第5話
『わぁ……。ぶどうの花が咲いてる!』
『ぶどうの花?』
思い出すのは幼少期に住んでいた家の庭。そこには春になると、自然とムスカリの花が姿を現す。
おいしい秋の果物にそっくりなこの花は、アルトのお気に入りだった。
『ぶどうの花! こうやるとぶどうでしょ?』
そばに生えている花を手折ると、父親に向かって逆さまにして見せる。彼は膝に手をついて視線を低くした。
『本当だ。でもこれはムスカリって言うんだ』
晩御飯の後に図鑑を開き、父親が教えてくれたのが懐かしい。
『おとーさん、”はなことば”ってなぁに?』
『花を誰かに贈る時、意味を持たせるためだよ。好きとかがんばれとか』
『じゃあぶどうの花は?』
(明るい未来、通じ合う心……)
そんな昔のことを覚えているなんて自分でも驚いた。しかも花言葉まで。
アルトは狭い空間で昔のことを思い出し、感傷的になった。
幸せだった頃の記憶。今でも幸せと感じることはあるが、両親が生きていたら……と考えてしまう。もちろん祖父母との生活も楽しい。二人は惜しみなく愛情を注いでくれる。
今日は幼稚園時代の幼なじみに再会し、以前のように毎日一緒にいられることになった。
華との関係も改善できたらいい。肇はどうなるかは分からないが、普通に話せるようになったら嬉しい。皆のように華とのことをからかいたい。虫がよすぎる未来だが、アルトは内心ワクワクしていた。
誰かと仲良くするのも悪くはない。
「アルト?」
「……ん」
「これからどうすんの……!」
「あー……」
ここは校舎内のだれでもトイレ。川添から逃げたアルト、タイム、双子はここで身を潜めていた。
「ハルヒ、さっきの花の名前思い出した。ムスカリだよ」
「今はそれどころじゃねーだろ! アルトもマイペースだよな……」
ハルヒは”そうなんだー!”と顔を輝かせたが、ミカゲはため息をついた。
「俺ら、テツと華のこと置いてきちゃったけど大丈夫かな……」
「大丈夫だよ。テツは逃げ足早いし、華は肇が守ってくれるから」
タイムがトイレの窓を短く開けた。
グラウンドには教師しか残っていない。彼らは体育館の前に向かって歩いていた。表情は見えないが雰囲気は重苦しい。
「華と肇って付き合ってるの?」
「ハルヒお前……。登校してからそればっかだな……」
「幼なじみだけど肇は好きみたい。華は気づいてないみたいだけど」
「へぇ、告白しちゃえばいいのにね」
「シャイなヤツが多いんだよ」
タイムは窓を閉めると、壁に寄り掛かった。
「警察がもうすぐ来るんじゃないかな。アルト、どうしたい? 何か考えがあって川添先生から逃げたんだよね?」
「考えはない……。勝手に体が動いてた。でも、つかまってる人たちを助けたい」
アルトは拳を握った。その顔が決意に満ち溢れる、ということはないが瞳に炎がゆらめいている。
「俺は賛成。一緒に行くよ」
「はいはい私も!」
「お……俺もだ! あぶねーけど背に腹は代えられねぇ」
正直止められると思っていた。ハルヒとミカゲならノってくるだろうと思っていたが、タイムが賛同するのは意外だった。
「ステージの脇にはマイクスタンドがある。それを武器にしよう」
「マイクもいい凶器になるよ! 最近見たアニメで撲殺事件に使われてた」
「このオタクが……。俺は職員室前にあるさすまたを拝借するかな」
自分以外のメンバーは作戦を立てることができてすごい……と、アルトは焦っていた。自分はつかまってる人たちを助けたい一心で、細かいことは考えていなかった。
「おいコラアルト! ここにいんだろ!」
トイレの扉が激しく叩かれた。大きな音に全員で肩を震わせ、窓側にかたまった。声の主は川添だろう。
「もう見つかった!?」
「開けろ! お前に何かあったら
「誰、きょうこさんって」
川添の懇願する声に、アルト以外が彼女のことを見た。
「私の叔母さん。川添さんの同級生」
アルトは冷静に答え、トイレの窓を開け放つ。同時にトイレの鍵をこじ開けようと、カチャカチャという金属音が聴こえた。
「細かいことはどうでもいい。行こう」
彼女は窓枠に足をかけると華麗に飛び降りた……と言いたいところだが、見事に転がり落ちた。
体育館はバスケ部と卓球部が活動している。卓球部は男女混合だ。二つの部活の間には緑の網のカーテンが引かれ、ピンポン玉が飛んでいかないようにしてある。スマッシュを打つところを何度か見たことがあるが、なかなか勢いがある。網カーテンがなければバスケのゴール下まで転がっていきそうだ。
しかし時々、カーテンの隙間を抜けてバスケ部の方へ転がってしまうことがある。今日もそうだった。いつもなら気づいた者が卓球部側に投げ返すが、誰も拾うことはできかった。
ステージの真下にはバスケ部が一列で並び、皆怯えた表情をしている。大半が震えたり、泣いてしゃくり声を上げていた。
その前で自由に動いているのは、彼女たちよりも大柄な男。全身黒い服とのっぺりとした髪、手にはナイフ。柄を指先で持ち、足を踏み出すたびにナイフを振っている。
加奈はその内の一人で、隣で泣いている後輩の肩を抱いていた。
職員室に挨拶しに行き、教師たちに近況報告をした。異動で知らない教師もいたが、大半はお世話になった教師ばかりだ。嬉しくてついつい話し込んでしまった。
するとバスケ部の顧問に肩を叩かれ、時間があったら後輩たちを指導してくれないかと声をかけられた。
この学校の教師たちの中で長身で、あまり笑うことはなかった。だが、部活の指導には誰よりも熱心だった。反抗していた時期もあったが、この教師のことは誰よりも信用していた。
二人で体育館に入ると、自主練を行っていた生徒たちがこちらに向かって一斉に礼をした。その中には高校生になった卒業生がまぎれている。
自分も先生や先輩が来た時にやっていたっけ、と当時の気持ちを思い出す。
『加奈先輩! お久しぶりです!』
『先輩!』
一斉にやってくる後輩たちが可愛くてたまらない。加奈は皆に向かってにっこりとほほえんだ。
『こんにちは、遊びに来ちゃった』
『めっちゃ嬉しいです! てか制服可愛いですね』
『これ?』
加奈の高校の制服は市内で五本の指に入るほど、デザインが人気だった。ダブルボタンのジャケットにリボン、チェック柄のスカート。丈は中学の制服よりも短い。
『あたしも加奈先輩と同じ高校に行きたいんです』
『マジで!? 頑張って!』
『でも来年卒業ですよね……』
自主練していた彼女たちは次から次へと声をかけてくる。自分で言うのもなんだが、加奈は後輩からよく慕われていた。
このままでは話が尽きない。後輩たちに、”休憩になったら話そっか”と声をかけた。
加奈はジャケットだけ脱ぐとストレッチをして体をほぐし、後輩に投げられたボールを受け取ろうとした────
『きゃあぁぁぁ!!』
金切り声がし、ボールを取り落とした。卓球部がピンポン玉を打ち付け合う音が消されるほどの悲鳴。ざわざわとし始め、加奈はボールを拾い上げて顔を上げた。
皆が注目しているのはグラウンド側の体育館の出入り口だった。そこには全身黒で覆われた大柄な男がナイフを持ち、目を血走らせていた。
バスケ部の何人かは別の出入り口から飛び出し、卓球部たちも外へ出て行った。
顧問が男の前に飛び出てボールを打ち付けようとしたが、男の咆哮によって阻まれた。
『うるせぇ! 全員おとなしくしろ! お前もだ』
『先生……!』
逃げ遅れて不安そうな生徒の顔を横目に、顧問はボールを床に転がした。
『全員ステージの下に並べ。逃げようとしたら殺す。早く!!』
男はナイフを振り回しながら、めちゃくちゃな抑揚で叫んだ。
加奈は両横の後輩をなだめながら、一体どうしたら……と考えあぐねていた。飛び出していった生徒たちが教師に伝えて、警察が来てくれたらいいのだが。
「立てこもりってヤツ……?」
「かもね」
後輩の反対側にいる卒業生と小声で交わす。彼女とは同じ学年だ。接点は部活しかないが、共に汗を流した仲間だ。
「この後彼氏と会う約束してんのに……」
うらやましい約束だ。加奈は震える後輩の肩をさすりながらうつむいた。
こんな時、彼氏がいて助けに来てくれたら。”もう大丈夫だよ”、と優しく抱きしめてくれたら。
タイムの顔が思い浮かんだ。サッカー部の練習を眺めていたが、そこにタイムの姿はなかった。
三年生になった彼はたくましく、さらにかっこよく育っていることだろう。声変わりはしても、あの声は柔らかさを保ったたままでいてほしい。
男はナイフをゆっくりと揺らしながら、加奈たちの前を行ったり来たりしている。その度に後輩たちが怯えて身をすくめていた。
ナイフが鈍く光る度、タイムのことを見ないまま死にたくないと願っていた。
もし彼に再び会うことができたら”好き”と伝えたい。これを潜り抜けたらそれだけの勇気は身についていると思う。
(タイム君……。助けて────!)
決心した時、心の中で彼に助けを求めていた。
だから、ステージから飛び蹴りを男にくらわせた彼を見た時、願いが通じたのかと泣きそうになった。
誰でもトイレの窓から脱出したアルトたちは、体育館に続く渡り廊下で息を整えていた。
「アルト……。相変わらずドジっ子だね?」
「……そんなことない」
「幼稚園の時、跳び箱の上で転がっていたよな。お遊戯会で右と左が分からなくなることが多かったよな」
「うるさいよ」
一人だけ肩で息をしているアルトは、声に怒りをのせていた。幼なじみに再会できたのは嬉しいが、幼い頃のダサい話を掘り返されるのは気分が悪い。特にタイムの前では。
「中は静かそうだね……」
タイムはドアに耳を押し当て、中の様子を伺っていたらしい。ドアノブに手をかけ、音を立てないようにそっと開けた。
ステージの脇にはバスケ部のリュックやら制服が乱雑に置かれていた。薄暗い中、それらに足をとられないように一人ずつ静かに侵入する。
ステージの脇にはピアノ、マイクスタンドがある。忍び足で上がったハルヒはマイクを引っこ抜いた。続いてタイムとミカゲがマイクスタンドを掴む。
ステージ前の様子を盗み見ると、男は生徒たちの前を行ったり来たりしていた。こちらには気づいていないようだ。
「……じゃあ、俺が男に不意打ちで攻撃。うまく倒せたらハルヒがマイク二本で頭をグリグリする。男の動きを止めてる間に、アルトとミカゲが皆を逃がす。ミカゲはアルトが逃げ遅れないように警戒してほしい。もし男が逃げ出したらミカゲと俺がなんとかする。ハルヒとアルトは皆と逃げるか、隅で固まる。いいね?」
かたまって顔を突き合わせた四人は、タイムの小さな声にうなずき合った。
「ハルヒ、間違えてもマイクで殴り殺すなよ。犯罪者のきょうだいはごめんだぜ」
「そっちこそ! アルトのことちゃんと守ってよ」
「……言われるまでもねーよ」
ミカゲはメガネを押し上げて視線をそらす。マイクスタンドを握った腕の血管が浮き上がった。
「アルトは身の安全を第一に。一番心配だから……」
「……いろいろがんばる」
「次、男が向こうを見た瞬間に行こう」
そうしてタイムを皮切りにハルヒ、ミカゲ、アルトの順にステージを飛び降りた。今度はアルトも無事に着地し、全員が安堵した。
「ごっ……」
タイムの蹴りをモロにくらった男は白目を向き、床に倒れ込んだ。バスケ部たちは小さい悲鳴を上げたが、同じ制服が現れたことによって表情が和らいだ。
その瞬間に顧問は血相を変え、体育館の扉を勢いよく開け放った。重たい鉄の扉は、生徒では二人がかりでないと開けられない。
「早く! 逃げろ!」
ミカゲがマイクスタンドを構えて怒鳴った。
腰が抜けて動けなくなってしまった生徒は、アルトが手を貸して立たせた。
タイムはマイクスタンドの三つに分かれた足を使って男を押さえつけた。
蹴りをくらった直後で背中が痛むのだろう。男は悪態をつきながらも抵抗できないでいた。そこにハルヒが側頭部をマイクでねじこんでくるものだから悶絶している。しかし、ナイフだけは離そうとしなかった。
「ぐわあぁぁ……っ!」
「ハルヒ、もういよ。皆逃げた」
タイムの声でハルヒは立ち上がると、ドヤ顔でマイクを、二振りの短刀のように構えた。アニメ好きのオタクである彼女はこの状況を密かに楽しんでいたのだろう。
「学校に不審者が入った時のシミュレーションは何回もしてたんだよね!」
「なんで?」
「え……。誰しも妄想するじゃん……? 不審者相手に大立ち回りって……」
「ハルヒはおもしろいね」
「そこは”ふーん、おもしれー女”って言ってよ! ん、でもタイムがそう言うのは解釈違いかも……」
一人、気を失ってしまった生徒がいた。アルトは心配そうに肩を叩いていたが、顧問が彼女を横抱きにした。そして、タイムたちにも外に出るよう促す。
タイムとハルヒはのびている男をほうって、アルトとミカゲの元へ歩いた。
「アルトー、よくやった!」
アルトの首に腕を回したハルヒが頬ずりをする。アルトはハルヒのことを押し返しながら目を細めた。
「別に……。私は何もしてないよ。ミカゲが皆を誘導してくれたおかげだよ」
「俺だって全然。先生が馬鹿力で扉を開けてくれたから、やることなくなったし」
「そうだね、ミカゲは声かけてただけだよね。それに引き換えアルトは優しいね、立てなくなっちゃった子を助けてたじゃん。私は見てたよ」
「そうだよ。アルトってやっぱり優しいよな」
ミカゲもアルトに向かって手を伸ばしたが、次の瞬間に彼女はそこから消えていた。ハルヒのことも引き剥がして。
「タイム!」
アルトの大きな声は、再会してから初めて聞いた。あんなに速く走れるなんて知らない。しかも転ばずに。
名前を呼ばれた彼に視線を向けたら、その後ろで男が復活していた。鬼の形相でタイムに向かってナイフを振り上げる。
「タイム……。アルト!」
俊敏にタイムの横を擦り向けた彼女の動きはまさに電光石火。風を起こし、火花さえ散らしそうな勢いで男の前に立ちはだかった。
タイムが振り返ろうとしたのと同時に腕を広げたアルトに、男はナイフを振り下ろした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます