第11話
51、『 移り変わる景色 』
野布市市議会議員、遠山巌はインターネットで動画検索をしている。特に目的はない。なんとはなしに自分の部屋で作業しているうち、いつの間にか時間を忘れていた。
ネットでは普段、作業用に音楽を聞くことが多い(たまにはアダルトサイトも覗く)。最近は家に帰ってくると、テレビよりもまずネットを開く。まさか六十を前にしてこういうものにハマるとは思わなかったが、国政のインターネット選挙も議論に上がるくらいだから、時代の賜物でもあるのだろう。それにいくら田舎の市議会議員とは云え世事に疎いのはやはりまずい。世の中の情報がこれだけネットを通じてやり取りされる時代、ウカウカしていると常識すら疑われかねない状況なのだ。
とは云ってもインターネット上のやり取りに遠山は正直違和感を覚える。それが年齢のせいなのか田舎者のせいなのかは分からないが、書き込みのやり取りをしていると、個々人の未熟さばかりが気になってまともにコミュニケートする気にはなれない。まるでネットは精神的偏狭さの巣窟のようだ。そこには血の通った全人性は感じられない。
そんなことを考えながらも遠山の検索の手は止まらない。検索ワードを芋づる式に辿りながら、動画を次々に閲覧していく。ある動画まで来た時、画面の下に『ドライブ実況』というタグを見つけた。クリックしてみる。すると自家用車に備えつけられた、小型カメラのものであろう映像が唐突に流れ出した。音声も僅かに入っているが、会話はない。ただひたすらフロントガラスから見える、周りの景色が移り変わっていくだけだ。
動画は四十分ほどの尺だった。最初は「こんなものをよく…」と思ったが、見ているうちにその中途半端な長さは気にならなくなった。そんなことよりも、動画が半分ほど進んだ時、遠山の視界に見慣れたものが映り込んできた。
「あれ?」
遠山は思わず目を凝らす。これって、水穂の交差点じゃないか?
勘は当たった。それが証明されたのは、車が水穂を抜けて野布市内の方に入ってきた時だ。おそらくこの動画の投稿主は隣りの県から県道を通り、そのまま最寄りの高速入口まで抜けるつもりだったのだろう。遠山は動画のアップ日を確認する。四年前になっている。四年前と云えば、ちょうど市の合併の頃だ。この投稿主は自分が車で通り過ぎている小さな田舎町が、今まさにその分岐点に立っていようとは露知らなかったに違いない。
そうこうしているうちに車は、高速の入口に到着したようだった。これから残り十五分足らず、動画は高速でのあまり変わり映えしない景色を映し続けるのだろう。遠山は動画の再生を止めた。時計を見る。午後七時過ぎ。まだ女房も子どもも帰って来ていないようだ。いつの間にか部屋の中は、パソコンの画面以外真っ暗になっている。
何だか変な心持ちだ。まるで真昼間の街中で、昔の恋敵にばったり再会した時のように。おまけに相手には以前の面影はなく、まるで倒木の如く年老いてしまっている。そんな時のような…。
「何だかな」
遠山は、嫌なことを思い出したな、ふとそう思った。盟友のことだった。高校時代からの親友。大学を出て、互いに地元に戻って来てからも、ちょくちょく顔を合わせていた。彼が自ら死を選んだ直接の理由は分からないが、合併時の市議会選挙落選がその一つであることは間違いないと思う。
淋しい通夜だった。家庭もすでに壊れていたとは云え、年老いた親類のみの集まりはかける言葉さえ見つからないほどだった。帰り際、故人の伯父と云う人から遺書を見せてもらった。文面には『時間が欲しい。もう少し時間があったら、昔読んだ宮澤賢治をもう一度読み返してみたい。そうすれば、人生は自分が思うほど狭苦しくない。そう思える気がする』、とあった。遠山は何も言えず、そのまま一旦車で自宅に戻ってきた。
文芸部に所属していた二人にとって、宮澤賢治は学生時代の思い出そのものだった。友人が脚本を書き、学園祭で遠山の主演で演劇をしたこともあった。観客の批評はさほど芳しくはなかったが、普段人を褒めない友人がその時だけは「素直な気持ちが伝わってきて良かった」、そう肩を叩いてくれた。
「俺たちの革命は、まず足元からだ」
二人にとってそれ以来、宮澤賢治はいち地方で暮らす若者にとって淡くも輝かしい道しるべとなった。
「…何言ってるんだ。自分から勝手に幕を下ろしやがって」
自室で遠山は、本棚にあった彼から借りたまま色あせた宮澤賢治の岩波文庫を手に取る。合併が終わって一段落した頃、急に彼から「久し振りに会おう」と連絡があった際にもらったもの。「なんで今更…」。しかし遠山は、何故だか友人にそう言えなかった。その時の二人は市議会議員選挙に受かった者と、落ちた者。その明らかな違いの上に立っていた。もちろん友人のそのささやかな贈り物は、そのことへのはなむけと摂れないことはなかったが…。「じゃ、一応借りとくよ」。遠山は友人の、その涼しげな目に言った。
パソコンの画面はまだそのままで、暗い中還暦近い男の顔を煌々と照らし出している。遠山はふと関連動画の一つに目を留めた。『 МIZUHО動画 その* 』と名付けられたそれは、どうやらプライベートの地元観光動画のようだ。「これも水穂か?」
クリックすると、確認するまでもなく水穂の県道が映し出された。遠山の目は再び動画に吸い寄せられる。普段見慣れた景色が、どうしてこう目新しく感じられるのだろう?動画はそのうち地元で『八幡さん』と呼ばれる神社を映し出した。カメラは案内の女の子と、マスコットキャラのやり取りを交えながら辺りの風景を切り取っていく。冬の『八幡さん』は人出で賑わう祭りの時とは違って、鬱蒼とした森に囲まれたまぎれもない鎮守の杜の風格があった。
あっ、と思った。その時映し出された画像の中に一瞬、友人の姿があったような気がした。もちろんそんなはずはないと思いながら、遠山はその二十分足らずの動画を再生し直す。再び『八幡さん』の画。確かに社に向かって手を合わせている、その男の後ろ姿は、友人のものと瓜ふたつだった。そしてその人物がこちらに振り向こうとした瞬間、遠山は画像を留め、そして逃げるように動画の画面を検索サイトのトップページに戻した。
「そんな事、あってたまるか…」
遠山が一人呟くと、部屋の向こうで人の気配がして一瞬驚いた。どうやら家人が戻ってきたようだ。遠山はそれでも画面を見つめたまましばらく茫然としている。そして意を決したようにパソコンのスリープボタンを押し、机から離れる。宮澤賢治の本はそのままそこに置かれたきり、まもなく部屋は暗転した。
52、『 子ども、欲しいね 』
「来年で十年か…」
暦が師走に変わっているのを見て、望月智也は一人呻いた。
「え、何?」
すると、台所の方から妻、美也子の声がしたが、それには思わず聞こえないふりをする。そして「別に憚り事ってわけでもないんだがな…」自分をすかさず笑おうとするが、やはり気持ちのどこかにしこりは名残を留めている。
子どもの頃、赤ちゃんは夫婦が一つ屋根の下で暮らすことでいつしか自然とその命を授かるものだと思っていた。だからこそその芽生えを男親はまるで奇跡のように喜び、女親はどこか面映ゆく自分の身体に起こりつつある変化を感じ取るのだろうと。今それを思い出す度に、その頃の自分が何故かとても不憫に思える。まさか「コウノトリ」まで信じていたわけではないが、その分大人たちのあの手放しの喜びようが今の智也には余計に嘘っぽく思える。そりゃ、そうだろう。やることやってんだから…。そう意地悪くツッコんでやりたくなる。
今でも知り合いの結婚式に呼ばれ、席上「実は新婦のお腹には…」と云うお約束のサプライズ告知があると、一応拍手に参加しながらも「何だ、結局できちゃった婚か」とむしろ作り笑いのふた親サイドに目が向いてしまう。そして「あんたら、先走った倅どもに小言の一つくらい言ってやったのか」と問い質したくなる。結婚式は合同「七・五・三」じゃないんだから、と…。
子どもが出来ないのが気になり始めたのは結婚五年目くらいからだ。まずは親類縁者から事ある度に掛けられていた「子ども、まだなの?」の言葉尻が、だんだん悲壮感を帯びてきた。それまでは挨拶代わりだった分軽く交わせていたものが、考えてみたら智也は四十手前、美也子も三十をゆうに越えて、冗談混じりでは済まなくなっていた。
「子ども欲しいけど、ただ作ればいいってもんじゃないからね」
美也子はその頃よくそう言った。実際何処かの県では、育てきれない親が幼いわが子を病院の創設ポストに置き去りにする、そんな事が度々起こった。
「『コウノトリ・ポスト』だってさ。冗談じゃないよなあ」
智也はニュースを見る度そう呟いたが、それは半分自分たち夫婦に子どもがいないことへの牽制だったのかも知れない。それが七年経ち八年を過ぎようとする頃、二人は自然とあまりそのことを話題にしなくなった。諦めのようなやけくそのような、それでいて尽きせぬ憧れのように時々美也子が口にする「子ども、欲しいね」の言葉に、智也はただ曖昧に頷くだけになっている。そして来年はいよいよ結婚十年目に入る。
今時、子どもどころか結婚すらしていない同級生も珍しくはない。一方結婚した後、早々に別れて気ままなシングルを気取っている連中もいる。
「ホント、冗談じゃないよな」
テレビを眺めながら、いつものように智也がぶつぶつぼやいていると、美也子が言った。
「ほら、例の猫ばあさんのところ、今度は子どもを置いてっちゃった人いるんだって」
「えっ、子ども?」
智也はそれなりに驚いてみせたが、スーパーのおばさん連中からすでに話は聞いていた。猫ばあさん家の粗大ゴミが町で問題になり始めてからもうずいぶんになるが、最近はそれに乗じて自分の要らないものを不法投棄していく輩がいるらしい。遂には先日、ばあさん家の玄関の門に簡単な置き手紙を持たされた小さな女の子が立っていたらしい。それで預かる方も預かる方だが、子どもの方も文句一つ言わず、そのままそこから学校に通い続けているそうだ。
「しかし、選りによってあのゴミ屋敷か…。全く最近の親はテキトーだな」
そう言いながらも、もう自分たちもその親の年とほとんど変わらないことを思う。
「子どもはどう思ってるのかしら」
「案外平気なんじゃないか。親も親なら、子どもも子どもだ」
語気がきつくなったことに、自分でも気がついた。
「でも珍しいわよね。あの人間嫌いの猫ばあさんが、黙って子どもを預かるなんて」
「そこが問題なんだろ」
「やっぱり?」
「そりゃそうだよ。親権とか養育権とか、あと…いろいろお役所的にはさ」
「まあ、そうよね」
いつもと変わらない二人一緒の夕食。智也はスーパーの仕事がはけてからになるから、時刻はいつも八時をゆうに過ぎる。最近太ってきた。それに立ち仕事が多いせいもあって、夜になるとふくらはぎがひしひしと痛む。
「サロンパス、まだあったっけ?」
「右足?」
「うん。今日はずっと棚替えだったから」
「あとで揉んでやるよ」
「ん、頼む」
ふと、なんで俺たちには子どもができないんだろう?そんな疑問が智也の心をつむじ風のように駆け巡った。忙しいわりにやることはちゃんとやっている。夫婦仲だって前とほとんど変わらない。生活は楽ではないがやっていけないことはない。親もどうにかこうにか元気だ。そんな俺たちに、どうして子どもはやってこないのだろう…。
「で、結局親は見つかったのかな?」
智也は聞く。
「まだみたいよ。でも子どもが猫ばあさんに懐いてるらしくて、結局市が条件付きで養育を認めたんだって」
「へえ。そんなこともあるんだ」
「まあ、条件付きってところがミソなんだろうけど」
美也子は思わせぶりにほほ笑んだ。そして「何にしても、子どもにとってはまず安心して生活できる場が欲しいよね」、そう言い足した。
その通りだと智也は思った。子どもが安心して生まれ、育ち、学校に通える場。それが何よりだと、そう心から思う。
「明日、朝早いの?」
「うん。クリスマスものの入荷があるから」
智也は応える。
「クリスマスか。いつも思うことだけど…」
「何?」
「一年って、本当に早いよね」
美也子は暦を見ながら言った。智也はその妻の横顔をしばし眺める。
「そうだな。子どもの頃は一年が、未来永劫ずっと続くような気がしてたけど」
「ええっ?それはオーバーでしょう」
美也子の、それこそ大げさなツッコミに智也はふふっと笑って見せる。
それにしても今日は冷える。熱い風呂に入って、二人でさっさと寝てしまおう。
「来年こそ…」
咄嗟に出たその美也子の言葉に、智也は内心ドキッとしたまま黙ってしまう。
「子ども、欲しいよね」
「ん?ああ…」
テレビでは特番の警察密着ドキュメントが流れている。挑発しつつ迷走する暴走族を、数台のパトカーが辛抱強く追跡しているのが分かる。
「こいつらの親、きっと泣いてるよな」
智也はそう言うと立ち上がり、自分で台所の脇にある風呂の湯沸かしボタンを力を込めて押した。
53、『 ろっくん・ろーる 』
「ろっくん・ろーる、だぜ」
吉伸が音楽室でそう言い出した時、幼馴染みの竹志には他の部員とはまた違った意味で気になることがあった。もちろん小学校の頃から元々目立たない奴だっただけに、彼の突然の「ろっくん・ろーる」宣言は、いよいよ気でもふれたのか、と思わないではなかったが。
「ねえ、井本くん」
部活の帰り、同じ器楽部の齊藤真歩から声をかけられた時、「やっぱりきたか」、竹志はそう思った。
「吉伸くん、何とかならない?」
「何が?」
「何がって…、分かってるでしょ」
「もしかして『ろっくん・ろーる』のことか?」
真歩は「それ以外に何があるのよ」という顔をしている。
「私たち、中学最後のステージなのよ。今まで親にも良い顔されないで頑張ってきたのに、あれじゃ困るのよ」
「別にロックの曲だけで済ませようっていうんじゃないんだからさ」
「他の選曲も見てよ。あれじゃ、グループホームのクリスマス会じゃないでしょう」
いよいよ、あとひと月を切ったクリスマスライブ。これまでに仕上げてきたレパートリー曲と新曲を含めた中から最終的に曲目を選ぶのは、部長専有の役目であることはもうずっと以前からの器楽部の伝統。もちろん彼女も百も承知のはずなのだが、見る限り、真歩は本気で怒っているようだ。俺に言われてもなあ…。竹志は思わずこぼしそうになったが、火に油を注ぐことにも成りかねないので黙っていた。
「毎年、お年寄りたちが楽しみにしているのよ。年に一回の私たちの演奏会を」
一変して今度は半ベソを掻きそうな勢いだ。
「分かっているよ。僕だって、去年の相沢先生の喜んだ顔を忘れたわけじゃないよ。でもさ、『音楽はもっと自由に』ってのが、先生の口癖だったじゃないか」
「バッカじゃないの」
真歩は突然言い放った。「あいつ、カッコつけてるだけよ。そんなの自由なんかじゃない。ただの無責任よ」
一年前、そんなあいつを部長に推したのはお前たち女子じゃないか。
「それだけじゃないと思うけどな」
「じゃ、何なの?」
真歩の顔には、サックスを吹く時と同じ、決して後に引かない直向きさが窺えた。
これ以上何を言っても無駄だ…。竹志にはそんな気がしてくる。
「ご免、これからちょっと用があるんだ。明日じゃダメかな」
「別にいいけど…」
真歩の表情は依然固い。しかし竹志は構わず駆け出した。真歩の視線がずっと背中を刺してくるようだった。
無責任か…。自宅の部屋で竹志は思う。今日は弟の陽志が中学受験塾で夜までいないので、部屋は広々としている。正直、『無責任』という言葉に自分は弱い。元々の性格なのか、それとも常に何かに負い目があるのか。自分はこれまでもこの『無責任』という言葉から逃げたくて、逆に頑張ってきたのかもしれない。そう思えることさえある。
「君はまず、もっと自分の音を好きになった方がいい」。そう言ったのは元水穂中の理科教師で、器楽部・ブラス部の合同顧問だった相沢忠彦先生だ。先生は「その為にはまず、好きなように音を出してみることだ」、そうとも言った。最初竹志にはその意味が皆目分からなかった。それは夏の合宿の時で、そう言われてもどう音を出せばいいのか、逆に訳が分からなくなって混乱した。正直「余計なことを言わないでくれ」とも思った。その後現顧問の山本先生に相談すると、「へえ、相沢先生がね。昔は『天皇』相沢って、有名だったんだけどな」と驚いていた。「練習もきつくてさ、平気で半日休憩なしなんて、しょっちゅうだったんだから」
今ではその思い出も満更ではないとでも言いたげな、山本先生の暢気な顔を見つめながら、その時竹志は「いっそ部を辞めてしまおうか」と、半分本気で思ったものだった。
「竹志」
翌朝校門前で呼ぶ声があった。誰かはすぐに分かった。
「何だよ」
振り向くと、自転車に乗ったまま近づいてくる吉伸の姿があった。
「おっす」
吉伸は自転車を降りた。足元の砂利石が弾ける音がした。
「お早う」
「お前さ、あいつに俺のことで何か言われたろ」
「マホチンか」竹志は応える。「ああ、言われたよ」
「何て?」
「想像つくだろ、自分の事なんだから」
竹志が少し無愛想に言うと、吉伸は一応神妙な顔をして鼻をこすった。
「お前、何考えてんだよ」
竹志は歩きながら言った。
「別に」
「部長だろ。もう少し周りのことも考えろよ」
すると、吉伸は自転車を一旦停めた。自然と竹志も立ち止まる。
「俺さ…」
そう言うと吉伸はまた自転車を前に進める。「もう、そういうの止めるんだ」
「え?そういうのって」
「だから、そういうの」
そうして吉伸は再び自転車に跨ると、そのまま駐輪場の方へと駆けて行った。
「え、吉伸が部長?」
絶対にない選択肢が急浮上してきたのは一年前、恒例のグループホーム『彩花』でのクリスマスライブ直前のことだった。毎年三年生にとって最後のメイン活動は夏の県主催の器楽合奏コンクールであり、その終了直後次期部長が内定することでグループホームでのライブは三年生にとっては本当に最後の、二年生と新部長にとっては、初めての自分たち主導のステージ、と云うことになる。ところが去年は県大会、ブロック大会と順調に勝ち進んだために、部長の選出が大幅に遅れ、遂にはクリスマスライブにまで持ち越す形となっていた。それともう一つ。八年前から自身がグループホームに入居し、そのクリスマスライブのプロデューサーでもあった当の相沢先生が、急に体調を崩し一時は開催そのものが危ぶまれていたのだ。
