メリーベル サイボーグ女探偵 外伝
銀次
第1話 姉弟
二人の子供は必死に暗闇から抜け出そうと逃げていた。暗闇からは、二人を捕まえるべく怪物が追いかけていた。
二人は死に物狂いで怪物を振り切った。それでも、彼らはいまだに闇の中にいた。怪物の潜む闇の中、二人は息を潜めて身を隠していた。ひと時も安らぐことはない。子供である二人にはそれしかできなかった。
そして月日は経ち、二人は成長した。一人はしなやかに美しく、そして苛烈な女性へ、一人は力強く強靭で、朴訥な男性に。成長した彼らは考えた。いつまでも怪物の影に怯えるのはごめんだと。それならば、取るべき選択は一つだけ。今度は自分たちが怪物を狩る番だ。
***
退廃都市ムサシにて
卒塔婆めいた高層ビルの乱立する都市。かつての技術革新によって躍進を遂げた独立都市ムサシ。いまや先端技術が集まる経済特区の一つであるその街の片隅に、忘却の彼方に押し込められたように寂れた商店街があった。
治安も悪いこのエリアの一角に佇む診療所。看板すら掲げられていないその診療所の扉を、大男が叩く。
***
診療所の扉を乱暴に叩く音が聞こえ、ホワイト医師はソファーから飛び起きた。珍しく診察も急患もなく暇な一日だったが、あと二十分で診療時間を終えるというところでその平穏は破られた。
〈世はすべてこともなし、とはいかないか〉軋む体をほぐしながら、ホワイト医師は診療所の扉を開けた。
「先、生……タスケテ、くれ」青白い肌をした大男が立っていた。その腕にはワインレッドのスーツを着た金髪の女がぐったりとして抱えられている。
ホワイト医師は男の顔を見て、次に女の状態を軽く観察すると、二人を診療所内に招き入れた。
「そこの診察台に寝かせろ。あんまり揺らすなよ」不織布マスクをしっかりと鼻筋に合わせ、医療用手袋をはめたホワイト医師は、キャスター付きの丸椅子に座り、目線を女の頭に合わせた。
「ヒメコ、今度は何をやらかしたんだ?」呟きながら、ホワイト医師はケガを観察した。
女の頭頂部にはぱっくりと裂けた傷ができている。見た目は派手に出血しているが、ケガの程度は軽いものだった。医師は患部にスプレー鎮静剤を吹きかけると、極細の針を皮膚に刺した。あとは裁縫と変わらない。またもや極細のピンセットで、丁寧に縫合を行う。キレイに縫えた。ホワイト医師は手当を終えた患者の傷口を見て満足そうにうなずく。
「これで大丈夫だ。安心しろ、軽い脳震盪だ。傷も塞いだから、こいつのことだ、明日の朝にはぴんぴんしてるだろう。そしたら次は、ジャックお前だ。念のために診てやる」ホワイト医師は手袋を外すと、ジャックと呼ばれた大男に近くの椅子に座るよう促した。ジャックは身を固くして首を横に振り拒否をする。
ホワイト医師が力強い目線をジャックにぶつけた。無言の攻防がしばらく続き、根負けしたジャックは肩を落として診察を渋々受けた。
ジャックの服には所々穴が開いており虫食い状態になっていた。ホワイト医師には、それが銃で撃たれたことでできた穴だとわかった。しかし服の下には治療が必要と思えるような外傷は見当たらない。弾丸が命中したとおぼしき体の部位には、わずかにアザができていたが、それもあと数時間すれば消えるだろう。
「相変わらず頑丈だな」ジャックの背中を軽く叩きながら、ホワイト医師は小さく笑った。かと思えば、すぐにその顔から笑みが消えた。「……なあ、今度は何をやったんだ? こんな事をお前に聞いてもムダなことはいい加減に覚えたがね、それでも…少し心配だ」
ホワイト医師の言葉にジャックの返答はなく、重苦しい沈黙が流れる。
「まあいいさ。さて、これで処置も終わりだ。動いていいぞ」
ホワイト医師が立ち上がった。膝からぱきぱきと音がする。医師は机の引き出しから鍵を取り出し、ジャックに手渡した。「上の部屋を使いなさい。部屋もちょうど掃除したばかりだから、埃は少ないはずだ。クローゼットの中もとくにいじっていないから」
