた。人間の姿形をしているがその雰囲気は危険動物を強化ガラス越しに見た時のそれに近かった。


 クイーンが背中に隠していた右腕を上げた。その手には拳銃が握られている。


 ヨモギは咄嗟に立ち上がり、銃口が自分に向く前にクイーンへと突進した。


 先手を取られたクイーンが後ろに飛び退く。走行中の電車の揺れが、クイーンが体勢を立て直すのをわずかに妨害する。


 ヨモギがクイーンを制圧しようと再び突進を敢行。


 狙いもでたらめにクイーンが引き金を引いた。一発目は電車の窓にひびを入れ、あとの一発はヨモギのサイバネアームに甲高い音をたててはじかれた。


 サイバネアームの右フック! すれすれのところでクイーンが回避。電車の座席横ポールがくの字に曲がる! そしてすかさずの発砲音。いつの間にかヨモギの手に拳銃が握られていた!


 ヨモギの弾丸がクイーンを掠める。

 クイーンは奇襲が失敗した事を認め、車輌間の連結部扉をスライドして隣車輌に逃げ込んだ。当然ながらヨモギも止めを刺そうと追いかけてくる。


「どこのヒットマンかは知らないが、このオレを一人で殺そうなどとは良い度胸だ」

 連結部扉の覗き窓が割れた。そこからヨモギのサイバネアームだけが突き出され、握られた拳銃から弾丸が発射される。

「簡単に仕留められると思ったか? バカめが!」

 ヨモギの罵倒に返答はなかった。彼は引き金を引くのを止め耳をそばだてる。電車の駆動音だけが場に流れ、他の音は聞こえない。


 敵の数はいまだ不明。現在の状況はヨモギに有利だが、区間急行の次の停車駅で相手の援軍が待ち構えているとも限らない。今はまだ自分の攻撃ターンだ。

〈それもいつまでか……〉ここは一気呵成に攻め立てるのが最善だ。

 ヨモギは意を決して連結部扉をスライドさせ次の車輌に踏み込んだ。

 そこに顔面めがけ強烈な左膝蹴りが飛来。ヨモギはほとんど無意識に両手のひらで攻撃をガードしていた。だが攻撃を完全に防ぐことはできず、足が床から離れてヨモギは吹き飛んだ。


「年老いても、その脅かし方は相変わらずのようね。何も変わっちゃいない。ヨモギ警備主任、あんたの事も本当に嫌いだった。すぐにでも殺してやりたい。けど、まだよ」

 クイーンは張り付いていた天井から下りた。みぞおち部分の冷たい感覚を押さえ付けながら距離を徐々に縮める。


「殺す前にインタビューをする。知りたい事が分かるまで殺さないから安心しな」

 ここで臆すれば自分が自分でなくなる。これは過去への決別なのだ。クイーンは不安を悟られぬよう精一杯の虚勢を張った。


 大の字になって背中を床につけていたヨモギがゆっくりと上体を起こした。めまいがしたが、それはこらえてクイーンを見る。つい先ほどに受けた目が覚めるほどの攻撃がきっかけになったのかはわからないが、彼はクイーンの正体に最短距離で行き当たった。


「お前のその瞳、やはりどこかで見たことがある」

 試験管に浮かぶ不気味な肉の塊。鼻持ちならない研究者たち。怪物じみた雇い主。ヨモギの警備会社が現在の地位にあるのは、今でもムカつきを覚えるあの非人道的施設での警備業務のおかげだった。

「ヨコハマ・ドセンタンン研究所か。あそこにいたガキだろう、おまえは」


 敵前だというのにクイーンは動きを止めた。その身体が震える。心的ストレスによるものではない。それはまったくの逆、歓喜の震えだ。今回もどうせ……、半ば諦めかけていた所に過去の自分を知るものに出会えた。紅い唇が笑みを作る。

「そうよ、その通り! よおく見て、あなた達が作った怪物がここまで成長したの!」

 クイーンは過去から姿を現した断罪者のよう高らかに告げた。

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