そもそも吉伸が器楽部に入るきっかけとなったのは、他でもないその責任感の強さにあった。中二の夏前、水穂のスーパーで万引き騒ぎがあり間もなく犯人たちが捕まった。そしてその中に吉伸もいた。もともと気の優しい吉伸は、その頃付き合い始めた知り合いに誘われて、望まぬままに万引きグループの一員となってしまったのだ。問題はその後。グループの他のメンバーたちが捕まった際、それぞれが見苦しい言い訳と責任逃れをしたのにも関わらず、吉伸は最初から自分の非を認め、蓋を開けてみるとグループの主犯格のような体裁となっていた。そしてスーパー側が警察沙汰にしない代わりに、特別職場研修としてほぼ一ヶ月間、全員で無償アルバイトさせられることになった。
吉伸はもともと母親が早くに亡くなっていたので、父親とその両親つまり祖父母と暮らしていた。そのせいかお年寄りとの付き合い方を心得ており、スーパーでは学校でのおっとりとした印象とはまるで違った目覚ましい働きぶりを見せた。結局グループ六人の内、吉伸だけが研修を最後まで勤め上げたのだが、最終的にはスーパーの店長が校長のところにまでやってきて礼を返すほどだったらしい。しかし、その後がいけなかった。吉伸は面目を失くしたグループから仲間外れにされ、また家族での仲もぎこちなくなってしまった。そんな時に声を掛けたのが器楽部の山本先生だった。
吉伸は楽器が出来なかった。それにそれまで音楽と全く接点がなかった。小学校の時は確か、拍子記号すら分数と勘違いしていたほど。山本先生はそんなズブ素人の吉伸を部に引き込み、そして指揮を手ほどきした。最初は頭数を揃えるためかと部員全員が思っていたが、そのうち先生が本気で吉伸を指揮者にしようとしていることが、誰の目から見ても明らかになった。後で誰かが先生に聞いた。どうして吉伸を指揮に?と。答えは「相沢先生が『彼、いいんじゃないか』って言ったからさ」、そう云う到ってシンプルなものだった。
相沢先生は教師を定年になってからも度々、いろんな学校を回っては音楽部の指導を手伝っていた。もちろん教職員の中にも先生が現役の頃からの後輩も数多くいて、山本先生もその一人。山本先生は普段の練習や合宿に相沢先生を呼び、その都度意見を求めていた。おそらく部に常任指揮者がいないことも相談していたのだろう。
今となってみれば吉伸もよく頑張ったと思う。世間一般から見て、指揮者なんてただ手を振っていればいいと思っている人はまだまだ多い。しかし実際は指揮者が一番曲の勉強、解釈、そして部員へのコミュニケーションが求められる存在なのだ。正直竹志も一度は指揮をやってみたいと思った時期もあったが、吉伸を見ていて「自分には無理」、と早々に諦めてしまった。
結局、吉伸のねばり勝ちだった。最初は経験がなく、楽器もできないことで内心馬鹿にしていた女子部員たちまでが、無骨な吉伸の指揮に次第に従うようになった。そして一年前、山本先生が部長に吉伸を推薦した時、彼女たちこそ熱心にそれを推すことになったのだ。
もう、そういうの止めるんだ…。学校の授業中、竹志は朝の吉伸の言葉を頭の中で反芻していた。何故か気になった。ふとこの春の、相沢先生のお葬式の帰り道でのことが思い出された。その日は部から吉伸と山本先生、そして竹志が出席していた。想像に反して参列者は意外と少なく、式場はひっそりとしていた。いつも音に囲まれていた相沢先生の葬儀としては何だか不釣り合いな気もしたが、どうやら音楽の方の関係者は、遺族の心労も思い図って、別に音楽葬を計画しているらしいとのことだった。そして何よりも、山本先生と一緒に見た相沢先生の最後の顔は、自分たちが知っているどの相沢先生とも違っていて、逆に竹志には先生が死んだことが余計に信じられないほどだった。
山本先生と学校で別れ、吉伸と二人、竹志は去年のグループホームでのライブの話をした。
「あの時はまだ、先生元気そうだったけどな」
「ああ」
吉伸は静かに返事をした。「もともと痩せてたから僕らには分からなかったけど、先生はもう五年近く癌で闘病してたらしいよ」
知らなかった。練習の時は客席側でいつも厳しい顔の山本先生とは対照的に、相沢先生はほとんど舞台側の袖にいて、僕らの演奏にただ耳をすませているだけのようだった。どうせなら客席側から聴けばいいのに。竹志たちは常々そう思っていた。
「俺さ、相沢先生から『自分の音を好きになりなさい』って、よく注意されたよ」
「ふうん…。でも、お前のトランペット好きだって、いつか先生が言ってたよ。『彼は音の粒が、実にきめ細やかだ』って」
「へえ。ちっとも知らなかった」
意外だった。
「俺もいろいろ言われたんだ。楽器が出来ない分、曲に関してが多かったけど」
「どんなこと?」
「うーん、具体的過ぎてよく覚えてないけど。一言で云うと、『勉強の時は、とことんまでその曲になりきれ。そして指揮をする時には、とことん自分になりきれ』ってことかな」
そう言う吉伸の顔は、それまでの半年足らずですっかり指揮者そのものになっていた。
「先生に俺たちの最後のライブ、聴いてほしかったな」
「そうだな。でも、先生はとても満足だったと思うよ」
「どうして?」竹志は尋ねた。
「何となく。今日の先生の顔見てたら」
吉伸は言った。「俺、人の死に顔見たの、これで二度目なんだ。前は母ちゃんの時」
「ああ、そうか」
竹志には陽が落ちたせいで吉伸の顔がよく見えなかった。
「母ちゃんの顔は、最後はとても穏やかそうだった。でも本当はその分つらい事も多かったんじゃないかな。あとに俺とか残していくわけだし。死ぬ前によく言ってたから。でも、今日の先生の顔は違ってた。俺たちの見たことのないような、普通の老人の顔だった。言われなかったらあれが、あの相沢先生だって気がつかないほどだったよ」
