第5話 奇妙な男
それから一週間ほど経った土曜日。雛乃の定期検診の日が訪れた。雛乃は三か月に一回、近くの山下病院に検診に行く。隣の部屋が騒々しく、身支度を整えるドタバタ音が僕の部屋まで響いてくる。僕はとっくに準備を終え、あとは雛乃待ち。病院には僕も付き添い、その後昼食を取るのが恒例行事だ。雛乃は、診察はイヤだと言いながらも、食事が楽しみなようで「今日は何を食べようかな」と目を輝かせている。
病院へ行く途中、僕たちはいつも他愛のない話をする。雛乃の友だちのこととか、最近ハマっているものとか。「お兄ちゃん、あのさ、昨日安達さんが…」と話し出す雛乃を見て、高校生になっても妹とこうやって仲良くお喋りをしながら歩ける幸せをかみしめた。
土曜日の山下病院は意外と静かで、待合室もあまり埋まっていない。雛乃はいつも通り外来の受付を済ませ、そのまま軽い足取りで待合室の奥へと進んでいった。雛乃の検診が終わるまでの間、ビニール張りの長椅子に腰を落ち着ける。
待合室には雑誌やコミック誌などが置かれていて退屈しない。こういう時でないと読まない雑誌もあるものだ。例えば「メンズ時計コレクション」とか「釣りダイジェスト」とか。僕はメンズファッションの雑誌を読み始めた。でも読んでいるうちに少しずつまぶたが重くなり始めた。
どこかで時計の秒針音が聞こえる。うとうとと心地よくなってきた頃、ふと、摩耶のことを思い出した。黒髪のミステリアスな少女。僕は想像の中で彼女の背中を追いかけていた。
「結構かわいかったよな……」
と、思わずひとりごちるけど、口にしてから胸が灼けるのを感じた。彼女のことを考えるたび、平穏だった僕の日常に小さな波紋が広がっていくようだ。数回会っただけなのに、彼女のことを何度も思い出してしまう自分が可笑しくなる。
そんなとき、僕の隣に細身の中年男性が遠慮なしに座ってきた。待合室は空いているのにどうしてわざわざ僕の横に座るんだ?
男はひと昔前のヘビーメタルシンガーのようだ。まだらに白い長い髪が顔半分を覆い、片目だけぎょろりと見えていた。男は黒いマントを羽織り、首にはシルバーのネックレス。摩耶の親父といい、最近の大人は少し変だ。
「少年、タバコ持ってるか」
そう話しかけられ、僕が丁寧に「持っていません」と言うと、男は舌打ちをしてがさごそと鞄を探った。それを見た看護師に「禁煙ですからね」と咎められ、所在なげにぼりぼりと頭を掻いている。
「まったくこの病院はいつ来ても空いているな。俺が買い取ってやろうか」
確かに人は少ないけど、この男に買われるほど経営は苦しくないだろう。そして男は暇そうに手足を動かしていたが、ふいに僕の持っている雑誌に目を止めた。表紙のグラビアアイドルが気になるのだろうか。
「少年、おいしいレモネードの作り方知ってるか」
男は僕から雑誌をひょいと奪った。表紙の隅の方に「レモネードで異性の心をゲット」と書かれている。急なことに面食らい、レモネードの作り方など知らないと早口で答えると、頼んでもいないのにレモネードの作り方を力説し始めた。
「まず、新鮮なレモンを使うこと。できれば国産がいい。わかるか」
適当にあいづちを打つ。
「次に、ここがポイントだ。砂糖をそのまま入れると溶けにくいから、水と砂糖を1:1で煮てシロップにしておくと、スムーズに甘さが混ざるんだ。あとは、蜂蜜も入れた方がいいな。風味に深みが増すから」
病院の待合室で、見知らぬ男にレモネードの作り方をレクチャーされる僕。この出会いが僕をレモネード職人へと導く……わけがない。早くこの災難が去ってくれないかしらとひたすら笑顔で男の話を聞く。男は次第に興奮してきて、唾が僕の顔に飛んできた。
「あと、氷は後で入れるんだ。最初から氷を入れると味が薄くなりやすいからな。味を整えてから最後に氷を入れると、味がしっかりと保たれる。水のかわりに炭酸水を使ってもうまいぞ。わかったか、少年。ほら、こんな感じだ」
写真にはバラの花と美味しそうなレモネードが写っていた。
「ええと、あなたはカフェの店長さんか何かですか」
「私は医者だ。この病院に知り合いがいるからな。遊びに来たんだ。いやぁ、レモネードの極意を伝えられてよかった」
どう見ても医者には見えない。こんなメフィストフェレスみたいな風貌では、患者が怖がりそうだ。
「じゃあな、少年。彼女ができたらレモネードを作ってやれよ」
僕はぽかんと彼を見送った。雑誌のレモネード記事を見てみると、確かにさっき男が言った作り方がそのまま書かれていた。やはり男は医者ではなく、カフェの店長だ。
「お兄ちゃん、診察終わったよ。今日はほとんど雑談で終わっちゃった」
診察室から出てきた雛乃は、ひと仕事終え晴れ晴れとした顔をしている。今日はずいぶんと診察が早いなと思いつつ、雑誌をラックに片づけようとしたら、
「誰かと話してなかった?」
と聞くからさっき会った変な男性の話を雛乃にした。するとみるみるうちに雛乃の顔色が青く変わっていく。心配になり大丈夫かと声をかけるとおどけた調子で大丈夫と言った。
「じゃ、お昼食べに行こう。今日はお兄ちゃんの好きな店でいいよ」
「放夢蘭軒のラーメン……」
「そこだけは絶対イヤ!!」
雛乃は恐怖のあまり金属音のような悲鳴をあげた。それもそのはず、放夢蘭軒は僕たちが最も忌避するラーメン屋なのだ。外見は普通の店だが、中に入るとおよそラーメン屋とは思えない、青や赤の電飾で壁や天井が覆いつくされ、ドクロの怪しげなオブジェや骨董品が所狭しと並べられている。ラーメンの味もいわずもがなだ。きっとこのラーメンを好む人はよほどの味音痴だ。僕たちは二度と放夢蘭軒にだけは入るまいと心に誓ったのだった。
結局無難なハンバーガーチェーンに入る。たくさんの人で賑わう店内はハンバーガーとコーヒーの香りで満たされ、それだけで僕は癒された。
「そういえばお兄ちゃん、例のいするぎさんは見つかったの?」
指に付いたポテトの塩を舐めながら、雛乃が聞いた。まさかここでその話題が出るとは思わず、僕は飲んでいたコーラをふき出してしまった。やれやれといった様子で紙ナプキンを差し出す雛乃に、例の手紙の件とその後の顛末を話した。
するとそれまで順調にポテトをつまんでいた雛乃の手がピタリと止まった。僕に話の続きを促しつつも、頷く声には微かな緊張が混じっているように思えた。彼女は視線をふっと逸らして、ハンバーガーの残りを一気にがぶりと頬張る。目を閉じ咀嚼する雛乃から感情が読み取れない。ハンバーガーを味わっているようにも見えるし、僕の話をうまく嚙み砕けずにいらいらしているようにも見える。
「実は雛乃の話をしたら、石動さんが会いたいって言っててさ」
雛乃がふっと窓の外に目を逸らす。外ではふたりの女子高生が楽しそうにスマホを見せ合っている。ほほえましい青春の風景だ。けれども雛乃はじっとその高校生を見ながら何かを思っているようだった。それが何かは勿論僕にはわからないけれど。
「雛乃だっていろいろな友だちと作りたいって言ってたし……どうかな」
雛乃は動きが止まり表情もさらに沈んでしまった。この言葉は藪蛇だったと思い、僕は話題の転換を図る。
「でも雛乃が石動さんと会うのが嫌なら、僕ももう会わないよ。いするぎ事件も終わり」
「別に私はその人に会いたくないわけじゃないんだ。でも全然知らない人に好意を持たれるのはちょっと怖いかも。人間なんて打算で生きているんだし、私と会うことで何か利益を得ようとしているのかもしれない。人を見たら泥棒と思えってカクゲンがあるでしょ。まぁそこまで悪意はないと思うけどさ」
そう言いながら、雛乃は一瞬考え込むように眉をひそめた。
「とにかく私はその石動さんと会うのは見合わせます。それにね」
彼女はふいにこちらを睨みつけて、声を強めた。
「お兄ちゃん、勝手に妹の個人情報を流すのはやめてよね。そういうことするとお兄ちゃんの恥ずかしいネタも全世界にばらまくよ」
そう言って僕の口にポテトを突っこんできた。雛乃が石動摩耶と会いたくない理由は他にないのかと思ったけど、雛乃の元気がなくなるのは耐えられないし、聞かないことにした。でも誰とでも仲良くしたがる雛乃が拒否反応を示したことは僕には意外だった。
その日僕たちが摩耶の話をすることはそれ以上なかった。
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