第5話
21、『 うみぼし 』
吉田保は海に来ていた。釣りではない。観光でもない。ただ、車を一時間走らせて海沿いの町に来た。
ここにはひと月に一度のペースで来ている気がする。特にそうしようと思っているわけではないが、気がつくと自然とその間隔が出来上がっている。
いつもと違うのは今日は連れがいること。中国人のカップル。自分の工場で働いている、まだ二十になったばかりの従業員どうしだ。
「どうだ。ここ、景色がいいだろう?」
道沿いの駐車スペースに車を滑り込ませて、吉田は後部座席の二人に言った。「降りてみるか?」
二人は何やら気恥ずかしそうに頷くと、手探りでドアを開けて外に出た。
途端に海風にあおられる。さすがに寒い。二人も身を寄せ合って、それでもおそらく初めて間近に見るであろう大海に声を上げている。
吉田はその二人から少し離れて岸壁に立つ。さて、どうしたものかと思う。成り行きで連れてきたまではよかったが、この先を何も考えていない。
自分の良くないところだと思う。口だけはよく回るが、行動と理屈はいつも後回しになる。女房からは「よくそれで、会社経営なんてやってられるわよね」と呆れられる。言い訳をするならば、今日は半分事故(アクシデント)だったと云っていい。月に二回の土曜休暇の朝、中国人宿舎の一つになっている、工場の敷地内にある旧事務所ビルで盗難騒動が起こった。
工場に来ているのは主に北京周辺をはじめとする華北出身者だが、その他に東北や内モンゴルからやってきている者も中にはいる。皆、昨今急成長する中国で生まれ、何とかその勢いに乗って金を稼ごうとする、謂わば『今時の中国人』なのだが、同じ中国人どうしでのいさかいも吉田が思っている以上に多かった。
「日本人は外に出たら慣れ合うけど、中国人は逆だね。足を引っ張り合って、何とか自分を立てようとする」
そう言ったのは、事務所の森専務だった。
「そう言えなくもないけどねえ」
それは食堂のおばちゃん。
「え、中国人って、ラーメン食べないんスか?」
高校出たての従姉の息子は論外。
昼前、電話で呼び出された吉田は何はともあれ、自分が出向くからと、警察にはまだ連絡しないように言付けた。
「日本にはな、夏には海水浴って習慣があるんだ」
吉田は言った。
男の方がよく聞こえないという風にこちらを見た。女の方は黙ったまま、海を見つめている。
「カ・イ・ス・イ・ヨ・ク」吉田は一字ごと発音する。「家族とか、仲間と一緒に、一日海ではしゃぎまくるんだ」
おそらく意味が伝わったと云うより、吉田の笑顔に男は大きく頷いた。
「カゾク、ナカマ。ミンナ、ツマラナイ」
その時、女が言った。
「え?」吉田は思わず聞き返す。
「一人がイイです。ナニノための家族ですか?仲間ですか?私にはワカリマセン」
女は顔だけをこちらに向けて言った。横で男が困ったように笑っている。
「何の為って…」
問われて吉田は答えに窮した。そして、「それが普通…、人間、だからじゃねえのか」、そう独りごちた。
海の波音がその吉田を嗤うかのように、お構いなしにさんざめく。
宿舎で盗まれたのは金ではなかった。本だった。それも小説本。
「え、本?」それを宿舎の玄関口で、一番年かさの中国人、陵健樢に聞いた時、吉田は思わず声を出して笑ってしまった。しかし陵の深刻そうな顔を見て中に入ると、確かにこれは笑えない空気に満ちていた。その真ん中に若いカップルがいた。
「社長、これ。この人が盗んだんです」
達者な日本語の、林芽衣が女の方をはっきりと指差した。手にあったのは中国語版の日本の有名作家の本だった。吉田はそれを手に取って、中をパラパラと捲った。全部漢字。自分の国の本のはずなのに、さっぱり内容が分からなかった。
「これは私の宝物。中国でとても流行っています」
林は尚も言った。
