奇談屋『獄楽堂』

山岸マロニィ

case1  菅池かおりの場合

 ――いわく付きの品、買い取ります――


 狭い路地裏の奥の奥。忘れ去られたような古い建物がコンクリの坂道沿いに密集する、港町ならではのそんな場所。

 突き当たりの竹藪に鎮座する道祖神どうそしんの横に、その店はあった。


 菅池すがいけしおりは、軒下にぶら下がる墨書きの看板を横目に、『質』と染め抜かれたあい暖簾のれんの前に立った。


 秋の彼岸とはいえ、昨今はまだまだ暑い。急坂と階段を上ってきた体は汗ばんでいる。

 ハンカチで額の汗を押さえ、しおりは呼吸を整えた。


 坂を通り抜ける風が髪をなびかせる。それは竹藪に抜け、ざわざわと笹葉を撫でる。道祖神を囲んで密生する彼岸花が、真っ赤な花弁を左右に揺らす。

 時代に取り残されたような田舎町とはいえ、地球温暖化の影響を受けない訳にはいかない。けれどここの空気は、肌の汗を引かせるほどに涼やかだった。


 通ってきた坂道を見下ろすと、濃い緑の隙間から碧く濁った湾が見える。そこに架かる橋の渋滞と比べれば、この場所は、時が百年ほど止まっているのではなかろうかと、しおりはそんな心持ちになった。


 それから藍の暖簾に顔を戻す。地元に住んでいるとはいえ、この店があるのを知ったのは、つい最近だった。


 ――インターネットの書き込み。

「T市にヤバい店がある」

「曰く付きのモノを、それにまつわる不思議な話と一緒に買い取ってくれる質屋」

「知り合いがこの前行ったけど、質入れしたら気持ちがスッキリしたらしい」


 SNSに書かれた情報を頼りに、しおりはここにやって来た。

 ポケットからスマホを取り出し、暖簾の上に掲げられた看板と、SNSの投稿画像を見比べる。


 ――『獄楽堂ごくらくどう』。


 虫喰いだらけの屋号は、しおりの目的地が間違いなくここであると示していた。

「…………」

 築百年は経っていそうな建物だ。木の壁は所々剥がれて土が見えているし、トタン板の軒はすっかり錆び付いている。

 まるっきり廃墟だ。暖簾が掛かっていなければ、誰もがそう思うだろう。そんな場所へ入るのは勇気が必要だった。


 しおりは躊躇した。このまま、また坂道を下って帰ってしまっても、誰も何も咎めない。

 彼女がここに来るのを誰かに言った訳でもないし、帰ったところで、しおりの人生が大きく変わる訳でもない。


 ……いや。


 しおりは肩から掛けたポーチを胸元に寄せ、ギュッと抱き締めた。

 人生を、このモヤモヤした気持ちを変えたいから、こうやって来たのだ。


 何度か深呼吸をした後、ポケットにスマホを納めると、しおりは前に踏み出した。

 暖簾を潜る。そして、格子模様のガラスがはまった戸を引いた。


「……ごめんください」

 すると、すぐに返事があった。

「ようやく入られましたか」

 柔らかな男の声だった。ビオラの音色のような響きの主は、キョトンと戸口に立つしおりに顔を向けていた。


 彼は、一段上がった板の間に置かれた黒光りする木の柵――まるで時代劇に出てくる帳場ちょうばのような――の向こうに、片膝を立てて座っていた。

 艶のない白髪を無造作に束ねたさまは老人のように見えるが、だが白く透き通る肌には張りがある。

 彫りの深い顔立ちに見合わないほどに細めた目が、しおりを見上げていた。


「あ、あの……」

 どぎまぎと視線を揺らすしおりに、彼は上がり端の座布団を勧める。

「ご心配めされるな。初めて質屋をご利用なさるお客様は、入るのに勇気が要るものです。特にうちは、店構えがこんな風ですから、入らずに帰られる方もしばしば」


 不思議と落ち着く声だった。

 声に導かれるまま、しおりは靴を脱ぎ、座布団へ座る。すると男は、満足げにニヤリと口角を上げた。

「それにしても、お若いお客様だ。お幾つですか」

「中学、三年生です」

「ほほう。そのお年でうちにお見えになるのは、余程の事情がおありなのでしょう」

 しおりは目を伏せた。膝に置いたポーチに手を置く。

 すると男は、柵の向こうから手を伸ばし、ガラス瓶をしおりに差し出した。

「……ラムネ?」

「ご存知ですか。今どきの若い人は、知らない方も多いですからな」

 反射的に受け取ったものの、どうしていいか分からず、しおりは瓶を眺めた。すると男はククク……と笑った。

「さすがに開け方はご存知ないと見える。お貸しなさい」

 男は瓶を受け取り、蓋に付いた道具を使ってビー玉をカランと落とした。それを再びしおりに渡し、

「喉が渇いていては、満足に話もできませんからな」

 と、膝に肘を置いて頬杖をついた。


 おかしな人だ。しおりは思った。

 年齢が全く分からない上に、服装も変わっている。

 大きな髑髏どくろを描いた羽織を肩に引っ掛けて、その下には藍染めの着物をまとっている。襟元えりもとや袖口からは赤い襦袢じゅばんが覗き、立てた膝は黒い股引ももひきで覆われていた。

 建物と同じく、百年ほど時代がずれている。今時、こんな格好をしている人は他にいないだろう。


 そんな事を考えながら、ラムネを口にする。

 甘い刺激が口に広がり、喉を潤す。ゴクリと食道を通る冷たさは、しおりの気持ちを急速に落ち着かせた。


 それを見計らったかのように、男は文机の引き出しから名刺を取り出した。それをしおりに手渡し、彼は言った。

「お話を伺う前に、まずこちらが名乗るのが筋ですからな――私はこの店の店主、賽憂亭獄楽さいゆうてい ごらくと申します」 

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