第8話
36、『 願いましては… 』
津留晴美は長年小学校近くの自宅でそろばん塾をやっている。もちろん受講生は小学生がほとんど。そこに土曜日にだけやってくる、一人の中学生がいる。土本卓也だ。入塾したのは小学五年の時。先に入っていた友だちに誘われてのことだった。
一目で賢い子だということが窺われた。所謂学校の成績とは別かも知れないが、土本は座敷に備えられた長机に座る時、まずきちんと正座し、ランドセルを自分の横にちんまりと置いた。
「そろばんは初めて?」
津留が声を掛けると
「あ、はい」
きっぱりとした声で返事をした。
礼儀と整理整頓ができる子どもは伸びる。これは津留が長年の指導の中で学んだ見解だ。また楽しみな生徒が増えた。津留にとってはこれが、何より喜ばしい瞬間なのだ。
大体の塾生は中学に上がると同時に塾を去っていく。ある意味淋しいことだが、津留にとってはたとえ一時であっても、子どもたちがそろばんに触れてくれたことが何よりだと思っている。長い付き合いの元塾生の中には、就職試験の時、そろばん経験者ということを重用してくれた企業もあったと云う。もちろん今では、実生活でそろばんを使うと云うこと自体皆無になりつつある。しかしある時間制約の中で、自分の集中力と両の手を駆使するそろばんは、確実に子どもたちの才能の深部を開花させる。そう津留は確信している。
土本卓也は最初どちらかというと手先が不器用だった。よほど先に入っていたクラスメートの方が小利口に作業を進めていたが、そのうち土本は持ち前の努力で、次第に手早くそろばんを操れるようになっていった。土本が初めて検定試験を受けた時、津留も野布市の会場まで他の子ども達と一緒に同行した。途中のバスの中で修学旅行ばりにはしゃぐ子ども達とは対照的に、土本は一人緊張した面持ちで外の流れる景色を見ていた。試験の二週間後、合格の知らせを聞いた時の土本の喜びの顔を、津留は今でも忘れることはできない。
「よかったね。土本君、よく頑張ってたもんね」
そう津留が声を掛けると、土本は思いがけなく涙を流した。驚いた津留は思わずなだめようとしたが、土本の涙は留まることを知らず、それに気が付き騒ぎ出した子どもたちを席に着かせるのが、その時の津留にはやっとだった。
あれから三年。土本は中学二年になったが、印象はあまり変わらないままだ。学校では卓球部に入り、土曜は部活の時間との兼ね合いで午前早くか夕方近くにやってくる。
「卓球は楽しいかい?」
津留が聞くと、
「はい。撃ち合いが続く時の、ピンポンの音が面白いです」
と、彼独特の返事をしてくる。そしてその様子は以前と変わらない素直さに溢れている。 土本の家が何をしているところなのか、津留にもよくは分からない。入塾の手続きも、それから月々の月謝の支払いも、土本自身が間違うことなく済ませてきた。そこに親の姿は出てこない。ただ一度だけ、祖母が亡くなって二度ほど塾を休んだ翌月に母親からの短い手紙が月謝袋の中に入っていた。
「お世話になっております。どちらかと云うと内気な息子が、毎週そろばんの塾を楽しみにしているようです。感謝しております」
そのきめ細やかな字を見ているうちに、津留の胸に不意に熱く込み上げてくるものがあった。
土本は塾のあと部活がある日は、津留の家の食卓で母親の作った弁当を食べていく。そこにおかずは僅かで、ただ土本の好物であろう、海苔の巻かれた俵状のおにぎりが所狭しと詰まっている。そして土本はそれを一時の時間も惜しむように頬張っていく。
「もっとゆっくり食べたら」
津留はたまにそう声をかけ、喉を詰まらせる勢いの土本の前に玄米茶を煎れて差し出す。
「有難うございます」
土本はそれを本当に美味そうに吞む。猫舌なのか、それだけはゆっくりと味わいながら…。
この子はこうして樹木が時間をかけて成長していくように、少しずつ、でも着実に大きくなっていくのだろう。土本の様子を眺めながら津留はいつもそう思う。