どうやら中国ではその作家の本がよく読まれ、一部では熱心なファンもいると云う。林もその一人で、宿舎でその本の話をしたところ、女から「読んでみたいから貸してくれ」と言われ、三日の約束で貸したが、一週間になっても返さないので文句をつけたところ、逆にキレられたらしかった。
「彼女、常識がありません。古い中国人。内陸の人、みんな、そう」
林がそう言うと、周りの大半が頷き、渦中の女だけがキッとこちらを見た。吉田はドキッとした。その目の強さに押されたのもあったが、何処かで見たような光がそこに宿っていたからだ。皆の中を押し分けるようにして二人の手を取り、半ば拉致するように自分の車に乗せたのは、まったくの成り行き任せだった。しかし一方で、吉田は自分の出たとこ勝負の性格をどこかで信頼している。まあ、なんとかなるさ。大したこっちゃねえ。そう、心で呟いている。
妹の色鉛筆が盗まれたのは確か吉田が小六の時だった。妹は一つ下だったから小五だったか。クラス委員だった吉田が職員室に行くと、担任の前で、妹ともう一人の女の子が睨み合っているのが見えた。
「どうした?」
吉田が何気なく近寄ると、妹はここぞとばかりに一気呵成、事の次第を説明した。吉田は心の中で「やれやれ」と呟きながら、その妹のクラスメイトを見た。何処かあか抜けない格好が妹と対照的だった。口元をキュッと結び、顔には負けず嫌いの性格がはっきりと浮かんでいたが、その小さく丸い目にはもう濡れたものが光っていた。
「おい、もういいじゃないか。どうせ、使い古しの色鉛筆だろ」
吉田が兄貴然としてそう言った時、ハッとするような怒りの表情を見せたのは妹ではなく、むしろその女の子の方だった。吉田は息を飲んだ。この小さな女の子の何処に、こんな力があるのだろう?学校では決して習わない、人間の不思議がそこにはあるような気がした。
「新しい、古いの問題じゃないんです。私が大切に使っていたものだから」
妹が横にいた担任に言うと、
「まあまあ、吉田」
担任は取り成しながら、その兄の方に苦笑いを向けた。当の女の子の方はまだ、じっと前の方を見て何かに一人、耐え忍んでいるようだった。
吉田もまたその場から離れられなくなっていた。少女の目は瞬間で、吉田の何かを射抜いていた。
「寒いですね。そろそろ戻りましょう」
男の方が言った。
「ああ、そうだな。風邪を引くと、せっかくの休みがもったいないな」
吉田は笑顔で言った。「帰りに、何か美味いものでも食おうや」
「シャチョウ、さん」
女が言った。
「ん、何だ?」
「どうして、今日、海に来ました?」
女の顔は心なしか穏やかになっていた。
「どうしてかなあ。まあ、俺は何か嫌なことがあると、気分転換に一人でここまでドライブするんだ」
吉田は正直に言った。そんな吉田を女は髪をかき分けながら見ていた。そして、
「林さん、『本、週末まで貸すよ』って、言ったんです。私、盗ったんじゃありません」
そう言った。男が女の肩に手をやり、車に誘った。
吉田が再び車を走らせ始めると、真横に太陽が今にも沈もうとしていた。日が確実に短くなっている。やれやれ、今日はこの一件で終わりか…。
「君たちの故郷じゃさ、一人になりたい時、どうするの?」
吉田は気まぐれに後部座席の二人に聞いた。女の方は分からなかったのか、男が説明している。
「昔は草原に立って、ずっと向こうの地平線眺めてました。子どもの頃。でも今は町に住んでるので…夜、空の星を眺めるくらいです」
女がミラー越しに言った。
吉田はその目をチラッと見ながら、
「ああ、良いな。ロマンチックだね」、頷いて見せた。
しばらく車の車輪の滑る音だけが流れた。日が傾くと、辺りは急に陰ってきた。
「今日は本当にすみませんでした」
不意に男の方が声をかけた。
「ああ、気にするなよ。生きてるとさ、いろいろあるからな」
その言葉が届いたかどうか分からなかったが、どうやら大事にはならずに済みそうだ。吉田はハンドルを軽く握り直した。
そうだ、帰りに妹の店に寄ろう。従業員は普段、あまり連れてはいかないのだが、今日はそんな気分だ。
「あ」
急に女が声を上げた。
「なんだ?」
「太白星」
指を差している。
「は?」
「金星のことです」
男の方が言った。
「ああ、日本では『宵の明星』っていうんだ」
吉田は夕空に星を探しながら、あの小五の少女の瞳を思い出していた。
マリ ~『 ファインダー 』
試しに携帯のカメラで撮ってみた。近づいてくるトオルの全身。間断なく揺れる彼の身体が、そう簡単にファインダーに収まるわけがないと思いつつボタンを押すと、携帯独特の時間差があってから、バシャ、シャッターが切れる音がした。固まったフレームを覗くと、そこには奇跡的にブレのないトオルの姿があった。
ここは子どもの頃からある、鉄工所の工場跡地。その裏の小道を歩いていると、思いがけなく向こうからやってくるトオルと出くわした。その全身で挑みかかってくるかのような姿を目の当たりにした時、マリの中である企みが浮かんだ。
そうこうしているうちにトオルが自分の横を通り過ぎて行く。
「ちょっと、トオルさん」
マリは思わず声を出していた。「勝手に写真撮っちゃったんだけど、見ます?」
自分でも変な言い草だと思った。まさに事後承諾。手前勝手。トオルが怒り出したら、まずは謝るしかない。瞬間的にマリは覚悟を決めた。
「あ?」トオルの動きが止まった。「シャシン?」
振り向いたトオルは思いの外、穏やかな表情をしていた。勇気を出してマリはトオルに近づき、携帯の画面を見せた。「はい」
そう言いながら、マリは何故、他でもないトオルの姿を撮ろうと思ったのか、自分が訝しく思えた。トオルは引き寄せられるように画面に食い入る。
「これ…」
そう言ったきり、言葉が出てこない。
「御免なさい。急に写真、撮りたくなって。失礼だとは思ったんだけど」
マリは慌てて言い訳する。
「カッコイイ…」
トオルの顔は真顔だ。マリは困惑する。質問されているのか?それとも自画自賛なのか?マリは改めてトオルの横顔を見つめる。
この人、こんな顔だったんだ…。
高校の写真部の後輩に会った後、マリは自分の部屋の押し入れの中から、写真の入った段ボール箱を一つ取り出した。重かった。中を開けてみると、アルバムになっているものが数冊、そして大判の生写真が束になって入っていた。中には写真どうしが付着してしまっているものもある。若い頃の自分の雑さが笑えた。
その一枚一枚を眺めてみた。三分の二がモノクロだ。マリはその頃からカラーよりもモノクロが好きだった。写真はもともと動きあるものから時間だけを奪い去ってしまうもの。そこに虚飾の必要はない。モノクロで充分。その潔さがかえってマリには心地よくさえ感じられていた。
高校時代、マリはとにかくめくらめっぽうに撮った。写真部に入るまで、ほとんどカメラにさえ触ったことのなかったマリは、中学の同級生に誘われるがまま入部し、さっさとその同級生が途中退部した後も居残った。理由は、単純に面白かったから。子どもの頃から足が悪かったマリは、運動系の部活は人に気を遣わせるばかりで嫌だった。しかしかと云って所謂文化系の部活は、何か性格的に合わないものを感じていた。うっ屈感と云ってもいい。そして高校の写真部に入って、初めて自分の撮った写真を見た時に驚いた。
その写真はピントがずれ、そして何よりも手元のブレが激しかった。教室の友人数人がはしゃぐ姿を撮ったものだったが、ほとんど像を結んでいなかった。でも…。マリはその自分の写真の中に動きを見た。友人たちの弾ける若さを捉えた気がした。
「ああ、元気な画だね」
顧問の橋本先生がそう言ってくれた時、マリは何か自分の居場所をとうとう見つけた気がした。
「これ、カッコイイ…」
トオルが再び言った。どうやら単純に喜んでいる様だ。
「良かった。携帯カメラですけど、焼き増しもできますよ」
マリは言ってみた。
「この人、誰?」
トオルがそう言って、マリの方を見た。
「え?」マリは瞬間言葉を失った。
もしかしてこの人、自分の姿が分からないのかしら?