ジャックはその大きな手で鍵を受け取り、首を縦に振った。
***
翌日、二人組の殺し屋の片割れであるクイーンは、診療所の二階で目を覚ました。
のっそりと身を起こした彼女は、肌寒さを感じて視線を下に落とした。服は着ていない。上下ともに下着のみだ。クイーンは掛布団を剥がしてベッドから抜け出した。嗅ぎ慣れた消毒液の匂いがする。部屋も以前と何も変わっていない。
クイーンは大きなあくびをしながら、部屋の扉真横にあるトイレに入った。頭頂部に痒みを感じたクイーンは用を足しながら頭に触れた。キレイに裂けたらしい傷に縫合がされているのが分かった。その後、彼女はクローゼットを開け放ち、目に付いた適当な服を選んだ。
ベージュ色のスキニーパンツとクマのぬいぐるみが印刷された白色のTシャツだ。金髪のロングヘアーに気の強い印象の顔つきであるクイーンが着るには、少々デザインが子供じみていた。
ベッドの足元に綺麗に揃えられたスリッパに履いて、クイーンは階段を下りた。一段降りるごとに木製の階段が軋みを上げる。表の診療所はコンクリート製だが、その裏側に位置するこの居住部分は先端都市ムサシには珍しく木製だ。大規模開発による建て替えを搔い潜った数少ない天然の木造建築だった。
古ぼけた廊下に出たクイーンは、そのまま右に曲がった。静まり返ったリビングを通り過ぎ、キッチンに向かう。リビングとキッチンを区切るビーズの暖簾をかき分けた。家屋と同じくらいに古ぼけた背中が目に入る。
キッチンの流しに立つホワイト医師が、クイーンに気が付き振り返った。
「おはよう。よく眠れたかい?」彼はコーヒーの注がれたマグカップを食卓に置いて言った。
「うん、多分ね。……おはよう」クイーンは居心地悪そうに返事を返す。
「それは良かった。頭の痛みはどうかな。昨日、ジャックが抱えて来たんだ。さすがに面食らったよ」
そこでクイーンはハッとして顔を上げ、ホワイト医師に相棒の居所を訊ねた。「ジャックは、ジャックはどこ」
「彼なら庭にいる。今日は暖かいから、日光浴には最適だ。もう一時間くらい経つんじゃないか」
クイーンは聞くや否や、サンダルを履いて勝手口から外に飛び出した。
ジャックはその爬虫類めいた瞳で、土管を半分ほど地面に埋め込んで作られたビオトープを覗き込んでいた。土管の内部は水で満たされ、苔が壁を覆い、底からは水草が伸びている。その間をオレンジ色の金魚や白く小さなメダカが泳いでいる。ペット飼育は、現在ではほとんど富裕層の趣味となっていたが、小型魚類の飼育だけはいまだ庶民にも手の届く存在だった。
クイーンの気配を察知したジャックが顔を上げた。金髪の長い髪が顔にかかる。クイーンがジャックの顔を上から覗き込んでいたのだ。
「何やってるの」クイーンが訊ねる。
ジャックが視線を土管に戻した。「サカナを、ミていた」
「ふーん。……一時間くらい見ていたって聞いたけど、そんなに面白いの? それ」クイーンはジャックの両肩に手を置いて身を乗り出し、一緒になって土管の中を覗き込んだ。金魚が悠然と泳ぎ、メダカは水草の隙間を忙しなく行き来している。クイーンは五分と経たずに眉を寄せ始めた。彼女には自然を観察する行為の面白さがまだ理解できなかった。
静かな時間が流れていた。だが、地の底から聞こえてくるような響きが静寂をうち破った。
ジャックが音の聞こえてきた方向、クイーンの方を見た。彼女は腹を両手で押さえ、恥ずかしそうに顔を背けている。
「……ほら! あなたが連れてきてくれた時から今までずっと寝ていたでしょ、だから何も食べてなくて、それでその…」
クイーンの弁明を聞きながら、ジャックがゆっくりと立ち上がる。その目は真っ直ぐで優し気だ。彼はクイーンの背中に手を添えて、室内に戻ろうと促した。
クイーンは俯きながらその誘導に従う。顔がまだ熱い感じがした。鏡を見れば間違いなく紅潮した自分の顔が見れることだろう。今にも逃げ出したい気持ちに襲われ、彼女は心中で絶叫を上げた。
朝食を食べ終えた二人にホワイト医師が食後のドリンクを供した。ジャックには牛乳を、クイーンにはブラックコーヒーだ。ホワイト医師は自分の席にもコーヒーを置いた。その横には牛乳パックが置かれる。
湯気を立てる熱いコーヒーを啜ったクイーンは顔をしかめ、食卓に置かれた砂糖と牛乳に手が伸びる。
「そういえば、今回はどれぐらいの間いるつもりだい」ホワイト医師は牛乳をコーヒーに少し注ぎ、スプーンでかき回した。
「そんなに長くいるつもりはない。長くても明後日までには出たいと思ってる」クイーンは砂糖をティースプーン五杯分コーヒーに投入しながら答えた。
「慌ただしいな、いいさ、ゆっくりしていくといい。でもあまり心配をかけてくれるなよ、ヒメコ。いいか無茶はするな。厄介ごとばかりに首を突っ込んでいると、ムサシじゃ命がいくつあっても足りない」ホワイト医師がクイーンに気遣いの言葉をかける。彼らに血縁関係はないが、友人よりは近しい間柄だった。
「何度も言ってるけど、ヒメコなんて呼ばないで。あたいはクイーン。ジャックとクイーンなのよ。もう子どもじゃないんだから、心配しすぎよ」さらに砂糖を五杯追加し、さらには牛乳まで追加したコーヒーをクイーンは一口飲んだ。まだ苦かったようだ。再び手が砂糖に伸びる。
「やめろやめろ、入れすぎだ! そんな事じゃ虫歯で先にお陀仏になりそうだ」ホワイト医師は苦々しい顔でクイーンを止めた。これ以上注げば、コーヒーカップにはコーヒーを吸収した砂糖の山が出来上がってしまう。
ホワイト医師に制止され、クイーンは手を引いた。納得が行かないという表情で医師を睨むと、持っていたコーヒーを一気に飲み干して立ち上がった。
「ごちそうさま! ジャック、行こう!」
きょとんとした表情でジャックが相棒の顔を見る。そして慌ただしくクイーンの後を追った。
「どこに行くんだ。」
「どこでもいいでしょ」クイーンがホワイト医師に言い返す。
「せめて行き先くらい教えてくれ」ホワイト医師が食い下がる。
「ぬぅう、青空マーケットで買い物してくるのよ!」クイーンはそう言って診療所の裏手にある居住エリアの玄関から飛び出していった。そのあとをジャックが追いかけた。
一人残されたホワイト医師はため息を吐いた。〈さすがに心配のしすぎだったか。いや、ああ見えてあの子たちもまだまだ子供だ。心配しすぎってことはない…はずだ〉
『あたしたちは強くなる。強くなってあいつらに後悔させてやるんだ』
幼いクイーンの決意表明を昨日のことのように思いだす。怒りに燃える少女の真っ直ぐな瞳をあの時のホワイト医師は直視できなかった。それは今でも同じだ。平和に生きてほしかった。普通の子どもとして成長してほしかった。何度も、何度も復讐を諦めるように説得を試みてきたが、その度にクイーンはその意志を強くしていった。もう止まらない。止められない。彼女は最期の瞬間までその意志を貫き通すだろう。
***
「ねえおじさん、何でこのムチが四万もするの。これこの間三万だったわよね?」
クイーンはショーケースに陳列された愛用のムチを指差して言った。先日の仕事にて、愛用していた武器を仕事現場に置いてきてしまったため、新たな装備を購入する 必要に迫られたのだ。
しかし、クイーンは今、決断に迫られていた。以前に購入した時と現在の価格の大きなギャップに、彼女は面食らっていた。明らかに予算オーバーなのだ。だが、ムチを武器とする人間はムサシでも少ない。店頭販売で愛用のムチを取り扱っている店はさらに少ない。選択肢は限られている。
「これ値段間違えてない? 本当に?」クイーンが店主に訊ねた。これで二回目だ。
「諦めないねえ。でも残念。いくら聞かれても値段は変えられないよ」禿げ頭に鉤鼻の店主があくびをする。
「それでも高すぎる」
「そりゃそうよ。鞭なんて使うやつはなかなかいない。てことは需要が少ない。需要が少ないと仕入れの数が少ない。仕入れが少ないと仕入れ値が値切れない。そうなると店に並ぶころには、こうなる」店主は肩をすくめた。
「おのれ資本主義……」クイーンは低く唸った。
「これなんかどうだ。見た目は違うが種類は同じムチで数も多いから値段も安い」店主はそう言って持ち手から先が幾重にも分かれたムチを示した。
クイーンは怪訝な表情でムチを手に取った。平たく薄い人口皮革が細断されて無数の触手となっている。軽く振ると情けなくムチが空中で揺れた。これでは全力で振らなければ相手にダメージを与える事は難しい。それに射程もまったく足りない。少し相手が距離を放してしまえばたちまち無意味になってしまう。クイーンの求める要素の一切を、そのムチは持たなかった。
「こんな物、なにに使えるわけ?」
「何って、そりゃあなあ。いるんだよ。うちの店をそういうグッズの店だと勘違いしてくる馬鹿が結構。それを馴染みの業者に言ったら安く売ってくれた。悲しいことにかなり売れる」
「理由になってない。これの使い道を聞いてるの」
「本気か? お楽しみ用に決まっているだろ。そりゃあ」店主は苦笑いで答える。この客は見た目よりもずっと年齢が若いのではないか。そんな疑念がよぎった。
店主の返答にクイーンは納得がいかない様子でムチを棚に戻した。
「意味わかんない。まあでもいいわ。とりあえずこっちのムチをちょうだい」クイーンは手首に埋め込んだマイクロチップを決済端末にかざした。
「まいどあり。袋はつけるかい?」店主がレジを操作して売却を承認。契約が成立した。ショーケースから取り出された鞭がクイーンに手渡された。
「いいね。よく馴染む」商品を受け取ったクイーンはムチの感触を確かめ、二、三振るった。軽快な音をたてて空気を切り裂く。店主の取り出した紙袋にムチをしまい込むと、クイーンは満足げに店を後にした。先人は言った。悩む理由が値段なら買えと。信用のおける装備を用意するのは、命のやり取りを生業とする者にとっては当然の選択だ。
クイーンは次に雑貨屋を訊ねた。頭上の古くなった看板には消えかかったキソイ商店の文字がある。
「いらっしゃい」前掛けをつけて背中を丸め正座姿勢で座布団に座る老婆が、クイーンに言った。
「こないだの仕事。それの報酬を受け取りに来た」腰に手を当てたクイーンが老婆に言う。キソイ商店は一見するとレトロな個人商店に見えるが、実態は傭兵や殺し屋に仕事を斡旋するフィクサーの根城であった。
「ヒッヒッヒッ、ご苦労様」老婆が不気味に笑う。その笑いが、クイーンは少し苦手だった。まるで絵本に登場する魔女そのものの笑い方。これだ、この響くような笑い声。暗く薄汚れた室内と相まって余計に不安を駆り立てる。
「今回の報酬だよ。確認しとくれ」老婆は棚の引き出しから輪ゴムでまとめたニューイェン札の束と指先サイズのデータチップを取り出し、テーブルに置いた。兵器工場襲撃犯への協力。その見返りが今回の金銭とチップ内の情報だった。
クイーンは金をポケットにしまい、データチップを耳の裏に増設した補助脳のスロットに挿入した。求めていた情報が網膜ディスプレイに投影。二名の名前とそれぞれの人物の行動予定がチップには記録されていた。この情報はクイーンにとって金よりも価値があるものだ。
「また何かわかったら知らせて」クイーンは老婆に念を押した。
「勿論だよ。その時には……ヒヒヒッ」老婆が意地悪そうに笑う。
「わかってる。仕事でしょ。やってやるわよ。ジャック! 行こう!」目的の物を手に入れたクイーンはジャックの手を引いて外に出た。
装備は調達した。必要な情報も手に入れた。あとは決行当日を待つばかりだ。
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