思えば、昔は土本のような子どもが多かったような気が津留にはする。性格の話ではない。子どもなりの佇まいとでも云ったものか。最近は大人も子どもも、どこか作り物っぽい、体裁の良さだけが目立つ。そこに感じるのは奥ゆかしさではなく、不可解さ。こだわりではなく、とらわれ。気がつくと誰も目の前の相手の心に触れていない。ただそこにいて、お互いが自分を相手の鏡に投影しているだけのような…。
「願いましては…」
津留の声に合わせて一斉に塾生たちがそろばんを繰る。そして心地よい緊張と共に、そろばんの玉の弾かれる音がそこかしこから響き始める。
まあ、そんなことはどうでもいい。大事なのはいつもこれからなのだ。今に気持ちを込め、自分を全力で駆っていく。生きていく私たちに出来ることはただ、それだけしかないのだから。
今日も土本は昼からそのまま部活に向かうらしい。多分弁当持参だろう。津留は合間を見てお湯を沸かす。新しい玄米茶を買ってある。あとで土本に煎れてやろう。玄米の香ばしい香りに、土本は一瞬目を細めるにちがいない。
「願いましては…」
家族のいない津留は、コンロの火を見つめながらそっと呟いてみる。
37、『 どろぼう 』
生活の為に物を盗むことぐらい、効率の悪いことはない。田畑善雄はそう思う。田舎に住んでいれば尚更だ。人間関係が希薄になった今でも、田舎の人間は他人の暮らしぶりにやたら目ざとい。そして嫉妬深い。少しでも金回りが良くなったことが知れれば、誰に何を言われるか分からないのがここいら周辺の常道。田畑は毎朝女房のいつ絶えるとも知れない近隣知己の愚痴を聞きながら、それを日々再確認している。
「お義父さんの具合、あんまり良くないみたいよ」
女房が不意に話題を変える。
「電話、あったのか?」
「昨日ね。あんた、ちょっと見舞いにでも行ってきたら」
「いいよ」
「いいよって、それじゃ私が困るのよ」
「どうしてお前が困るんだよ?」
「あとで親戚じゅうから文句を言われるのは、この私なんだから」
女房は田畑の横顔を睨む。田畑は変わらず新聞の三面記事に目を落としている。
父親が倒れたのは去年のちょうど今頃だ。トイレに立ったまま身動きができなくなった。脳卒中。幸い母親が手早く救急車を呼んだので大事にはならなかったが、大柄な父親はそれ以来、病院のベッドで寝たきりの生活になった。
医者の話では、リハビリ次第で七十パーセントは回復できるという。事実、病院でも調子が良いときは一人で起きて、用を足すことまでできるのだ。その気になれば元通りになることだって出来るかも。当初家の者たちはそう話し合った。しかし父親はその期待に応じることはなく、むしろ自らベッドの上を終の棲家と決めたかのようにそこに横になり続けた。田畑は困り果てた老母に父親を説得してくれるよう一度は懇願された。仕方なく病室に見舞った時のことだ。すっかり入院服姿が馴染んだ父親は、仰向けのままこちらを見上げるとその暗く濁った眼を自分の息子に向けた。
リハビリの件を何とか言い出そうとしていた田畑は、その目を見た瞬間急に気持ちが萎えてしまった。そしてその目が何かを言わんとしていることを感じ取った。
「お前、また盗ったのか」
父親の目はそう言っているようだった。田畑はそれ以来、めったなことでは父親の病室を訪れることはしなくなった。
初めて物を盗んだのは、小学校の二年の時だ。法事の用で寺参りする父親に、田畑はどうしても一緒に行くと言って聞かなかった。いつもは仕事で忙しい父親と何処かに行けるのは今しかない。幼い自分はおそらくそう思ったのだろう。
どちらかと云うと父親はそっけない男だった。外ではとりあえず顔を作っていたが、家に帰るとほとんど口も聞かなかった。田畑にとってはそれが父親というものだと思っていたから、同級生の家で饒舌すぎる男親を見た時、しばし呆気にとられたほどだった。
通された本堂内の賽銭箱の周囲に小銭が無造作に散らばっているのを見た時、田畑にはそれがとても雑然としていて、よく清められた寺の佇まいに不似合いな気持ちがした。
「お父さん、お金が散らかっているよ」