次の瞬間、トオルが携帯のボタンを太い親指で押した。画面がたちまち暗転した。
「あ!」
マリが声を上げた時、トオルはさっさと歩き出し、その背中はもう写真のことなど忘れてしまったかのようにも見えた。
マリの中で何か、課題が残った。
22、『 地蔵 』
老婆は散歩がてらにその地蔵の祠に手を合わせる。信仰心というより、今ではただの習慣なのだが、一日でもやらないと何となく気持ちの座り具合が悪いから、やはりその前まで来ると足を止める。そしてやおら祠の方に身体を向ける。
今日は足を止めたところで橋の方に目をやった。またあの男が立っている。老婆の脳裏に嫌な記憶が呼び起こされる。今から五十年近く前のことだ。元々このすぐ近くに住んでいた老婆は朝、橋の下を何気なく見て腰を抜かした。まだ春になったばかりの冷たく、浅い川底に男の骸が陽の光を浴びて浮いていた。まだ若かった老婆は警察に半日以上事情聴取され、何だか自分が事件のいち当事者のような気持ちにまでなったが、結局警察からは詳しい事情は聞かされなかった。ただ、水際に引き寄せられた死体の髪が、濡れた海藻のようで気持ち悪かったことだけが、長く記憶に残った。
何となく似ている気がした。まさかまだ日が残るうちからそんなことはなかろうが、老婆は一応橋の上に立つ男の足元を確かめた。そして今度は男の横顔。まだ随分と若い。こんな時間から何をしているのだろう?恰好から見ると地元の者らしいが、良い若いモンがぶらぶら橋の上で時間をつぶしているなんて結局碌なモンじゃあ無い。老婆は何故か、知りもしない者に訳もなく腹が立ってくるのを感じながら、いつものように祠の方に身体を向けた。
全く、冗談じゃない…。
男の素性がうっすらと分かったのは、それから四、五年経った頃だった。もともとその橋のかかる場所から地元で『八幡さん』と呼ばれる神社までの参道脇には、身寄りのない、あるいは身寄りから構ってもらえない子どもたちを預かる施設があった。戦後すぐからあったからそれなりに歴史は長いのだろうが、地元ではあまり人が近寄らない場所の一つだった。理由はいろいろあろうが、何より結局そこの子どもたちは『他所者』であり、成長すればやはり、人知れず『他所』へと姿を消していってしまう者たちだったから。
老婆の息子たちがまだ学校に通っていた頃、粋がる地元の不良たちが密かに怖れていたのは、その施設の子どもたちだった。彼らは押し並べて大人しかったが、それは自分の出自に触れられない、あるいは触れられたくない、必死の意固地さだったのかもしれない。
どうやら川に浮かんでいた男はその施設の子どもの親らしいという噂だった。その子ども(男の子だった)が中学卒業して就職する時に、担任は事情を打ち明けたらしい。つまり、その子はまる四、五年、男親の死を知らずにいたことになる。その話を聞いた時、老婆は同じ子どもを持つ親として、何とも居た堪れない気持ちになった。その子は結局、親に二度、捨てられたのだ…。
今はその施設も様変わりし、老人介護のデイケア・センターとして存続している。当の老婆も今ではそこの常連の利用者だ。一応息子の一人とその女房、そして小生意気な孫と一つ屋根の下に暮らしているが、連れ合いが先に逝ってから、いつの間にか自分も『他所者』とさして変わらない、そう思うようになった。
ふとまた目を橋の方に向ける。男はもういなかった。老婆は何だかやり切れない気持ちで杖を地面につくと、家まで続くもと来た道に戻ろうとする。その時、橋の向こうからトオルの姿が見えたので、老婆は思わずぞっとする。あの子ももう随分見慣れているが、良くも悪くも飽きると云うことがない。しかしあのえも言われぬ騒々しさはなんだ。独り言とも、うなり声ともつかない声。そして異様そのものとしか言いようのない動き。老婆は咄嗟に、最近水穂では見かけなくなった獅子舞の踊りを思い浮かべた。クワバラ、クワバラ…。
老婆は気持ちだけの早足で立ち去り、それに入れ替わるようにトオルが祠の前にやってくる。そして祠の中の地蔵を覗きこむようにしたかと思うと、急に上体をあげ、まるで河馬のような大きなあくびをして見せた。
23、『 午後の会話 』
「で、どうするの?」
母親は食卓で言った。
「どうって?」
娘はいつもは穏やかな母の目が今日は幾分冷めているのを感じているのか、先程からずっと静かだ。
「見合いもそうだけど、あなたの中で何が確かなものなのか、お母さんたちにはそれが分からないのよ」
そう言うと母親は椅子に腰かけ、娘の正面に座る。身体は昔からすらっとしているのに、いつも前屈みなせいでずっと小柄に見える。髪型も中学生の頃からずっとショート。顔にだってまだあどけなさを感じる。母親は、こうしてみると娘は一瞬、何も以前と変わっていないのではないか、そんな気がしてくる。
