第16話
幼い頃は、鳥になりたかった。
自由の象徴として空を舞い、何にも束縛されない存在。それがとても羨ましく見えて、暇さえあれば、空を見上げていた。掴めないのに手を伸ばして。ふいに空を舞う身体に届いてしまったのは、いつの頃だったか。自分のものではない身体に入れるようになった時期を、シアンはあまり覚えていない。ただ幼いなりにその力が異端であると察し、両親にたどたどしく伝えたのは憶えている。それから然程間を置かずして、売り飛ばされてしまったのも。
魔術の才能がある人間は希少で、国によっては大変重宝されている。一方で知識が行き渡っていない田舎では、気味が悪い、角が立つ等と厄介者扱いされがちだった。ぼうっとしてばかりの、愛想のない子供が高値で売れるのは、両親にとって利点しかなかったのだろう。
最初に買った貴族は、シアンが魔術の一振りで誰でも殺せるような、優秀な魔術師兵に育つのを期待した。予想外の能力しか使えないと判明すると落胆し、別の有効活用を見出す前に、失脚してしまった。
政権争い、怨恨、事故。様々な理由でシアンの飼い主は移り変わった。奇妙な術を使う貴族の子飼いは、裏で噂になっていたのだろう。逃げる隙も、束の間の自由を味わう余暇もなかった。
浮気調査から、競争相手の弱みを握るための探り。明るい空の下、動物や虫の身体を借りて、ただ命令通りに動く。自分の身体に戻れば待っているのは窓のない部屋。外へ出る自由もない、厳重な鳥籠だった。
『貴様が新しく公爵様に見いだされた、諜報員か』
ただの貧弱そうな小娘が、と疑惑を向けられるのには慣れていた。だからシアンはその時も、慣れた仕草で囀ってみせた。
『リガルド・フォーンス兵隊長。幼少時に貴族間の領地争いに巻き込まれ、家族と死別。公爵様のご温情で若くして雇用され、仇の貴族を没落せしめた主人に忠義を捧げ続けている方ですね』
調べれば誰でも分かる情報を、提示する。無論、それだけでは証明にならない。個人しか知り得ない筈の、もっとプライベートな内容の方が、より効果的だ。
『二日前に、貴方がご家族の墓に添えた四輪の花を、全て明かしてみせましょうか』
『……貴様』
地を這うような低い声は、猛獣の威嚇を想起させた。鍛えられた指がサーベルを掴みたがるように一瞬ぴくりと動いたのを見て、これ以上は危険だと判断した。
『無礼をお許しください。公爵様から、兵隊長である貴方には力を示すよう、指示を受けていました。勿論、誰にも明かすつもりはございません』
シアンが謝罪すると、男は険しい表情を浮かべて、十分理解したと呟く。殺意を向けられようと顔色一つ変えず情報を吐露する子供が、見た目通りではないと、己が身をもって分からせられたがゆえに。
『……何かしらの便宜を図って欲しい算段があるのか』
『いえ。私はただ、命令に従っただけです』
鷹の如き鋭い視線に、疑惑が混ざる。強靭な男に媚びへつらうでもなく、いつでも弱みを握れるのだぞと脅すのでもなく、ただ従順の姿勢を取る小娘。得体が知れないと警戒したのか、或いは。
『貴様は、本当に望みがないのか?』
『ありません』
何かを確認するような問いかけに、淡々と答える。告げた所で、どうせ叶えてくれはしない。下手に警戒されるよりは、黙っている方がよかった。所詮この身は鳥籠に押し込められた奴隷だ。籠の飼い主が代わろうと、やることは変わらない。命令通りに囀るだけ。そうやって従順に振舞いながら、心の奥底の願いを、ずっと抱え続けていた。
どれだけ焦がれても届かないと、知っていながら。
***
太陽が傾いてきている、とシアンはぼんやり思った。縛られて動かせられない身体では、思考のみが許されていた。
「自らの愚かさを思い知れ、この裏切り者めが!」
罵声を浴びせられている、とシアンは他人事のように自分の状況を把握していた。腹部を蹴られても、悲鳴すら上げなかった。機嫌を損ねた師が暴力を振るうのは、これが初めてではなかったから。
もっとも、近くで待機している兵達にとっては、そうではない。何しろ、シアンの存在は一般の兵達には秘匿されている。小娘を一方的に責めている魔術師兵長に不快の眼差しを隠せずにいる者もいた。
周囲からどんな目を向けられているか気付かぬまま、エキュルは土で汚れた頭を掴み、水がたっぷりと注がれた桶にねじ込んだ。手放しかけた意識を、酸欠と水の冷たさで無理矢理覚醒させられ、何度も咳き込む。
「はははっ、無様なものだな!」
無抵抗な子供に暴力を振るう老人もある意味では無様と言えた。シアンはエキュルの部下ではあったが、主な仕事が偵察だったから、独自に指示を受けていた。自分の関与しない所で、若い小娘がどんどん仕事をこなして重宝されるのは、老いた魔術師のプライドをいたく傷つけた。加えて兵隊長も若い男であったから、彼に強く当たれない分の鬱憤を、非力な子供によくぶつけていたのだ。
「そこまでにしておけ、エキュル魔術師兵長」
エキュルはぎくりと動きを止める。リガルド兵隊長、とシアンは声にならない声で呟いた。
「貴様の憂さ晴らしで万が一それの息の根を止めた場合、全責任は貴様が取る事になるが」
いっそ穏やかさを感じさせる、静かな声音であった。空気だけが、ぴんと張り詰めている。力任せに少女の髪をわしづかみにしている指を、リガルドはどうでもよさそうに眺めた。
「公爵様の御指示は、小娘の捕獲のみだ。再教育は、帰還後でもよかろう」
「しかし、竜人の探索がまだ完了しておりませぬ。もうしばしお待ちくだされ」
「空を飛ぶ竜人を、陸で兵が探し当ててみせる、と。随分と自分の判断に自信があるようだな」
纏う空気に威圧感が増し、兵達が落ち着かなげに視線を彷徨わせる。エキュルも冷や汗を流しつつ、震えを誤魔化した声で反論した。
「こ、国境を徒歩で越えようとしたのは、あの竜人が何らかの理由により飛べぬという証拠では? 陸を這いずるしかできぬのであれば、竜人だろうと私の魔術師兵達で捕獲してみせましょう」
「貴様の手柄を増やすために、兵を無駄に浪費させろと主張するか」
小刻みに震えた指から、頭が滑り落ちる。激突した地面からは、老魔術師の青ざめた表情がよく見えた。
「日没までだ。それ以上は、公爵様への不敬とみなす」
エキュルは腰を低くして何度も頷き、慌ただしく部下の下へ向かってゆく。残り少ない時間でどうにか手柄を得ようと必死なのだ。一度確保しかけておきながら逃がしてしまった分を帳消しにしたいのだろう。
どうかあの頑固な少年が、日没まで発見されませんように、とシアンは願った。もし彼が無謀な考えを抱いたとしても、落下させた場所には、恐らくラグが近くにいる。前夜の偵察時に、彼の居場所は特定済だ。合理的な思考を有する彼なら諫めてくれるだろうし、或いは同族を保護してくれるかもしれない。駒として利用するつもりの公爵側に捕まるよりはマシだ。
土を踏む音が、耳元で止まる。硬質なブーツは、眼前で転がる無防備な裏切り者を蹴飛ばす事も、砂をかける事もしなかった。
「シアン・カネージュ。弁明はあるか」
名を呼ばれ、地面にこすりつけていた顔をのろのろと上げる。見慣れた厳格な顔を前に、ありません、と抑揚のない声で返答した。この男には付け入る隙が無い。彼の心を動かせるのは、主人のみ。公爵が捕縛を命じたのなら、彼はただ、従うだけだ。そしてシアンは、また鳥籠へ戻るのだ。公爵に飼われ、命令を聞くだけの日々に。
「解せんな。そのチョーカーがある以上、我々から逃亡するのに連れの竜人は不可欠だった筈だ」
何故わざわざ逃がしたのか。その問いには、簡単に答えられる。彼には、自由でいて欲しかったから。
「国境には、貴方が待ち構えていたからです」
内心を曝け出す代わりに、そう告げる。道の最後には、よりにもよってリガルドが罠を張っていると、動物を通じて偵察済みだった。優秀な彼の目を掻い潜り、隣国へ辿りつくのは不可能に近い。その箇所を大きく迂回しようにも、包囲網は既に自分達を取り囲みつつあった。前日の夜には、打つ手がないと分かっていた。
「どうせ捕まるのなら、一人で十分でしょう」
「……正直に答えろ」
丹念に手入れされたサーベルが、抜き払われる。眼前に突き出されたそれを、シアンは大した感慨もなくぼうっと見つめた。ひりつく殺気に、見張りの兵達の方がむしろ狼狽していた。
「貴様は最初から、遠からず我々に追いつかれると分かっていたな」
「はい」
「ならば罰として処されようと、束の間の自由を味わう為だけに逃げたというのか」
「はい」
魔霧の森。常より危険な野外に赴いての探索。場所が変われば、鳥籠の扉とていつも頑丈に閉まっているとは限らない。逃げられると思った。だから逃げた。たったそれだけだ。それで生じるリスクだなんて、度外視していた。シアンはただ、自由になりたかった。例え、罰として殺されるとしても。
「愚かな。一時の自由のために、死を選ぶなど」
低く、小さく吐き出された憐れみは、すぐ傍で転がっている裏切り者の耳にだけ届いた。或いは、シアンにすら聞かせるつもりはなかったのかもしれない。
公爵の忠犬とまで揶揄される、厳格な男。部下に恐れられる、残虐な兵隊長。それは、ほんの一面にすぎない。問題行動を起こす部下を積極的に処罰するのは、畏怖で兵達を束ねるため。シアンを威嚇し、警戒はしていたけれど、理不尽な暴力を振るった事は一度もなかった。決して冷血ではなく、失った家族への情を今でも大切に抱え続ける、普通の人並みの感情を抱えている男だと知る者は、殆どいない。
「貴様は最初からそうだった。従順に振舞いながらも、公爵様への忠誠心ばかりか、我々への嫌悪や好意も、一切抱かなかったな」
だから信用できないのだ、と兵隊長は述べた。顔色一つ変えぬまま殴られ続け、刃の切っ先を前にしても恐怖を置き去りにした少女を、睨みつけて。
「貴様は、自分が死ぬのすらどうでもいいのだろう。そのような相手を殺した所で、何の罰にもならん」
猛禽類の如き鋭い視線が、透明な青い瞳を捉える。さざ波ひとつ立っていない、心の奥を貫こうとするように。それなりに長い年月顔を合わせていた上司は、空っぽな中身をとうに見抜いていた。
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