しかし、その息子の言葉に傍らの父親は何の反応も返さなかった。そこには親子以外誰もおらず、二人は用意してあった座布団に座り、ただ住職が用から帰ってくるのを待っていた。田畑は賽銭箱の周りに散らばっていた小銭を両手で掻き寄せると、それを父親に見せた。
「ほら、こんなにたくさん」
田畑が見せ、父親が仕方なくとでも云ったようにそれを手に取ろうとした時、本堂に続く長い廊下の向こうからのしのしと住職の足音が聞こえてきた。父親は手を止め、そして息子に座るようにと無言で指示した。田畑は仕方なくその通りにした。
「ああ。お待たせ、お待たせ」
住職が中に入ってきて、しばらく田畑はそのでっぷり太った身体と、大きくよく通る声に気を取られた。
自分のポケットに賽銭の小銭が入ったままだったことに気がついたのは、帰りの車の中だった。
「あ。箱に入れるの、忘れてきちゃった」
田畑がそう言うと、父親は一瞬呆れたような顔をしたが、すぐに戻り、一言「もらっとけ」
そう言った。
「え?いいの」
田畑が聞き返すと、
「いいんだ。あの生臭坊主、何かといやあ、金の話ばかり。賽銭分くらいご利益を返しやがれってんだ」
父親はそう吐き捨てるかのように言った。そして
「ほら、早くしまえ。母ちゃんには内緒だぞ」
そう言って、手荒くその小銭を息子の手ごと、上着のポケットに押し込んだ。
あの小銭がそれからの自分にとってご利益になったのか、それとも厄災の元になったのかは、今の田畑には分からない。あれ以来父親は相変わらず周りに素っ気ないままだったし、自分はいつの間にか物を盗ることが何らかの意思表示かのように、人の物を半確信的に自分の元に引き寄せるようになった。会社の金の使い込みがばれ、父親が仕事をクビになったのはそれからまもなくのことだった。母親は一方的に亭主をなじったが、それも糠に釘だと分かると、ただ暗い顔をして毎日を暮らすようになった。田畑にはいま一つ実感がなかった。使い込みがとどのつまり泥棒だということを兄や姉たちから聞いた時は、むしろ父親に親近感さえ覚えた位。そして
「僕ならもっと上手くやる」
そう状況を手元に手繰り寄せた。
もちろん、今はそんなことを思ってはいない。盗みは盗みであって、それ以上でも以下でもない。また無事に済むこともあれば、バレて途轍もなく微妙な立場に立たされることも十代の内に何度か味わった。しかし田畑はそれをやめようと思ったことはない。またそれほど特別な事と感じたこともない。盗みは、単に物理的かつ心理的な物体移動。そうとしか思えない。それに加えて田畑にとって盗みには目的すらない。では、何故盗むのか?田畑は時々時間をかけて一人考えるが、それがうまくまとまった試しがない。そもそも盗む物だってたかが知れている。ライター、菓子パン、乾電池、くし…、盗った五分後にはゴミ箱に放り込むことだって少なくない、そんなものばかり。敢えて例えるならそれは女房を娶った後でする自慰のようなものだと思う。ある種の恥らいと罪悪感、しかしそれにも増して湧き起こる激しくやるせない高揚感。つまり、そういうことなのだ。
「あんた、ちょっとさ」
体型的にもう随分女から遠くなった女房が呼ぶ。
「何?」
「剛志のことだけど」
「どうかしたのか?」
「あんまり、大きな声じゃ言えないんだけど」
「だから、何だよ」
「あの子、私の財布から時々、お金抜いてるみたいなのよ」
「え?」
田畑は初めて女房の顔を見る。女房の顔には全てが書かれているようで、逆に全くの空洞のようにも思える。田畑はしばし無言になる。
「あんたからそれとなく聞いてくれない?」
女房はさりげなくリクエストする。息子は今、中三。今更父親の話など聞くだろうか?
「間違いないのか?」
田畑は聞き返す。
多分…。女房は頷いて応えた。
もし、息子が本当に盗みを働いているなら、それは自分からの血のせいだろうか?それともやはり、何かの意思表示なのか?田畑の自問はむやみに多層化する。いずれにせよ父親として自分は息子を止めるべきなのだろう。いや、それとも親父のように、盗んだ金を持つ手を、逆にポケットに押し込んでやるべきなのか?