「メールがね…来たの。前の職場の友だちから」
不意に娘が言った。
「そう」
母親は頷く。
「会社、相変わらず忙しいんだって。それに従業員の出入りも」
「どこも大変なのね」
母親は言う。
「私ね、辞めてよかったって思ってる」
娘が言った。その目は子どもの頃と変わらない、深いしなやかさを湛えている。
娘が会社を辞めて、家に戻ってきたいと言った時、夫は喜び半分失望半分で、二、三日なにやら一人でブツブツこぼしていた。電話を受け取った母親は、夫に理由を聞かれたが、それは適当にごまかしておいた。母親には、もうその一年程前から何となくそんな気がしていたから。
そもそも母親は、高校を卒業して他県で働くという娘に、「無理して遠くに行く必要はないんじゃない」と言った。それは一人娘を手元に置いていたかったというわけではなく、母親として、子どもの性分を考えてのことだった。もちろん足が悪いという事情もあったが、それは今更気にする娘ではないことは十分分かっていた。
娘は頑として気持ちを変えなかった。そのうち母親も反対する気すらなくなった。それにいつのまにか、自分の想像つかない娘の未来を、少し覗いてみたくなっていた。
その娘が「帰ってきたい」と電話口で言った時、母親は「じゃあ、早い方が良いわよ」、即答して電話を置いた。
結局娘が帰ってきたのは、それから二ヶ月後のことだった。
「見合い、止めるのね」母親は念を押した。
「うん」
「相手の方にも迷惑かけるのよ」
「自分で連絡する」
娘は言った。もう、何度目になるだろう。夫が聞いたらまた、「だったら最初から、話受けなきゃいいのに」と、恨めしそうに言うに違いない。反面、顔だけは満更でもなさそうに。
妻はそんな夫の矛盾が内心、疎ましくもあり、同時に羨ましくもある。
「お母さんの希望はね」
母親はこれを最後に話を終えようとする。「マリに幸せになって欲しい、ってことだけ」
すると娘は顔を上げ、母親の顔をまじまじと見る。
「お母さん」
「何?」
「私、幸せなんて信じない」
「どうして?」
「だって」
娘は子どもの頃、事件の後、病院で検査の結果を聞いた時と同じ目で言った。
「ここに、お母さんと一緒に居るだけでも、まあまあだって思うから」
これで母親はしばらく言葉を失う。
そして心の中で、「確かにそうね」、そう呟く。
24、『 レジカウンター 』
元映画館、元ビリヤード場、元古本屋、それから元……。とにかく数え切れないほどのテナントの後、この一見あか抜けた二階建てビルに入ったのは、大手のレンタルビデオショップだった。一階は本屋兼CDショップ、二階はDVDとCDのレンタルコーナーという基本構成。それでも珍しいのは、午前九時から深夜三時までの長時間営業。それで片田舎である地元でも、コンビニで時間をつぶすのに飽きた客で店内はいつもそれなりに賑わっている。
「あれ?」
午後十一時過ぎ、それでもだいぶ客足が引けた頃、レジカウンターで思わず声を上げたのはアルバイト店員の安岡だった。「何だ、健至かよ」
「あ、こんちは」
高校の一つ後輩も気がついて、安岡に頭を下げた。「先輩、ここで働いてたんですか?」
「うん。もう二年になるけどな。お前、随分久しぶりだな」
「そうですね」
「卒業して以来か」
「はい」
「今日は…夏目漱石、『こころ』?」安岡は後輩が手にした商品をチェックする。
「ちょっと先輩、止めて下さいよ」
後輩は周りを気にしながら笑った。
「ずいぶんとクラシックだな。お前、そういう趣味だったっけ?」
「気まぐれですよ」
「今、何してるんだ?」
「中学の先輩がやってる工場と、週末はコンビニのバイト。あとは家の百姓です」
「そっか。家継ぐといろいろ大変なんだな」
「そうでもないですけど、金儲けにはなりませんね」
「そりゃ、こっちも同じだよ」
安岡は屈託なく言った。
「先輩、まだイラストとか、マンガ、描いてるんですか?」
「ああ、一応な。他に能もないし、お前んところみたいに跡継ぐこともないしな」
「そうですか」
「でも、親がうるさくてな。『早く結婚しろ』とか、『まともな仕事に就け』とか」
「ああ、どこも同じだ」
「そんなこと言われてもな。コネも学歴もないサラリーマン上がりの息子に、地元で 一体どんな仕事があるっていうんだよ」
「全くですね」
「お前、いっとき県外に出てたんだろ」
「はい」
「どうして戻る気になったんだ?」
「ああ…」
後輩が答えに一瞬窮していると、隣りのカウンターに別の客がやってきた。
「御免、ちょっと待ってな」
安岡は後輩に会釈してから、その客を先に対応する。客が財布の中身を弄っている間、ふと後輩の方を見ると、後輩は何をするでもなく、カウンターで半分茫然と突っ立っている。店内BGMでも聞いているのか?
