ワビサビサビヌキ 〜Hold Our First Priority ; Without Compromise〜

箍輪 壱砂

プロローグ

プロローグ

莉恋りこ、アンタの父親は最低よ」

 明かりのいていない薄暗い玄関で、アタシと向き合っていた母はそうボソッとつぶやいた。

 戸を背に立つ母の表情かおは、格子こうしの隙間から差し込む逆光に加え、愛用の白い鍔広帽キャプリーヌで見えない。

(なんで……)

 声が出ない。

 廊下に力無く立つアタシはただただ嗚咽おえつを殺しながら身体からだを震わせうつむくことしかできなかった。

 玄関同様、明かりの点いていない廊下は奥に行くほど闇深く、アタシはそれに引きり込まれていくような錯覚に陥った。

 母はそんなアタシに見向きもせず、玄関の引戸を開ける。

 淡く照らしていた光が一気に強さを増し、アタシの目を眩ませた。

 ハイヒールの軽快な音と、稲妻のようにゴロゴロと鳴り響くキャリーケースのキャスターの回転音が静寂の中に響き渡る。

 少しずつ小さくなる母の後ろ姿が、白い光の彼方へと溶け込んでいく。まるで蜃気楼にさらわれてしまったかのように。

 アタシはただ呆然とそれを見つめるしかなかった。


 ――五年前、アタシが小六に上がる直前の三月。

 父が急逝きゅうせいし、アタシたちは住んでいた家を引き払い、母の実家へと帰ってきた。

 ここへ来たのは年始以来なのだが、アタシははっきり言ってこの家が好きじゃない。優に三百年は超える、かつては武家屋敷として使われ、母屋おもやだけでも百坪以上ある古民家だ。昼間はびを感じる立派な建物だが、夜、トイレに行く時なんかは、その古めかしいたたずまいからかもし出す得体の知れない恐怖と戦いながら、極限まで肥大化した暗闇を進むことになり、それが都会育ちのアタシにとって、とても耐え難いことだった。

 そしてそこに住む祖父の存在もまたアタシにとってわずらわしい存在だった。この家の主である祖父は、まさにこの家のように尊大な上に昔気質むかしかたぎの老害で、何か悪さしたらもちろんのこと、少し行儀の悪い振る舞いをしただけでも、アタシを板張りの廊下に引っ張り出して長時間正座させたり、敷地の隅にある土蔵に放り込んで半日ほど閉じ込めたりすることもあった。

 世間の一般的なイメージでは、祖父母という生き物は自分の孫を「目に入れても痛くない」ほど溺愛していると聞いていたが、残念ながら祖父には全く通用しなかった。まあ、せめてもの救いは、祖母がそのイメージ通りの人間だったことだろうか。


 そんな対照的な性格をしている祖父母が、長い間夫婦をやっていけているという事実に軽く脳がバグる。

 アタシの両親は高校時代からの付き合いで、長い交際期間を経て、社会人五年目の時にめでたくゴールイン。アタシが生まれたあとも関係は良好で、父は仕事で家を空けることが多かったが、休みの日は必ず三人で買い物に行ったり、遊園地に連れていってくれたり、家族サービスを怠らなかった。

 一方で、交際期間0日、親同士が決めた見合い結婚という節操のない生存戦略によって結ばれ、気に入らないことがあるとすぐに怒鳴り散らす亭主関白ぶった祖父と、その抑圧に耐え続ける祖母とがなぜ一つ屋根の下で暮らしていけるのか。

  絶対的に誰がどう見ても前者こそ恋愛の最適解だと、アタシは信じて疑わなかった。だけど――。


 母はアタシを捨てた。最後に、あんなに愛していた父への侮蔑の言葉を残して――。


 あの日を境に、アタシの中の時間だけが止まった。季節が巡り、世界がどれだけ目まぐるしく変化しても、アタシは未だに男女の恋仲というものを理解できないままでいる。


 そして五年後の今、アタシは通学途中の電車の中に揺られながら、あの日の悪夢ゆめを見ていた。夜遅くまでスマホをいじっていたせいで、シート端に置かれた、頭の高さほどある厚めの仕切り板に、力無くもたれ、眠りこける。

(莉恋、アンタの父親は最低よ)

 耳の奥で、遠い声がかすかに響いたような気がした。

 まもなくして、金属のきしむ音が徐々に響き渡り、ガタンと車体が揺れる。成すすべなくアタシは、その反動で仕切り板に頭を打ち付けた。

「痛っ……」

 頭に受けた衝撃は、なぜか胸の奥の方をざわつかせた。あの日の苦しみと、どこかで繋がっているのを感じずにはいられなかった。

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