田畑はおもむろに新聞を閉じる。そして仕事に出掛ける用意をする。
「ねえ、お願いよ。あんまり放っとくと癖になっちゃうから」
妻は田畑の背中に言う。
いっそ捕まった方が楽だな…。ふと田畑はネクタイを締めながらそう思う。煙草を探して上着のポケットに手を入れた時、中で違和感があった。つまむと枯葉が一枚出てきた。見ると、この前ため池のところでやり損ねた時に手に付いたものと分かった。
「お前、またやったのか?」
再び父親の顔が思い出される。
ああ、そうだよ。田畑は応える。またいつものつまらないヤツさ。でも、まだバレちゃいないよ。バレたらバレたで、腹をくくるけどね…。そう嘯く。
急に田畑の中で湧き上がるものがあった。田畑はその枯葉を指で掴み、そして手のひらに移すと力を込めて一気に握り潰した。それから
「行ってくる」
誰に言うでもなくそう告げて、家を後にした。
38、『 光を見る 』
「お前、知ってるか?」
「何?」
「猫ばあさん」
「ああ。あの、ゴミ屋敷のだろ」
「そこにさ、最近いろんな物を捨てていく奴がいるんだって」
「へえ。いろんな物って?」
「家電ゴミとか、不法投棄的な物とか」
「まあ、外見がもうそうだからな」
健至はRV自動車のハンドルを握りながら応えた。やはり他人の車には車種だけではない、何とも云えない違和感が付きまとう。軽すぎたり、重すぎたり、右に寄ったり、左に傾いたり…。
「それでさ、今度俺の知り合いが役場の担当になったんだけど、猫ばあさん強情で、どうにもこうにも埒が明かないんだって」
マルオこと、瀬本将雄が続ける。
「そりゃ、そうだろう。合併前にも一旦は放り出しちゃったんだろ。なんで今更」
「現市長の思惑なんだろ。臭い物は蓋をしても臭いってさ」
「そう云えば、お前んとこがコンビニ作る時もいろいろあったって?」
「ああ、それは前町長の時。ほら、あの人、奥さんがそういう運動、好きだったから」
「そうだっけ?」
「ため池の整備やったのも、そのせいだろ」
「そうか」
「一時はな、ラムサールがどうとかこうとか、よくウチにもビラ持ってやってきてたんだけどな、あの奥さん」
マルオはさっき自分の店で買い込んできた、スナック菓子の一つを食べている。
「そういうタイプって、旦那が選挙に負けると、急に大人しくなるもんな」
「しょうがないよ。後ろ盾ありきの環境運動なんだから。もともとみんな分かって付き合ってんだ」
「それはそれで淋しい話」
「まだ良い方さ。合併前の選挙で落ちた人で、首括った人もいるらしいじゃないか」
「ああ。俺のおばさんの同級生」
「へえ、そうなんだ」
しばし二人は無言になる。今日は日曜、幼馴染みは連れ立ってドライブをしている。三十路男の二人連れ。しかし目的はある。動画用のビデオ撮影だ。
「しかしさ、選挙に負けたからって自殺するか、普通」
助手席のマルオは、全く理解できないと云う風に言った。もう一袋分を食べてしまった様子。
「何か、商売絡みのこともあったらしい」
「ふうん。とにかくそう云う人の気は、俺たちには分からねえよな」
二人は曇り空の中を南に下っている。もう町中は抜けて、次第に車は山道に入っていく。
「今日行くところって、お前行ったことあんの?」
「庄源の滝?うんにゃ」
「じゃ、何で最初にそこ選んだの?」
「やっぱ、一応観光名所からが無難かなって思ってさ」
「行ったこともないのに?」
「うん」
「この辺って知り合いいるか?」
「あんまりいないな」
実際車窓には人家が数えるくらいしか見えない。
「確かにこんなとこ、今まで来たことなかったな」
マルオは妙にしみじみと言った。
「この前の横山さんの話か?」
「うん。あれ、妙に説得力あったよな」
「お前さ、横山さんに気があるのか?」
「別に」
「嘘つけ」
「違うよ。たださ、横山さん、結構いいじゃん」
「何が?」
「何て云うのかな。今時の子だけどさ、しっかりしてそうで」
「まあ、気は利くな」
「そうだろ」
「お前さ、前もって言っとくけど、未成年には手を出すなよ」
「そんなわけないだろ」
「どうだか…」
車内には最初、マルオの趣味であるオタク系アニメの主題歌が流れていたが、途中居た堪れなくなって健至が消した。だから今は二人の話し声と、控えめなエンジンと車輪の音だけが聞こえるだけだ。
「おい、もうそろそろだろ」
「そうだな。あ、ほら、立て看あった」
マルオが指さす。
「何だか、気分盛り上がってきたな」
「ああ。でも俺、まずトイレ」
「だから店で行っとけって言っただろ」
「あん時はまだ大丈夫だったんだよ」
そう言い合っているうちに車は道に沿って大きくカーブして、上り坂を上がっていく。
「人居るのかな?」とマルオ。
「いるだろ。今日日曜だぜ」
「でも、地味そうなところだし」
坂道を登り切ると急に視界が開けた。右手には鬱蒼とした山々。左手には水穂の田園風景が広がっている。
また立て看があった。滝まであと三キロ、らしい。
「その前町長の奥さんはここ、整備しなかったのかよ」
健至は言う。
「どうだろ。もともとここは個人の土地だったらしいから」
「へえ。今は違うのか?」
「うん。何でも他所からやってきて住み着いた人でさ、仙人みたいな暮らししてたらしいよ」
「で、死んじゃったから町が回収した…」
「いや、行方不明だって。もう三十年くらい」
「あー」
どうやら着いたらしい。車道から離れて奥迫った山道が見える。健至はとりあえずそこに向けてハンドルを切った。
「やっぱり、誰もいないじゃん」
マルオが言った。
「うん…」
「これってさ、観光名所って云うより、心霊スポットっぽくないか?」
「お前が言うなよ」
二人は車を降り、歩き出す。着込んで来てよかった。さすがに山は昼間でも寒い。健至はマルオの荷物をひとつ持ってやると、先を歩いた。
「トイレ、何処だよ」
「知るか。その辺でして来いよ」
「ヤだよ。俺はな、そういう育ちじゃないんだよ」
「お前さ、覚えてる?子どもの頃、遠足とか修学旅行とかでさ、『気分悪くなった』とか『トイレにいきたくなった』とか…」
「ああ、はいはい。もう言わなくてもいいよ」
「そう周りに気を使わせる割には、文句も人一倍だったんだよな」
「分かった、分かった」
「もう女子はブイブイ言っちゃってさ。終いには俺たち男子にまでとばっちりだよ」
「だからもう分かったって」
マルオはそう言うと、傍らの草むらにすごすごと入っていった。「一人で行くなよ。迷うから」
「自分だろう」
健至は笑って応える。それにしても静かだ。空は依然曇っているが暗くはない。その半仙人の人は、何を思ってこんなところに住み着いたのだろう。健至は尚も耳を周囲に澄ます。
「庄源の滝ってさ、その人の名前らしいよ」
突然のマルオの声に、健至は瞬間驚く。
「え?」
「だから、庄源と云うのが名前だったんだろ」
マルオはズボンの後ろに手をこすりつけながら言う。
「上か下か、分かんない名前だな。さすが仙人」
二人はまた歩き出す。
「これってさ、動画撮ってアップするだろ。そしたらここ、急に有名になっちゃったりしてな」
「そんな訳ないだろ。お前、ネット上に観光動画、どれだけあるって思ってんだよ」
「そっちこそ知らないだろ。意外とな、ちゃんとした動画は少ないんだぜ。まとまりもイマイチだしな」
「おー、さすがネットおたく」
「でもな、そうは云っても景色だけの動画は、やっぱりインパクトが弱いんだよな」
「要は案内役のキャラクター次第って言いたいんだろ」
「そこなんだよ」
マルオは急に声を弾ます。
「だからダメだって、この前から言ってるだろ」
「何で?」
「美少女系地元タレント発掘動画ってか。お前は秋元康か」
「やっぱり女っ気がないとさ、アクセス数も稼げないだろ」
「何だ、それ」
「ゆくゆくはでっかい商売に繋いでゆくんだからな。狙うところは狙っていかないと」
「趣味と実益、だろ」
「放っとけ」
二人は歩いていくうちに、やがて向こうから水の気配がするのを感じる。
「お、やっとか」
自然と足は速くなる。
山道の脇に階段状の下り坂を見つけた時、足元に目的の景色が垣間見えた。
「あららら」
なるほど…。健至は納得した。確かにこれはいい。観光名所としてはいささか地味すぎるが、一応キチンとした、由緒ある滝だ。
坂を十数メートル降りると、もうそこは滝つぼの近くだった。
「意外といいんじゃない」
マルオも子どものようにはしゃいでいる。健至は改めて滝を見上げた。うっすらと水滴が霧のように舞っている。