「悪い」
「あ、いえ」
「今日は本だけか?新作DVDも入ってんぞ」
「ああ、今日はいいです。明日も朝からコンビニなんで」
後輩は言った。
「お前、覚えてるか。イラスト研の即売展」
「覚えてますよ」
後輩の顔がパッと明るくなった。「一緒に大きなやつ、描きましたよね。確か先輩のマンガをモチーフにして。あれ、面白かったな」
「お前を入れて四人だったか。手分けしてな」
「先輩、僕がキャラクター描いてたら、『お前は色使いがイラスト向きじゃない』って、いきなり背景に回したんですよ」
「よく覚えてるなあ」
「だってあれで僕、ふてくされて、半分自棄で背景塗りまくってましたもん」
「そうだった、そうだった。でも、それが良かったんだよなあ。他の三人のキャラクター画と、お前の水彩じみた背景がいいコンビネーションで。あれ、すぐに売れたもんな」
「いくらでしたっけ?」
「高校の文化祭だからな、せいぜい千円ぐらいか」
「終わってから皆でアイスとたこ焼き、食べましたよね」
「ああ。あれ、美味かったな」
安岡は後輩の顔を見る。当時と変わらない内気かつ真面目そうな顔立ち。こいつの良いところは、裏表の一切無いところだった。
「御免、長話させちゃったな」
安岡は今更とばかり、後輩のレジをやりかける。
「いえ。先輩、この時間、いつも入ってるんですか?」
「大体な。家にいても親父がごろごろしてるだけだから」
「じゃあ、また来ますよ。今度何か面白いDVD、紹介してくださいよ」
「分かった」
そう言って、釣りを渡した。「有難うございました。またお越しくださいませ」
「止めて下さいよ。こっ恥ずかしいですよ」
後輩は本当に照れたように言う。
「また何か、一緒にできるといいけどな」
「そうですね」
後輩は自分が買った本を手で弄んでいる。「…先輩」
「あ?」
「その時はまた、アイスとたこ焼き、おごって下さいよ」
後輩は言った。安岡は思わず手で追っ払う仕草をして、
「こっちのセリフだよ」、笑って見せた。
25、『 ポチ 』
自分は、今はもう手狭になった我が家の中で、所在なく丸まっている。朝六時。まだ朝食の時間ではない。先程飼い主の息子が軽自動車でばたばたと出掛けて行った。それにしても今朝は冷え込んでいる。まだあと一時間、こうして居たいくらいだ。
この家に飼われて早や七年。元々の主人は四年前に姿を消した。多分、死んだのだろう。自分たちの世界では姿が見えなくなること、それは死んだことになる。便宜上そうなっている。この小屋を作ってくれたのもその主人だった。最初は女房殿から「ちょっと大きすぎるんじゃない?」と不評を買ったが、「そのうち、すぐ大きくなる」、と毛布ごと自分を出来たての小屋に押し込んだ。「また、捨てられるのか?」、それまでの身の上を思って、自分は思わず危うい気持ちになったが、その後も決まった時間に餌が運ばれてくるのを見て、ようやくひと安心した。
一日に二度の餌と散歩。今の担当はもはや老人と云ってもいい、女房殿だ。彼女は自分のことが好きになれないのか、いつも仏頂面でこの小屋にやってきては、捨て台詞混じりに自分の名前を呼ぶ。「ほら、ポチ、さっさと食いな。餌だって。聞こえてんのかい、ポチ!」
急かされると気分は滅入るが、まあ空きっ腹を抱えるよりはいい。ゆっくりと起き上がると、餌入れ代わりの使い古しの洗面器に、鼻を近づける。いつもは堅くなった飯に味噌汁、それから魚の皮と、あとはよく分からない油もの…。見た目はともかく、味は意外といける。そうなると食欲は猛然と刺激され、あとはもう本能のままに飯をかき込みだす。その自分の姿を見て、女房殿は不意に悪戯がしたくなるのか、洗面器を手で遠ざけようとする。思わず自分の本能が腹から唸り声を上げる。すると女房殿はその声に驚いて手を止める。「なんだよ、この馬鹿犬…」