同感だった。
「最後に先生は、無になったのかもしれないな」
吉伸はポツリと言った。「先生言ってたろ。音楽は無からやってきて、無に帰っていくって」
「そうだったっけ」
「そうだよ。人間もおんなじだって」
その後、吉伸はしばらく黙ったままだった。竹志ももう話す言葉が浮かばなかった。学校の周りには、桜の散った跡がまだあちらこちらに残っていた。竹志にはそれが毎年見慣れた風景でありながら、今はとても無常なものに思えてならなかった。
三年生になって以降、竹志は密かに「音楽をもう止めよう」、そう考えていた。受験のこともあったが、多分もっと違う理由だと思う。疲れたと云うのでもない。無論音楽が嫌いになったのでもない。ただ、自分にはこの先音楽を続けていて一体何があるのだろう?そう思われるのだ。このことは誰にも言っていない。この先も言うつもりはない。
竹志は小学生の時から父親の影響でトランペットを始めた。あまり勉強が得意ではなく、また運動も好きではない竹志は、消去法的にトランペットを吹き続けてきた。ある日秀才の弟に聞かれた。
「兄ちゃんは何で、トランペットを吹いているの?」
聴かれて答えに窮した。考えたこともなかった。今まではただ、吹いてきただけだったから。今朝吉伸が「もう、そういうの止めるんだ」と言った時、竹志はまるで自分のことを言われているような、そんな気持ちになっていた。もう、そういうの止めるんだ…。止めて、もっと違う世界に飛び込むんだ。そう吉伸、いや、誰かから背中を押されているような、そんな気持ちがしていたのだ。
「と、云うわけで、今回のライブはこれでいきたいと思います」
「部長、ちょっといいですか」
放課後、音楽室で吉伸がそう言った時、さすがに女子の中から手が挙がった。曲目シートはすでに部員全員に配られていた。
「はい、どうぞ」
「この『ろっくん・ろーる』って、やっぱりちょっと違うと思うんですけど」
「そうですか?」
吉伸は澄ましたように言った。
「そうです」
他の部員の何人かも頷く。「私たちの最後のライブと云うことより、やっぱりグループホームでの演奏に合わないと思います」
「そうかな」
辺りがざわついた。竹志は一人黙って、トランペットのマウスピースをタオルで拭き始めた。少し離れて、真歩がこちらを窺っているのが分かった。
「部長の、『新しいものを目指していきたい』というのは分かります。でもオーディエンスはお年寄りなんですよ。それじゃ意味ないと思うんです」
「どういうことですか?」
今度は吉伸が尋ねた。
「どういうことって…。私たち、聴衆あっての演奏だと思うんです。それを若い自分たちの勝手な趣味でやってしまって良いんでしょうか?」
そうよ、無責任よ…。合わせて他の声も低く聞こえてくる。
「僕はそうは思っていません」
吉伸はきっぱりと言った。全員が部長の方を注目した。竹志も顔を上げた。
「音楽と云うのは…、僕よりずっと長く音楽をやってきた皆さんにこういうことを言うのはどうかと思いますが、曲ではなく今の自分たちを表現することだと思います。本当はロックとか、ジャズとか、クラシックも関係なく、今生きている自分たちを演奏しなければならない。だって、音楽そのものがそうやって生まれてきたものだから。違いますか?」
皆、黙っている。
「皆さんは、僕の『ろっくん・ろーる』という言葉に反感を感じているのかも知れません。確かに突拍子もないと思う人もいるでしょう。無理もないです。実はこの『ろっくん・ろーる』という言葉は…」
「後藤君…」
それまで傍らでずっと黙っていた、山本先生が声をかけた。
「先生、もういいと思いますよ」
吉伸は続けた。「実は『ろっくん・ろーる』という言葉は、相沢先生の最後の言葉だったんです」
皆の中に静かなどよめきが走った。
「先生は亡くなる直前まで日記を書かれていたそうです。そしてこれは自分の後輩たちへの、遺言として残された言葉なんです」
そう言うと吉伸は一旦準備室の方へ姿を消し、すぐに何か手紙のようなものを持って戻ってきた。
「これは写しですが、読みます。『自分は今まで、ほぼ音楽と共に生きてきた。結婚もせず、家庭も持たず、身内との付き合いすら不義理を重ねながら音楽に没頭して生きてきた。そして歳を取るごとに、自分にはまた別の人生があったのではないか、そう思うことが増えてきた。そんな時、まだ若い連中の音楽に触れ、その無限の可能性をこの上なく羨ましいと思う反面、いづれ彼らにも、自分の人生を冷ややかに思い返すときが来るのだろうかと、無情にも思えることがあった。
しかし或る時、私は思った。だから良いのではないかと。人生はその場、一度きり。やり直しはできない。だからこそその瞬間瞬間を生きることができるのではないかと。音楽も同じ。いくら練習とは云え、その瞬間魂を込めない練習などあり得ない。だからこそ本番では無心になることができる。私が一生涯を賭けて学んできたことは、たったこの一つのことだけだったのかも知れない。今、そう思っている』。相沢先生はそこまで書かれていました」
音楽室の中に、部員それぞれの思いが静かに駆け巡っているのが分かった。
「この話は、僕が部長にだけ伝えていたんだ」
山本先生が言葉を挟んだ。「先生のその日の日記の見出しには、何故か平仮名で『ろっくん・ろーる』とあった。最初、その日記を親族の方から見せてもらった時、僕たち先生の教え子連中は正直面喰らったんだ。あの先生が『ろっくん・ろーる』なんて言葉を、それも死の間際に書いているなんてね。でも日記の内容を読んでだんだん分かってきたんだ。これは所謂、音楽ジャンルとしてのロックのことというより、相沢先生が自分の人生に当てての言葉じゃないかってね」
「山本先生にその話を聞いて、皆さんに口止めをお願いしたのは僕です」
吉伸はそう言うと、少し照れくさそうにして続けた。「だって、今回の曲目選びはこの先生の言葉に触発されたのは事実ですが、あくまで僕自身が、今皆さんとロックの曲をやりたい、そう思ったからです」
吉伸は真っ直ぐに部員たち一人一人に顔を向けた。
「僕らは今、中学生です。特に三年生は受験を目の前にしながら、ギリギリのところで練習を重ねてきました。だからこそ僕らは今、ここでロックをやらなければならない。僕は今そう思うんです。相沢先生から以前一つ厳しく言われたことがあります。『指揮をやる者は確かに演奏者を守る絶対の楯とならなければならない。本番でガチガチに固くなっている仲間に〈 大丈夫だ、お前の演奏は世界一だ 〉、そう信じさせてあげなければならない。しかし、しかしだよ。ここが肝心だ。後藤君、時に指揮者は、演奏者を挑発しなければならない。お前は、お前たちは、俺のこの魂に付いてこれるのかと。そして実際そうさせるのが指揮者の度量なんだ。君は本当に心根が優しい。そして正直だ。君にはそれができるかな』って」
竹志は周りの顔を見た。皆一様に顔を紅潮させていた。
「そして、相沢先生は最後にこう云って僕に笑いかけてくれました。『でも、私はいささかそれをやり過ぎた感があるけどね』」
そう言うと吉伸は山本先生の方を一瞥した。先生はまるで、自分が中学生に戻ったかのようにはにかみながら一つ大きな咳払いをした。
「やってやろうじゃない…」
そう言ったのはマホチンこと、齊藤真歩だった。すると周りからも口ぐちに賛同の声が上がった。中には「冗談じゃないわよ。私たちにやってやれない曲があってたまるもんですか」、そう息巻く者までいた。
竹志はその姿を半ば遠くに感じながら、でも、どこかで自分の心が通奏低音のように響いているのが分かった。
「皆さん、ここで僕はあえて提案したいと思います。僕らはこの先の人生、どこをどう転がるか分かりません。でもそんなことはどうでもいい。大事なのはちゃんと『転がる』ことだと思うんです」
「前置きがいつもより長いぞ、部長」
ベースの高田がヤジを飛ばして周りが一斉に笑った。「一言言えよ。それで済むだろ」
そして次の瞬間、皆はまた黙った。吉伸の顔がマジになって、そして一瞬竹志と目が合った。その時竹志は、皆より早く吉伸の気持ちを直に受け取った気がした。
吉伸は、よ~し、と低く自分に気合を入れると、次にあらん限りの声を張り上げて言った。
「皆、『ろっくん・ろーる』だぜ!」
午後の音楽室に、ひときわ賑やかなアンサンブルが響いた。
54、『 駐在さん 』
猫田は憂鬱だった。仕事とは云え、あんなところに出向かなければならないということに気持ちが際限なく沈んでいた。
「駐在さん、いるかい?」
入ってきたのは近所で床屋をやっている村木だ。
「どうしました?」
猫田は振り向きもせず返事した。
「何だ、まだいたのか。てっきりもう出掛けたかと思ってたよ」
「急いでどうにかなるものでもないですからね」
「でもさ、役所が許可したんだろ。今更どうして警察が横から口出さなきゃならんのだよ」
「口を出すって…。私はただ、あの子の母親と一緒に逃げた男を追っているだけですよ」
「その男、何やったんだい?」
「まあ、いろいろですね。ヤクザの使い走りみたいなことをずっとやってたみたいですよ」
「じゃあ、その女の子に聞いたって仕方がなかろうよ。まだ小学三年生なんだろ」
「そうですけど」
「大体さあ、可哀想じゃないか。たった一人の母親に見捨てられてさ。それもあのゴミ屋敷だぜ。あの子だって早く忘れたいんじゃないのか。そんな母親とか男のことは」
「そんなもんですかね」
村木はそれには応えず、駐在所内のあちこちを見回していた。
「それにしても殺風景なところだなあ。他に何かないのかね」
「何かって、何です?」
「なんて言うのかなぁ…、ほら、もう少し華やいだっていうのかなあ…」
またそれか…。猫田は胸の中で呟いた。
「ここは駐在所ですよ。華やいだって仕方がないでしょう」
「何言ってるんだよ。あんただって二十四時間気を張り詰めてるわけじゃないんだろ。そんなんじゃもたねえぞ」
「もたないって、何が?」
「あんたの、オマワリとしての一生さ」
余計なお世話だ…。猫田は一人事ちる。仕度は整ったことだし、さっさと出掛けてしまおう。
「どうですかね。じゃ、ちょっと出掛けますんで」
村木を押し出すように一緒に外に出ると、猫田はバイクに跨った。
「脇田さーん」
門の外から声を掛けるとすぐに中で気配がした。「駐在所の者ですが」
中でなにやらやり取りがあり、玄関の戸が開くと思いがけず少女が立っていた。
「あ、麗華ちゃんだね。この前来たオマワリさんだけど、ちょっといいかな」
すると少女は、自分の後ろの方を一度振り返ってから小さく頷いた。
「じゃ、お邪魔するね」
猫田はゆっくり前に進み出たが、すぐにその家の独特の匂いに足がすくんだ。見ると、以前より整理されたとは云えまだまだ多くのガラクタがそこかしこに見受けられる。そしてそれに混じって、何とも云えない動物の生活臭。ようやく猫田は少女のところにまで辿り着いた。
「やあ、おやすみのところを申し訳ないね」
少女はその猫田の言葉には応えず俯き加減に立っている。見たところ着ているものは一応清潔で顔色も良さそうだ。
「元気そうで良かったよ。今日はね、またお母さんのことで来たんだけど」
「…」
「まだお母さんを見つけられなくてね。この前聞いたことの他に何か手掛かりになりそうなことはないかと思ってさ」
それでも少女はなかなか表情を崩さない。猫田もどちらかと云うと少女よりその辺の隅からあいつらがまたいつ顔を出すか、そのことの方が気になっている。
「何でもいいんだけどな。ほら、時々家に来てた、マシモって云う人のことでもいいんだよ」
猫田はもう一度、通称猫ばあさんと呼ばれる脇田宅の奥を見た。元はちゃんとした一軒家だけに作りはなかなか立派なものだ。
脇田の亭主は工場勤務だったらしいが、生まれつき公害の影響で身体は弱かったらしい。そして工場での過重労働がたたって早く死に、それに続くように一人息子まで事故で失くしてしまったらしい。後に残った持ち家の一軒家に一人残された脇田はいつしか次々に粗大物を放り込み始めた。そしてその家がゴミ屋敷と化すまでには一年とかからなかったと云う。ここまでは駐在所の前任者からの報告書に書かれていたことだ。そしてその脇田がやがて猫ばあさんと呼ばれるようになったのは、あの床屋の村木からその後聞いたことだ。
村木が何故、自分にああも構ってくるのかは分からない。話し方からして単なる気まぐれと云う気もするが、夫婦そろってのことだからあながちそうとも言い切れない。
ふた月に一度、猫田は村木の店に調髪に行く。他に店が無いわけではないが、髪を切るぐらいで野布の町まで足を伸ばそうとは思わない。昔からそうだった。子どもの頃、髪を切ってくれるのは警察官だった父親の仕事だった。ホームバリカンで二十分ほどかかって丸刈りにされる。正直子ども心にもたまには他の髪型を望むことはあったが、素人の父親に望むべくもないのは自分でも十分分かっていた。
そんな父親が路上で暴漢に襲われ、そのままその日の内に亡くなったのは猫田が中一の時だった。朝ごく普通に仕事に出掛けて行った父が、夜変わり果てた姿で家に戻ってきたのを見たとき、猫田は自分でも信じられないほど身体が震えて仕方がなかった。まるで世界の底が抜けてしまったかのように猫田は平均より大きかった身体を真っ直ぐに立たせておくだけで精一杯だった。後で猫田は自分を恥じた。取り返しのつかない失態を犯してしまった。そう思った。それから以降猫田は無口な青年となり、いつの間にか父親と同じ警察官の道を歩んでいた。
「マシモのおじさんとは、喋ったことはありません」
「え?」
突然少女が話し出したことに、猫田は一人うろたえた。
「ご免、もう一度いいかな」
「あのマシモさんとは、喋ったことはありません」
「ああ、そうなんだ。でもあの人、ちょくちょく家には来てたんだろ」
そう猫田が言うと少女はコクンと頷いた。「でも、すぐに帰ることが多かったから」
「そう…」
良かった。最近巷では、父親や母親の恋人から子どもが虐待されるケースが増えている。ひどい場合は子どもが自殺したり、餓死させられたり、性的な暴力を受けることも少なくはない。猫田はとりあえず胸を撫で下ろす。
「じゃ、家に遊びに来て、すぐに帰ってたんだね」
そう言うと、少女は今度は何やら少しの躊躇を見せてから首を横に振った。
「おじさんが来たときは、お母さんが『ちょっと外で遊んできなさい』って言った」
猫田は少女の落ち着かない眼差しを見た。そして自分の胸の中に推し留めようもない感情が渦巻くのを感じた。こんな幼い少女に情け容赦ない質問をする自分が我慢ならなかった。
「そう。じゃ、そんな時麗華ちゃんは何して遊んでるの?」
「団地の公園で、砂遊び」
少女は応えた。
もういいだろう。この子は実際真下とは接触していない。もしかしたら真下とこの子の母親は、最初からこの子を置き去りにして出奔するつもりだったのかも知れない。
「でも、友だちもいるよ」
そう言うと少女の顔は急に明るくなった。「トオルちゃんと、マリちゃん」
「へえ。いつも一緒に遊ぶのかい?」
「いつもじゃないけど、一緒に散歩したりする。ここに来てからはあんまり会ってないけど」
そうか。学校にこの子の失踪を伝えたのはその二人か…。猫田は合点する。特にトオルは道端でもよく見かける。ある時は急に話しかけられて「テッポウを見せてくれ」とせがまれて困ったこともある。マリという女はいささか変わり者らしいが、身元ははっきりしているので問題はないだろう。
「そっか。じゃあ、少し淋しいね」
猫田は言った。
「ううん。ほら、ここにはいっぱい猫ちゃんたちがいるから」
そう言って少女が後ろを振り向くのと同時に、玄関の奥から示し合わせたように色様々な猫たちが湧いて出てきた。猫田は思わず後ずさった。
「ぁあっ、いっぱい…、出てきたねえ」
「この子たちに餌やったり、ウンチの掃除したりしてるから」
「そうか、そりゃ忙しいな」
精一杯の作り笑顔で応えると、猫田は手にしていた警察支給のメモ帳を胸ポケットにしまった。
「おじさん、猫嫌いなの?」
少女が不思議そうに猫田を見る。
「う、うん。どちらかと云うと犬の方が好きかな」
嘘だった。猫田はその分かり過ぎる名字にも関わらず何故か動物全般が苦手だった。
「そうなんだ…」
少女はとても残念そうに言った。
「い、いや、ダメってことはないんだよ。でもほら、おじさんは顔が怖そうだし、だからあまり好かれないんじゃないかなあ」
そう言って無理に笑ってみせた。
「おばちゃんがよく言うよ。猫は顔じゃなくて、その人の心を読むんだって」
ははあ、こりゃ一本取られた。
「そうかも知れないね」
猫田は頭を掻くしかなかった。
「おじさん、オマワリさんだからきっと良い人だよ。おじさんが好きになれば、猫もきっとおじさんを好きになるよ」
「ははは、どうかなあ」
猫田は周りを徘徊している猫たちを見る。しかし、なあ…。
ふと、村木が半年前に持ってきた見合い写真を思い出した。村木の知り合いの娘で、とうに三十路を過ぎていると云う。性格も器量も悪くないが、何故か今まで縁がなく、そのまま大台にまで乗ってしまったらしい。もちろん三十過ぎて結婚してない人なんて今時田舎でも珍しくはない。しかし村木は写真を見た瞬間何か違う気がして結局村木への返事をうやむやにしてきた。はっきり断れば逆に押し返されそうだったし、正直自分は結婚なんて似合うはずもない。そう思っていたからだ。
「じゃあ、また今度来るね。早くお母さんが見つかるといいんだけどなあ」
猫田はまるで人ごとのように言うと踵を返した。
「さよなら、駐在さん」
背中に少女の声がしたので振り向くと、少女は跪いて一匹の猫を抱えているところだった。
猫田はその姿を目に焼き付けた。そして女の幸不幸について考えた。あの子の母親は戻ってくるだろうか?あの男が一体、どれだけの値打ちがあると云うのか?
バイクに跨ると、向こうから見慣れた人影が独特の歩き方で近づいてくるのが分かった。挨拶くらいした方がいいのか。しかし結局猫田はそのままエンジンをかけ、トオルとすれ違い様にバイクをスタートさせた。
55、『 予感 』
S県野布市水穂町。かつてこの町は炭鉱で栄えた。そしてその頃の日本全体がそうであったように、町自体がまるで一つの生き物であるかのように活気に息づいていた。
吉本定吉は八十三歳の今になるまで、郷土史家として細々と研究を進めてきた。もう四十年以上にもなる。もともと高校の社会科教師だった吉本が郷土のことを調べ始めたのは、日本が高度経済成長でそれこそ大変動を起こしている最中だった。
吉本の生まれは水穂ではない。隣県の小さな漁村だ。三男坊で本好きだったので、食べられない漁村より勉強して都会に行こう。そう思った。折しもベビーブームで教職員の数は殊更足りなかった。吉本は何の迷いもなく教員の道を選んだ。
苦学してようやく教員免許を取った頃、帰郷した吉本にすでに故郷は遠いものに感じられた。実家は長兄夫婦が継ぎ、他の兄弟たちも次々に東京や大阪に出て行った。同級生のように軍国少年にもなり損ねた吉本には、祖国や故郷はすでに色あせたものでしかなかった。
吉本が結婚して家庭を持ったのは隣県の野布町でだ。野布町もやはり炭鉱景気で大変な賑わいを見せていたが、水穂の町と較べて明らかな違いがあった。それは戦後早くから道路の拡張が行われ交通の要所として発展していったことだ。吉本はそこの公立高校に勤めていた時事務局にいた水穂町出身の女と出会い、結婚した。
たまにその頃の写真を見ることがある。すでに亡くなって六年になる女房もそうだが、自分の若さがまるで別人のように際立っている。そして一緒に写っている他の者たちの顔も、まるでその当時の時代の勢いを表すかのように一様に目を輝かせている。本当に若かったんだなあ。そして吉本は大きくため息をつく。
吉本は今、グループホーム『彩花』に入所し一人暮らしをしている。まだ持ち家は残してあるが、そこは女房が亡くなったのを機に長男夫婦に譲った。吉本が郷土史家として活動を始めたのは、その長男がちょうど中学に上がった頃だと思う。その頃水穂の実業高校に異動していた吉本には、日本が少しずつ、しかし大きく変わりつつあるのが分かった。まず端的に山や里に以前と較べて動物の姿を見かけなくなり、ほんの少し前まで小さかった子どもたちと魚採りをして遊んでいた川が、見るまでもないほど汚れていた。よその県では大きな公害が続きその裁判が本格化していた頃だ。中年に差し掛かっていた吉本は、確かに日本が目覚ましい発展を遂げつつあるのを認めながらも、これがそのまま続くはずがないと予感のようなものを感じていた。そして息子の勉強部屋で国語の教科書に載っていた杜甫の『国破れて山河あり』の漢詩を見た瞬間、急に居た堪れない気持ちになった。ちょうど故郷の両親が立て続けに亡くなったのも重なっていた。
「自分の故郷は、自分の力で残していかなければならない」
そう思い立った吉本は、有志の同僚や生徒たちと共に水穂の町の歴史を現代から順に遡り始めることにした。
今、吉本の手元には、色褪せた郷土史の冊子が丁寧に整理されて並んでいる。各編集記を見ると、当時一緒に学んだ同じ教職員仲間や生徒たちの名前が並んでいる。もちろん限られた時間の中での研究だから、その内容には稚拙な部分が多く見受けられる。おそらく学問的には大した価値はないだろう。しかしそこには、確かに故郷の姿があるように吉本には思える。
ふと吉本の冊子を捲る手が止まった。そこにひときわ懐かしい名前が見えたからだ。米村さえ子。『円状古墳の研究』と表題にはある。彼女は水穂実業高校の商業科にいた女の子。その頃としては背が高く、普段はあまり口数が多い方ではなかったが、自分の意見ははっきりと言う真面目な生徒だった。彼女は授業の時、吉本の『故郷の歴史は、自分たちの努力で後世に残していかなければならない』という言葉に感じ入るところがあったらしく、一人で研究に参加したいと申し出てきた。同僚の話ではもともと米村はマンモス化していた水穂中でも一、二を争うほどの秀才であったが、親の説得に応じて普通科ではなく、就職の為に新設された商業科に進学してきたらしかった。
当初から彼女は古墳に興味があった。考古学は門外漢だった吉本には彼女に何のアドバイスもできなかったが、研究発表会の前にはその原稿を見せてもらい正直な感想を述べたりした。ある時、吉本が質問したことがある。何故古墳に興味を持ったのかと。
「子どもの頃、古墳の近くで遊んでいて、よく碧色をした勾玉のようなものを見つけました。そして大人に見せたら『ああ、ここには大昔、今よりも豊かな国があったに違いない』、そう言われたんです」
彼女は言った。「そしてその人は『本来、人間の豊かさは形では表せないものなんだ。自分たちが立っているこの場所には、大昔の人間たちの暮らしの片鱗が、今でも埋まっているのかもしれないね』、そうも言ったんです」
彼女の話を聞きながら、吉本にもまるで古代の水穂の町が目に浮かぶようだった。
「いい話だね。しっかりやりなさい」
吉本がそう言うと、彼女はにっこりと笑って頷いたものだった。
どうしているだろう?吉本は思う。あれから四十数年。彼女も元気でいれば還暦を過ぎようとしている頃だろう。今でも年に一回発表会は開かれているが、彼女のその後を詳しく知る者はいない。思えば、こんな田舎でも人と人の付き合い方は随分淡白になった。まるでそれぞれが雨戸を閉めきった家で暮らしているかのように。
コンコン。ノックの音がする。
「はい、どうぞ」
ゆっくりとスライドドアが開く。新人職員の西野さんだ。
「吉本さん。面会の方がいらっしゃってますけど」
「面会?誰だろう」
吉本は礼を言って簡単に身支度をする。今週は特に人に会う用はなかったはずだが…。玄関手前のロビーに続く廊下を歩いていくと、そこに見慣れた顔があった。教え子の一人、横山泰邦の娘、千華だ。「先生、こんにちは」
「ああ、誰かと思ったよ」
吉本は相好を崩す。最近は孫も大きくなってあまり顔を出さなくなったが、この娘だけは小さい頃から親に連れられて一緒にいろんなところを回ったせいか、今でもこうして不意に顔を出す。
「学校はどうだい?」
「まあまあですね」
「ふははは…。千華ちゃんは何に対しても『まあまあ』なんだなあ」
吉本がそう言うと、千華は昔の面影のある笑顔を見せる。そして父親から事づかってきたであろう、用事の品々を吉本に手渡す。
ふと吉本は思う。自分は生まれ故郷ではないこの町で、長年郷土の歴史を学び、そして伝えてきたが、それは思わぬところで繋がっていくのかもしれない。そしていつしか自分たちの暮らしの証が、僅かながらも後世に残っていくのではないか。そんな予感がした。
「先生、今はどんな本を読んでいるんですか?」
「江戸末期の寺子屋についてだよ。探すのに苦労してね。ほら、君の父さんが持たせてくれたのもその一つさ」
吉本は本を千華に掲げて見せる。
「先生。また部屋の中、本が増えてるんでしょう?職員の人、ぼやいてましたよ」
いつの頃からか、一人前の口を聞くようになった千華を見ながら、吉本はそれにかつての教え子だった少女を思い重ねる。
またいつか会えるかなあ。あれから四十年、お互いに喋りたいことは少なからずあるはずだ。この町の歴史、そしてお互いの日々の暮らしの歴史について。
「ねえ、先生。聞きたいことがあるんですけど」
千華が言う。
吉本は頷いてみせる。
「この町で、どこか面白い場所ありませんか?単なる観光地じゃなくて、水穂らしさがぎゅっと詰まってる、みたいなところ」
二人はロビーの椅子に座って、しばし話を続ける。
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