「その庄源さんってさ、行方不明って云うか、案外本当に仙人になったのかもな」
健至がそう言うと、マルオは
「仙人のキャラクターでも作るか、いっそのこと」
と笑った。
その時、一瞬雲間から光が落ちてきて、三十路男たちの足元をサッと照らした。
39、『 田園 』
また来てしまった。富樫明菜はそう思った。今年に入って何回目だろう。去年は春夏秋冬と計四回。今年はほぼ隔月で足を運んでいることになる。S県野布市水穂町。典型的な過疎の町。最近合併され、隣りの野布市に吸収された。初めてこの町の駅に降り立った時、あまりの殺風景さにしばし足が止まったが、今では相当に慣れてしまったようだ。
三年前、最初に「行こう」と言ったのは、職場の友人、敬子だった。彼女はもともと園芸が趣味で、家に遊びに行く度、観葉植物の講義を聞かされた。お互い三十半ばで未婚。今時珍しくもないが、人知れず「行き遅れ」感を職場でプライベートで感じる毎日。そんな時敬子が見つけてきたのが『週末農業体験ツアー』だった。
正直云うと、明菜は当日まで行くかどうか悩んでいた。元々個人的に園芸や農業に興味があるわけではない。もちろん都会とか田舎とか、生活の場を区別する気持ちは更々ないが、子どもの頃から団地育ちの明菜には、土地に根差して生きるということがいまいちピンとこなかった。つまり単純に、敬子ほどそう乗り気になれなかったのだ。
当日所定の場所に集まった参加者は三十名足らず。家族連れも何組かいた。大学生らしきグループも。
「これって、何する集まりなの?」
明菜は敬子に聞いてみた。
「何って、農業に決まってるじゃない」
「でも、みんなまるで遠足に行くみたいね」
「今日は親子連れがいるから仕方ないよ。本当にガチで参加する人は、一年を通してやるから、もうすっかり本職さん然としてるらしいよ」
「ね、敬子ってさ。農業を本気でやるつもりとかあんの?」
「うーん、どうかな。今回はタウン誌の広告見ただけだから。実際体験してみないと分からないよ」
そりゃそうだ。明菜は納得したが、一方で「自分には無理だな」、行きの貸し切りバスの中でそう考えていた。
現地まで片道三時間。企画した野布市職員の挨拶のあと、参加者各自の簡単な自己紹介があり、明菜たちは一応「趣味が高じて」と、自分たちの参加理由を説明した。
「今回は代かき作業を皆さんでやってもらおうと思います」
三十代前半らしき男性職員は、努めて明るく言った。「田植え前の地ならし作業で派手さはありませんが、農業の醍醐味を知るにはかえって良いかもしれません」
ほとんどが初参加という一行は、一様に神妙な面持ちで聞いている。それを察したのか、「それに、泥んこになって結構くたびれます。もうほとんどエジプトの奴隷状態になりますから、皆さん水分をしっかり取ってください」
本気か嘘か分からないジョークで職員は最後を締めくくった。
「本気か嘘か分からないけど、あの人、俳優の西島秀俊に似てて、結構イケてない?」
横の席の敬子は、尚もテンションが上がるようだった。
「騙された…」
春曇りの空の下、作業服姿の敬子がそう漏らした時、
「それって、あのヒデトシ君が言ってたこと、ホントだったってだけじゃない?」
明菜は言ったが、もう敬子の返事はなかった。周りを山に囲まれた、広々とし過ぎた田園地帯。見回すと意外なことに年配者の方がまだ元気を保てているようだ。子どもと若者の方は、一様にエジプトの奴隷よろしく、ひたすら水が入り泥沼と化した田んぼの中で、その相方が表面を均すべく引っ張る縄と取っ手の付いた砕土機を、息も絶え絶えに押している。
「…ねえ、これって、昔は馬とか牛でやってたんでしょ」
敬子が口を開いた。
「そうみたいね」
その馬役の明菜は、肩当ての付いた縄紐を全身に力を入れながら引っ張る。「今は全部機械でやってるみたいだけど」
「これって本当は、馬に引かれる人間の方が大変だったんじゃない?」
敬子がそう言ったところで、二人は田んぼの端を大きく方向転換する。貸し出された作業ズボンの裾は、もうすっかり泥水に浸かっている。
「交代する?」
明菜は後ろの相方に声をかけたが、返事の代わりに荒い息づかいだけが返ってくる。そのままぬかるみに歩を進めながら、明菜はふと前方に見える緑の山々に目をやった。こんなところで自分は何をしてるんだろうな、という寂寞とした思いとは裏腹に、普段の町中の暮らしでは感じたことのない、ちっぽけで空っぽな自分をその風景の中に見つけていた。遠くでカラスが自分たちを笑っているのが聞こえる。
「もう、ヒデトシ君。あとで絶対、嫌味言ってやる」
その時、敬子の奴隷らしからぬ愚痴が後ろから聞こえてきた。その時、明菜たちの遥か右前方の組がぬかるみに足を取られて無残に倒れ込んだ。
「あれ、大丈夫ですか~?」
後ろの方からヒデトシ君ののんびりとした声が掛かった。その調子が余りにも長閑で、参加者たちは一様に一瞬ムッとした後、不思議に腹の底から湧き上がる笑いをこらえることができなくなった。
「何だよ、もう…」
泥まみれで起き上がった参加者も、そのうち照れと誇らしさの綯い交ぜになった様子で苦笑している。
「さあ、もうあと一往復。皆さん、気張ってやってください」
ヒデトシ君の容赦ない追い打ちが掛った時、
「ああ、こういうのも悪くはないのかもな」
ふと、明菜は思った。
「富樫さん」
すっかり聞き慣れた声がするので振り向くと、駅の駐車場の方からヒデトシ君こと、田中安治が歩いてきた。
「あ、田中さん。ひょっとして待ってました?」
「全然。今来たところです。じゃ、行きますか」
「はい。いつも送迎して頂いて有難うございます」
「なんのなんの。言ってもらえればすぐに車回しますよ。本当にお疲れ様です」
ヒデトシ君はそう言うと、明菜に小さく頭を下げる。
「今日はお休みだったんでしょ」
「ええ、役場は。でも百姓に休みはないですから」
自身の実家も農家というヒデトシ君は、苦笑しながら言った。「もう、ホントに金ナシ、嫁ナシ、休みナシの無いない尽くしですから。明菜さんみたいな人は神様に見えますよ」
「嘘。この前来た時は『よっぽど変ってる』って、隣りの平田さんと話してたじゃないですか」
明菜はヒデトシ君を笑いながら睨む。
「聞こえてました?」
ヒデトシ君は年に似合わない素朴な笑みを浮かべる。そして二人してヒデトシ君家の軽トラックに乗り込む。
「もう、昨日から泊り込みで加勢に来てくれてる方もいるんですよ」
「そうですか。今回もお手柔らかにお願いします」
「何、もうベテランでしょ、明菜さんは。じゃ、出しますよ」
「それでいつも騙されるんですよね」
明菜は笑いながら言ったが、もうヒデトシ君は応えなかった。代わりにオーディオからシューベルトのピアノソナタが聞こえてきて二人は黙ってそれに聞き入っている。
奴隷も悪くないな。明菜は再び、そう思った。
40、『 スタンド 』
午前十時過ぎ。父子がそれぞれのスティール机に向かって座っている。お互いに何か話すわけではない。父親は早朝からの勤務明けで、眠気覚ましの熱い緑茶を飲んでいる。息子(とは云ってももう十分な中年面)の方はこれから丸半日の仕事の前に、いつものように半ば義務的に新聞に目を通している。彼らの仕事はガソリンスタンドの経営。世界に残り不明瞭な化石燃料を、どうにかこうにか切り売りしながらほぼ半世紀を暮らしてきた。
店には様々な客が立ち寄る。または通り過ぎていく。昨日はやくざになった同級生が十数年ぶりに姿を見せた。
「まだやってたんだ。このスタンド」
同級生は洒落のつもりで言ったのかもしれないが、息子は相手のいかにもそれ然とした風体に言葉を失ったままだった。元々気の弱い同級生は、自嘲じみた笑みを残して去っていった。
一昨日は市長の公用車が音もなく入ってきた。
「満タンで」
運転手が手短に指示した時、ふと後ろの席を見て息子は市長その人に気がついた。まだ五十を回ったばかりの一見優男。表で見る時はやたら社交的に見える印象も、こうして見ると企業の二代目社長と云った感じで、どこか世間知らずの感が否めない。相手も察したのか、最大公約数的な笑顔と会釈でそれを埋め合わそうとする。息子には何だかそれがとても小賢しく思え、前の選挙の時彼に投票したことを今更ながら後悔した。
いつも活気に溢れているのはプール帰りの主婦、牧原某だ。もう秋も深いというのに、身体を動かした直後だからか、白いTシャツにブルーのジャケットを羽織っているだけ。髪はまだ半分湿気たままの恰好で、車を軽くバウンドさせながらスタンドに滑り込ませる。
「いつものね」
明るくそう言って顧客カードをあちこち探した揚句、ようやく財布の中から引っ張り出す。まだ四十前とばかりに今風を装っているが、実は結構いってるのかもしれない。息子は密かにそう踏んでいる。
スタンドには週に数回、タンクローリーも巡回してくる。もちろん備蓄補給の為だが、ドライバーとの最近の話題は際限なく上がり続ける石油の値段についてだ。なるべく良心的な商売を心掛けているが、こればかりは末端ではどうすることもできない、等々…。いまに電気自動車が普及したら、それこそ店じまいだ、云々…。本気か嘘か分からない愚痴をお互いにこれ以上ない大人顔で言い合っている。
息子は読んでいる新聞を閉じ、三十半ばと云う自分の年齢を考える。人生八十年とすると、自分は折り返し地点に差し掛かっているらしい。果たして帰りの分の燃料は自分の中に残っているのだろうか…。
父親がやおら帰り仕度をしながら大きな欠伸をした。息子はスティック状のインスタントコーヒーをカップに入れ、お湯を注ぐ。
「コーヒーばっかり飲むな。また太るぞ」
父親は言うが、息子は黙ったままだ。
死ぬ前にやってみたいことはある。ピアノを習うこと。直接のきっかけは多分あれだ。ひと月ほど前、初恋の人と再会した。もちろんここで。相手は一人だった。お互い様と云えばそれまでだが、中年に差し掛かった彼女の変化ぶりは生彩を全く欠いているようで、息子でさえ最初彼女本人だと分からなかった。
「お久しぶり」
彼女は大人びた微笑で挨拶したが、息子にはそれが何かの言い訳のように思えてならなかった。
中学生の頃、毎週月曜の全校集会で校歌のピアノ伴奏をやっていた彼女。その彼女が一瞬一秒途切れさせずに周囲に放っていたものは、あれは一体何だったのだろう?息子は休憩室の壁に飾ってある、有名人のサイン色紙を見上げる。確かあの頃彼女が好きだった、アイドルグループの一人のもの。知人から偶然譲ってもらったのも、ひょっとしたら彼女のことがまだ頭のどこかにあったからかもしれない。いずれにせよ、このつかの間の熱いコーヒーと同じで、今飲まなければ冷めていくだけ。息子はそれでも、その一口一口を惜しむようにカップからコーヒーを啜り続ける。
不意に表からクラクションが鳴る。見ると同級生の戸田健至が合図をしながら通り過ぎる。今から奴も仕事か…。息子は一瞬、健至との中学時代の思い出に浸る。
昼休み。誰もいないと思って行った音楽室で、奴は一人文庫本を読んでいた。
「何してるんだ、お前」
見ると、夏目漱石の小説『こころ』だった。
「教室だと落ち着いて読めないんだ」
健至は少し照れくさそうに応えた。「お前は?」
そう聞かれて答えに詰まった。まさか隠れてピアノを触りに、とは言えなかった。「別に…」
「あのさあ、俺がここで本読んでること、黙っててくれよな。バレると『女みたいだ』って馬鹿にされっから」
健至は言った。
「ああ、言わねえよ」
そうして二人は時々、昼休みに話をするようになった。
「オーライ、オーライ…」
トオルの声だ。
「じゃ、俺は戻る」
入れ替わりに父親は愛用のスーパーカブに乗って家に帰っていく。トオルは元気な声とは裏腹に、機嫌が芳しくなさそうだ。それに今日はいつもより時間が早い。
「何かあったの?」
息子は外に出て声をかける。しかしトオルはこちらを見ようともせずに、ただ店の前を通り過ぎていく。誰か知り合いでも探しているかのように。その時、中で電話が鳴り出す。戻って出ると、灯油配達の注文だった。猫ばあさんの家。そう云えば一週間前に行った時、見慣れない少女が表にいた。孫娘だろうか。そう考えて、今更のように否定する。配達は夕方にした。それまでには今度は母親がやってきて閉店まで店番をする。いつまで続くか分からない、この一家総出の三交代制。親子揃ってゆっくりしたことなんて、今までどれほどあったろうか?
「そん時はやっぱ、店じまいのときだな」
息子は清々したような様子で一人呟く。店先に出て、先程のトオルの姿を探すが、その姿はもうどこにも見つからない。
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