第12話 摩耶とデート①

 僕は彼女を待っている。といってもガールフレンドではなく、石動摩耶だ。昨日突然デートしようと言ってきて、どんな魂胆があるのかと怪しみつつも流されるまま駅前で待っている。

 僕と摩耶はかもめ台駅で会う約束だった。でも待ち合わせの時間を過ぎても現れない。群れからはぐれた烏が頼りなげに空を低く飛んでいた。長く伸びた影に薄い陽の光が重なって、季節の境界線を示している。

 彼女からは何の連絡もない。のんびりしている僕だが、やはり気になる。それで「こんにちは石動さん、今どこ?」とメッセージを送ってみた。すると、「私は駅にいるけど、藤原君は来ないの。そろそろ帰ろうかな」と返事が来た。駅にいる? おかしい。待ち合わせ場所はここのはずだ。

「今かもめ台駅にいるけど、石動さんは?」

「私は緑ヶ丘駅。待ち合わせは緑ヶ丘駅のはずだよね?」

 いや、確かにかもめ台駅だった。石動さんが間違えているのではないか。でもそんなこと言ったら彼女の機嫌が悪くなりそうだしやんわりと、「あれ、どっちの駅だったっけ。かもめ台駅じゃなかったかな」と言った。その言葉に彼女は反論する。このまま堂々巡りをしてもいいことはない。僕は石動さんに謝り、すぐさま緑ヶ丘駅に向かうことにした。

 空は秋晴れとはいかず、ぐずついた曇り空だ。やれやれ、気が重い。

 緑ヶ丘駅では制服姿の摩耶がベンチで待っていた。名前を呼ぶと彼女は物憂げな表情で足をばたばたさせた。

「おはよう、藤原君」

「こんにちは、石動さん」

 摩耶に合わせて「おはよう」と言うにはもう午後一時を過ぎているし、朝の挨拶はやっぱり変だ。僕の挨拶が気に障ったのか、摩耶は僕に背を向けてあやとりを始めた。これは言葉のレトリックではなく、彼女は本当にあやとりをしていたのだ。そしてぼそっと、

「なんですぐにメッセージくれなかったの?」

 と言った。反論する気は毛頭なかったけどつい、

「石動さんも連絡しなかったじゃないか」

 と言ってしまいすぐ後悔した。こうやって男は断崖に追い詰められていくのだ。

「こんなところで三十分以上も待たされる身にもなってほしいな」

 機嫌が悪いみたいだ。世の女性には失礼かもしれないけど、女の人が不機嫌になるのは通り雨みたいなものだから、適当にやり過ごすのがいい、と父が言っていた。いよいよその教えを実行する時が来たのかもしれない。

「石動さんに会えて嬉しいよ」

「ふぅん? ま、いいわ。行きましょ。私お腹すいちゃった」

 機嫌を取ろうと思って見事にスルーされてしまった。でも摩耶の表情は和らいだような気がする。

「それじゃ、ラーメンを食べに行きましょう。とっておきのラーメン屋があるの」

 僕もお腹が空いていた。めぼしい昼食の場所はある程度リサーチしてきたけど、摩耶のおすすめの店があるなら、おとなしくついていくことにした。

「石動さんのおすすめの店なんて、きっといい店なんだろうね」

「うん。私は結構味にはうるさい方なんだけど、今から行く店はね、特別」

 楽しそうに店の特徴を摩耶が話す。けれど彼女の話を聞いているうちに、僕の心はざわついてきた。なぜなら彼女が行きたい店は、僕と雛乃がこの世で最もまずいと烙印を押した「放夢蘭軒」なのだ。八百万の神さま、何かの間違いだと言ってくれ。

「ここだよ」

 やはり「放夢蘭軒」だった。摩耶はのれんをくぐり店の中へ。相変わらず気色の悪い電飾が店中で光っていて、大きな水槽には見たことのない金魚が泳いでいる。所狭しと貼られたピンナップポスターは、いつの時代かわからない外国女優の妖艶な笑みを僕に向けていた。

 僕は彼女の機嫌を損ねないために、とりあえず摩耶のセンスを褒めておくことにした。すると摩耶は得意そうに、

「そうでしょう、私あんまりラーメンは食べちゃいけないって言われてるんだけど、ここだけは別。さあ、注文しましょう」

 と言った。僕たちは油ぎとぎとのメニュー表をめくる。どこからともなく現れた不気味な三毛猫が「いらっしゃい」と鳴いている。

 摩耶はぱらぱらとメニューを確認程度に見て、塩ラーメンに決めたようだった。即決なんてこの店の常連ぽい。僕はチャーハンにしようとしたが、摩耶に却下された。

「チャーハンなんて邪道だわ、ここに来たらラーメンよ、ラーメン」

 仕方なく一番無難そうな醤油ラーメンとコーラを頼み、喉が渇いているわけでもないのに、しこたま水を飲んだ。

「この店にはよく来るの?」

「たまに、かな。お父さんが連れてきてくれるの」

 彼女のエキセントリックな父を思い出した。あの親父ならこの店にぴったりかもしれない。ふと摩耶の親が気になり、母親はいないのかと聞いた。

「言ってなかったっけ、お母さんは私を産んだ後すぐ死んじゃったの」

 余計なことを聞いてしまった。摩耶に「変なこと聞いてごめん」と謝ったところ、

「ううん、気にしてないから大丈夫。そんなことよりラーメンだよ。ほら、できたみたい」

 カウンターにラーメンが置かれる。まったく禍々しい代物だ。このスープの濃さ、尋常じゃない。絶対おかしな調味料が入っている。しかも麺の太さも適当で極太の麺もあり、そうめんのように細い麺もある。食べる前から食欲が出ない。

 ゆっくり食べればいいのに、摩耶は初めからトップギアでどんぶりに突っこんでいった。そんな彼女を横目に僕は胡椒を多めにふりかけ、それからようやく麺をすすった。 

「どう、おいしいでしょ」

 恍惚の表情で僕に同意を求めないでほしい。控え目に言って彼女は味音痴だ。 

「そうだね。ゆっくり味わいたいよ」

 一口食べては水を飲み、何とか麺を体に流し込んだ。そんな僕の姿を摩耶は訝し気に見つめる。しまった、まずいと思っていることに気づかれてしまったかもしれない。

「私子どものころラーメン食べられなかったの。塩分が多くて体に悪いから」

「食生活に厳しいお父さんだったの?」

「昔は体が悪かったから。それにこれからだっていつまでラーメンが食べられるかわからないの。また病気になったら無理ね」

「でも今は元気なんだ?」

「まあね。私十歳のとき初めてラーメンを食べたの。こんな美味しいものが世の中にあるなんて信じられなかった。それから体がいいときはよくラーメンを食べに行った。この世の天国ね」

 摩耶は本当にラーメンが好きなようだ。恍惚の表情で麺をすすっている。さすがにスープを全部飲むのは憚られたのか、少し残している。

 摩耶が食べ終わってから十分以上経過して、僕もようやく完食できた。しかし代償は大きい。きっと僕の顔は、あの青色電飾と同じ色になっているに違いない。体を平衡に保たなければ、すぐにでも戻してしまいそうだ。僕は平静を装いお会計をして店を出た。

「石動さんのおすすめの店、よかったね」

 と心にもないことを言った。すると摩耶は全てを見透かしたように、

「本当はまずかったんでしょ。顔に出てたよ。嫌いなら初めからそう言えばよかったのに。私にいい顔しようと思ってご機嫌取りしようとしたの? まったく、あなたって他人に合わせすぎなんじゃない」

 不機嫌な摩耶が戻ってきてしまった。確かに摩耶に合わせようとしたのは間違いない。でもその行動がそれほど間違っているとは思えない。

「確かに流されるところがあるけど、自分の意思を言わないわけじゃない。今日は君が強引だったんじゃないかな。食事ってお互いの意見を聞いて店を選ぶものだろ。自分の好きを押し通しすぎじゃない?」

 自分の意見がないと言われたから少し腹が立った。だから冷静を装って、無造作に反撃のノックを摩耶に打ってみる。すると摩耶は立ち止まり硬直した体を震わせた。

「藤原君と私って気が合わないみたいだね。観覧車で気の迷いを起こさなくてよかったわ」

「気の迷いって?」

「どうでもいいでしょ、そんなこと!」

 今日の摩耶は子どもみたいだ。いつも僕の前では冷静でクールな印象だったから、正直ギャップに驚いた。でも意外な一面が見れて嬉しい。そう思うと何だかおかしな気分になって笑いが漏れてしまう。そんな僕を見て怒気が削げたのか、摩耶はすたすたと僕の顔を見ずに歩き出した。しかし何もないところでつまづく。僕が肩に触れ手を貸そうとすると、何事もなかったかのように立ち上がった。

「あーあ、喉かわいた。藤原君も何か飲む? 君の好きな飲み物は何?」

「豆乳かな」

「まさか無調整豆乳じゃないよね」

 あからさまに嫌そうな顔をしている。僕は胸を張って無調整豆乳好きだと摩耶に言った。

「あんなものを好んで飲む人とは仲良くなりたくないわ」

 なぜ彼女がそこまで無調整豆乳を憎むのか、さっぱりわからない。少なくとも「放夢蘭軒」のラーメンよりはましだと思うが。

 自販機でお茶を買って飲んでいるうちに摩耶の機嫌は良くなっていった。あまり怒りが持続しないタイプのようだ。


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