自分は再び何もなかったかのように餌を食らい始める。その瞬間が痛快でもあり、また後で思い返し、自分の野性がなんとも哀しく思える。
朝餌が来るのは、いつも息子が仕事に出掛けてからだ。この息子、たまに散歩にも付いて来るが、最近何ともはっきりしない顔をしている。元気がないと云うより、そもそも気合いが抜けている。時折無理やり首輪に繋がった紐で引っ張ってやると、瞬間子どもっぽい笑顔で駆け出してくるが、こちらが力を弱めるとまた元の生気のない顔に戻る。全く犬ならともかく、まだ老けこむ歳じゃあるまいし…。
すぐ近くで物音がしたので見ると、目の前に意外な者が立っていた。思わず自分は顔を上げる。何だ、まだ生きてたのか。主人だった。
ワン。
一声挨拶して鼻を近づけようとすると、主人は半分困ったように笑って右手を差しだした。確かに主人の手だ。が、何か違う気もした。久し振りでお互いに記憶が曖昧になっているのかも知れない。自分たちの仲間でも、死んだと思っていた者が不意に姿を現すことがある。大抵は飼い主に捨てられたか、突然の雷鳴に驚いて迷い犬になったかだ。どちらにしても再会は、お互いに気恥ずかしさが付きまとう。
「元気だったか?」
主人は何やら少し安心したように言った。声が幾分揺れている。自分はそれに応えるように尻尾を大きく振る。
「でかくなったなあ。いや、ちょっと老けたか」
主人は褒め言葉だか何だか、よく分からない事を言いながら、自分の顎下を撫でる。本当に久方振りだ。自分は朝食を後回しにして、すぐさま散歩に行きたくなる。その時、母屋から女房殿が洗面器片手に出てくる。朝食の時間だ。すると主人は急にこそこそ、後ろの農機具納屋に入っていく。
ははあ。相も変わらず、夫婦(めおと)喧嘩でもしたか。自分は察して今度は女房殿に尻尾を振って見せる。
「何だい、今朝はやけにご機嫌じゃないか」
それでも女房殿はさして面白くもなさそうに言う。まあ、いい。主人が久し振りに帰ってきたのだ。今日は散歩もいつになく爽快に違いない。さっさと朝食を済ませて出掛けるとしよう。
「しかし、お前も年取ったね。毛なんてこんなにボサボサじゃないか」
女房殿は何を思ったのか、珍しく自分の身体をさする。
「さて、父ちゃんのところに行くのは、私が先か、お前が先か…」
自分は餌を掻き込みながら、「何言ってるんだ?主人はすぐ後ろの納屋に…」、思わずそう口走りそうになる。
「まあ、どちらにしても、大して変わりはないけどね」
そう言うと女房殿は、掛け声と共に腰を上げ、ため息交じりにまた母屋の方に帰っていく。自分は餌を食らい終わると、忌々しい鎖を引き摺りながら納屋の中を覗く。そして居るはずの主人に向かって声を掛ける。
返事は帰ってこない。もうひと声、今度はかなり大きな声で。さあ、出てきて、久し振りに散歩に連れて行ってくれ。何なら山までも足を延ばしてもいい。
しかし、やはり返事はない。知らないうちに納屋を出て、母屋に入ってしまったのか?仕方なく今度はそっちに向かって幾度も吠えてみる。すると何度目かの後、すぐ近くのアルミサッシが勢いよく開き、「朝から何度もうるさいよ!」、
そう、女房殿にこっぴどく叱られてしまう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます