ポーカーフェイス

堂宮ツキ乃

序章

第1話

 毎年最高気温を更新する暑い夏が終わり、秋なんてものは感傷に浸る間もなく去り、冬がやってきた。


 強い風は乾燥した空気を運び、手足から潤いをうばう。


 そんなものとは縁がないもちもちの肌を持つ少女、アルトは幼稚園バスを降りて振り返った。


「せんせ! さよーなら!」


「さようなら、アルトちゃん」


 後ろで髪を一括りにした先生は、冷たい風に吹かれて身震いをした。両手で自分の体を抱きしめながら自分もバスを降りる。


「本当に大丈夫? お母さん来るまで一緒に待つよ?」


「だいじょうぶだよ、おうちすぐだから」


 アルトは舌足らずな声で家がある方角を指差した。


 すると、運転席で高齢の男性が柔和な笑顔を浮かべた。


「先生、行ってあげてください。わしらはこの子たちと待っとりますから」


 ね? と座席に声をかけると、残っている三人の児童が一斉に"はーい!"と手を上げた。


「すみません、お願いします。皆、先生すぐ戻るからね!」


「え~……。だいじょうぶなのにぃ……」


 不満げな顔をしたアルトは先立って歩き始めた。


 この辺りの住人しか通らない静かな道路を横断し、広い畑を背に帰路につく。


「アルトちゃんのお家はどれ?」


「あれ! みどりのお家!」


 薄緑の優しい色の一軒家。二階建てで小さな庭があり、白のミニバンが停まっている。


 アルトは短い指でさし、今日のおやつはなんだろうと考えた。


 母親は料理上手で毎日のおやつを手作りする。


 そして今日は珍しく、仕事が休みの父親も家にいる。帰ったらシャボン玉で遊ぶ約束をしていた。


 自宅の隣は行き止まりで、大きな日本家屋が建っている。立派な門が開くと手押し車を伴った老婆が現れた。アルトを見つけると嬉しそうに顔のしわを増やす。


「おかえり、アルトちゃん」


「ただいま……」


 アルトは笑いかけられ、照れながらも小さく答えて手を振った。


「幼稚園の先生かねぇ?」


「はい、こんにちは。お母さんがみえなかったので家の前まで、と」


「あら、そう~。ご苦労様。アルトちゃんのお母さん、いい人でしょ」


「えぇ本当に」


「すごく優しくて私のことも気にかけてくれるのよぉ。旦那さんも働き者でね……」


 話が長くなることを悟った先生は、寒い中長居させるわけにはいかない、とアルトの背中を押した。


「じゃあね、アルトちゃん」


「うん! せんせ、おばあちゃん、さよーなら」


「またねぇ」


 大人二人は可愛く手を振る幼子に手を振り返し、それではと背を向けた。






 アルトの家には小さな金木犀の木が植わっている。毎年秋になると甘い香りを漂わせる。アルトも金木犀の香りが好きだった。


 まだ小さな彼女には高く感じる取手を引いて家に入ろうとしたが、不快な臭いに思わず取手を離してしまった。


 例えるなら魚を捌いている時の臭い。特に臭うのはイワシだ。アルトは魚は好きではなかったが、母親は食事のバランスを考えて魚をよく献立に加えていた。


 もしかして晩御飯のために大量に魚を捌いているとか? 魚嫌いのアルトに怒ったさかなマンが襲いに来たとか?


 どちらにせよ嫌なものだ。彼女は"うえぇぇ~……"と顔を歪め、今度こそドアを開けた。


「ただひばー……」


 息を止めているせいで鼻声のような声になった。


 家の中は妙にシン、としていて生臭さが強くなった。嗅覚どころか胃まで刺激される。


「おかーさん、おとーさん……?」


 帰ってきたというのに声が返ってこない。母親はアルトの迎えに来なかったし、もしかしてお昼寝でもしているのだろうか。


 リビングに入るドアは開けっ放しだ。


 アルトがおもちゃで遊んでいたら、ドアのガラス部分にヒビを入れて母親に大層怒られたことがある。すすり泣きながらセロテープを貼りつけたら父親に爆笑された。


「ただいまー」


 意を決してリビングに入ると、母親と父親はお昼寝して────いるように見えた。


 血まみれでなければ。


「あ……あ……おか……おと、さん……?」


 幼いアルトでも分かる。二人は血の海になった床に倒れ、息をしていない。


 特にひどいのは母親だった。腹部を切り刻まれたせいで服は裂け、吐血したのか顔周りも真っ赤だ。


 背中を向けて倒れている父親は太ももがひどく傷つけられていた。何度も切られたのか深く長い傷になっている。


「ある、ぉ……」


「おとーさん!?」


 父親はまだ息があるようだ。か細い声で今にも消え入りそうだ。


 アルトは血で汚れるのも構わずに父親に駆け寄り、その手を握った。


「おばあちゃんとこいって……おまわりさんを……」


「おばあちゃん、さっきおさんぽ行っちゃったよ……」


「ほかにひと、いるとおもう……はやく……」


 父親は血まみれの手でアルトの手を優しく握り返し、彼女を立たせた。


「アルト……生きろ。つらくても笑えば……きもち、晴れる」


「おとーさん……やだよぉ……」


 力が無くなっていく声。アルトは幼心で死を悟り、父親のそばでへたりこんだ。瞳が虚ろになっていく父親を見て、声をしゃくりあげた。


 帰ったら一緒におやつを食べてシャボン玉で遊ぶ約束したのに。いつも優しく頭をなでてくれる手は、血の気を失って真っ白だ。


「おかーさん……」


 隣で横たわってぴくりとも動かない母親の顔は青白く、苦悶を残していた。父親よりも厳しいところがあったが、アルトのことを叱った後はいつも思い切り抱きしめてくれた。


 母親の作るおいしいご飯とおやつ。幼稚園で食べる給食よりも大好きでいつも完食していた。


 この時間の母親はいつもなら、おやつを作った後で甘い香りを漂わせている。


 しかし今日は。アルトは突然嗅覚に意識を集中させてしまい、血なまぐさい臭いに咳き込んだ。


「うぇっ……えっ……」


 胃の中をひっくり返したように吐いた。全部吐いてもまだ不快感が残っている。口の中はまずいし鼻にも臭いがこびりついていた。


 この前吐いてしまった時はどうしたんだっけ……。母親が洗面台に連れていってくれて口をゆすぐようにコップを渡してくれた。


 しかし、同じことはもう二度としてもらえない。


 アルトは涙まみれの目を乱暴に拭うと、よろけながら立ち上がった。


 それと同時にダイニングから男がふらりと現れた。その手に握られているのは血まみれでも鈍く光る刀。真っ黒で透ける蛇がまとわりついているように見えた。


 この家に押し入ったのであろう男は真っ黒な着物を着ていた。いかにも怪しい出で立ちでよく外を歩けたものだ。


「いた……」


 男は刀を振り上げ、おぼつかない足取りでアルトに向かった。


「あるとぉ……っ!」


 娘の危機を感じた父親が最期の力を振り絞った。


 這ってアルトの前で立ち膝になり、腕を広げる。太ももからは血がだらだらと流れ、顔は苦痛に歪んだ。男はそれに構わず刀を振り下ろす。


「ぐわあぁぁ────!!!」


 父親の大絶叫が響き、アルトの鼓膜を突き抜けてキーンと痛くなった。振り返るととどめをさされた父親が、絶叫した口のままアルトの方に倒れ込んだ。


 時間の流れ方が変わったのか、父親がアルトを庇うように倒れるのがスローモーションに見えた。


「おと、さん……」


 重たい。父親が背中にアルトを乗せてくれるのは何度もあったが逆はない。重たくて息ができず苦しい。


 男は刀についた血を払うと、アルトに切っ先を向けた。


「こ……しや、うぁ……ぃく……」


 男は何かを言ったようだが、アルトには聞き慣れない言葉で聞き取ることができなかった。


 もうおしまいだ。自分も殺される。悟ったアルトは不思議と怖くなくて、むしろ前にも同じことがあったような気がしていた。


(お母さん、お父さん、私も……)


 また涙が流れ、アルトは投げやりなほほえみを浮かべた。気持ちも頭の中もぐちゃぐちゃで、この表情が正しい反応なのかも分からない。


「しねぇぇっ────!」


 男の鬼気迫った声が耳の中でこだました時、アルトは泣きながら気を失った。


 これが両親と過ごした最後の記憶だった。

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