第23話 船たび
海が優しく凪いでいる。水面には静かに波が広がる程度だった。船の上に乗り込むと、少し沈み込むような感覚を覚える。
それを1回、2回、3回と繰り返して、やがて船の上には三人全員が乗り込んでいた。
「そういや名前聞いてなかったな。わしは、サンヂアゴ。あんたの名前は? 」
「私はアトラ、この子はロホ。私とロホで世界中を旅してるんだ。物書きみたいなことをしてるからね。それのネタ探しなんだ」
まぁ嘘は付いてない。
アトラは実際、旅の出来事を記録して、それを元に本を書いている。紀行文と云うやつだ。
それを売り出しているか、趣味の範疇で留めているかの違いなのだ。だから嘘を付いたことにはならないだろう。
幸い、サンヂアゴはその発言について、何か勘付いた様子もない。
「物書きってことは、旅で得た知識とか経験を物語にしているのか? 旅をしているのはそれだけの理由なのか? 」
「自分の目で世界を見てみたいってのもあるね。本を書くためだけではないと思うんだ。なんだか、上手く言い表せないな」
深く考えたことなどなかった。
世界を、知らない土地で旅することを、深く、詳しく考えたことは一度もなかった。
初めの動機は家を逃げたくて。その後は、ただ師匠についていって、師匠みたいになりたくて呪いについて学んで。
ロホと出会ってからは契約だからって思っていて。
思えば自分の旅の動機は、家出の時点ですら深いものではなく、ふわっとしていて、そのまま、今の今まで引きずっていた。
はっとした訳ではない。だが、いざ旅を続ける理由を聞かれても、アトラ自身にはこれと言った理由はなかった。
理由付けなどアトラには必要ない物ではある。だから自分でも答えに困るのだろう。
今すぐ答えを出す必要はないのかもしれない。
「でも、体が動かなくなるまで旅はしていたいかな」
「話あってるところ申し訳ないですけど、船、出しますね」
マノリンがそう言った。操縦室から顔を出して、いつでも出港できることを教えてくれている。
サンヂアゴが「おう」と言って、親指を立てる。すると体に振動が伝わり初めて船が動き出した。
アトラにとっては、ナークラに行くための、老人と少年にとっては、大物を釣り上げるための長い船旅が始まった。
岸壁から離れると、先ほどまで立っていた場所が小さくなっていき、建物や他の船がミニチュアサイズで目に映ってくる。
まばらにいた人たちも、ぼんやりとした輪郭だけに見える。みるみる内に小さくなる形たちは水平線に隠れていき、ついには青い海と空だけが見えるようになった。
「そういえばアトラさんって、ナークラまで行って何をするんですか? 」
「とある本があってね。コレクターには垂涎ものらしいんだけど、それを見てこようかなって」
「え? それだけのために行くんですか?」
「それだけのためだよ」
アトラは言い切った。マノリンには理解出来ないことを、さも当然かのように言い切る。
顔は海に向けられていて顔は見えなかったが、真っ直ぐな目をしているだろうと、マノリンは思った。
「マノリンとサンヂアゴの目標は? かなりの遠出になると思うけど」
自分のことを話すときは表情を見せなかったアトラだが、マノリンたちに聞く際は、顔だけでなく体も船内に向けて話し始めた。
「僕らは漁師ですからもちろん一番の目的は大物を釣り上げる事です。
でも、ここ何日も不漁でして、ただでさえ少ないのに、大きな船を持ってる奴らに全部取られてしまう。だから遠くまで行って漁をしようと考えたんです」
マノリンがそう答える。まだ若いのに、マノリンは自分のことを漁師だと言った。
すでに未来を見据えているのか、夢に向かって邁進しているようだ。
一方サンヂアゴは、ムアン国までの長い船旅の理由を話してくれた。
「ムアン国まで行くのは完全にわしの用事だな。古い友人に会いに行かなくてはいけなくなってしまってな。頑固だが面白いやつだった」
アトラは、その話題に首を突っ込みはしなかった。表情は変わっていなかったが、何故か踏み入ってはいけないと感じたのだ。
「不漁って、具体的にどれくらいの期間、魚が取れてないんだい? 」
「数えてたわけじゃないから確実ではないけど、2ヶ月から3ヶ月はずっと取れてないと思います。どのくらいだっけ、じいさん」
「うーん、わからん。でもずっと不作なのは事実だ。わしらの船がもう少しデカかったら、話は別だったんだがなぁ」
ずっと海を見ながら、サンヂアゴは会話を続けている。少年のように目を輝かせるわけでもなく、歴戦の目つきで見るわけでもない。
平静なままで、ずっと見続けていた。海が自分の帰るべき場所とでも言うのだろうか。
それから、他愛もない話をして、昼ごはんを食べて、陽が傾いてきた。
「食料が少ないように見えるんだけど、君たちは大丈夫なの? 私は平気だけど」
「ふふ、わしらは漁師だぞ? 食べたい時は釣って、新鮮な魚を食べるさ」
自慢気に鼻を鳴らしている。
「わしらが拒絶しなければ、海は自然に心を開いてくれる。腹が減ったら、試練と共に魚がやってくる。海は人間なんかよりもずっと広い心を持ってるんだよ」
目を閉じて持論を展開している。聞き慣れているのか、マノリンは右から左に流すようにして相槌を打つ。
「そろそろ夜だな。マノリン、わしが操縦する。お前は休んでおけ、明日からが本番になるかもしれんからな」
「うん。手伝いが必要なときは、起こしてくれ」
わかった。その意で頷く。マノリンは船の中に入っていき、それから一晩、眠りに付いた。
ずっと起きていたのは、アトラとサンヂアゴだけだった。
「あんた、アトラって言ったか。眠らなくても大丈夫なのか? 幾ら若くても、しっかり睡眠を取らんと倒れてしまうぞ」
「まぁ大丈夫さ。私は魔法使いだしね。それにこの子が付いているから」
親指で指し示した先にはロホが眠っており、呼吸に合わせて、身体が膨れたり縮んだりしている。焚き火があればその近くに寄って寝るが、無ければないでもいいのだろう。
冷たい海風に吹かれながらもぐっすりだ。
「それなら良いが、無理は禁物だ。老人になると、無茶が効かんからな」
年長者としてのアドバイスなのだろう。
それから何があったわけでもなく、アトラはロホに寄り添ってそっと撫でていた。起きない程度に優しくそっと。
早朝、世間としては活動を始めるには早すぎる時間帯だが、マノリンが船の中から甲板に出てきた。上手く寝付けなかったのか、あくびを伴って歩く。
サンヂアゴはというと、歳に対して頑丈らしく、まだまだこれからといった様子だった。
「運転変わるよ、じいさん。少し休んだ方が良い」
「そうだな、それじゃあ頼んだ。こう見えてもさっきから眠くてな。やっぱり歳には勝てんもんだな」
入れ替わりで、役が変わった。操縦を担当するのがマノリンになる。
「じいさんは、顔や態度に出さないで、自分だけで耐えようとするんだ。でも、本人にはその自覚がなくて厄介なんです。
アトラさんも、どうか気にしてあげてください。じいさんも人の子ですから、ずっと働いていたら疲れてしまいます」
「確かに、人の心配ばっかりして自分の事は後回しにしそうな人だからね」
変わらない景色が目に映り続けて、今がどこかもわからなくなってきた。太陽が真上に昇ったことから、かろうじて昼なのはわかったが。
サンヂアゴは少し休息をとっただけで、もう甲板に帰って来た。
丁度良いタイミングで、腹の虫が鳴った。
アトラが、お腹を空かせることはない。ということは、マノリンかサンヂアゴのどちらかになるが、二人は共にお腹が鳴ったようだった。
昨日と同じ質素な昼ごはんを食べて、また海の横断を再開する。
「そういえばあんた、釣りは出来るか?」
「いや、出来ないね」
キッパリと言い切った。濁すよりも、きちんとと真実を伝えた方が良い時もある。
この場合は後者だった。
「なら教えてやるから魚を釣り上げてくれないか?」
「わかった。でも上手くいかないかもしれないよ」
「やるだけやってみても良いだろう。
釣りの極意は、まず自分でやってみる事だ」
差し出された釣竿を持って、アトラは海に立ち向かう。
手すりから身を乗り出す勢いで、全力で振ったその釣竿は、ポチャンと頼らない音を出して着水した。
船から離れていないどころか側面にくっ付いているかのように見える。
「もうちょっと遠くに投げるものなんだが…」
「腕力がないんだよ……」
その後も何度も投げては水面に波紋が広がるが、一向に改善はしなかった。それでもサンヂアゴが諦めることはなく、懸命に教え続ける。当のアトラはというと、言われるがままにしている。
操縦室からずっとその光景を見ているマノリンの顔は朗らかに緩んでいた。
そして夜が来て、朝が来る。そんな毎日が一日一日と流れていく。港を経ってから随分と時間が過ぎたが、まだムアンに着く予兆はなかった。
アトラのキャスティングもだいぶ様になってきた。初めと比べてマシになったという程度だが。
サンヂアゴたちは相変わらずで、未だ大物には出会えていなかった。
「じいさん、俺たちって、本当に大物に巡り会えるかな?」
「マノリン、海を信じるんだ。海は信じた者にしか心を開かない。仮に今回巡り会えなくとも、信じてじっと待っていれば、いつか必ず出会えるものなんだよ」
水面に浮かぶルアーが不意に動いた。アトラは腕を引かれる。
マノリンたちを見ていたために油断していた。海が、求める者に試練を与えるという事を。
「あがが! ふぎぎぃ!」
顔を赤くして腕に力を込めるが、負けてずるずると引きずられる。それを見ていたマノリンが助けようとするが、サンヂアゴがそれを静止する。
行く手を阻まれて見守る事しか出来ない。
「うーんっしょっと! 」
アトラと魚の戦いは、アトラの勝利で幕を閉じる。釣り上げられたのは小さな魚だったが、アトラにとって、それは大きな収穫だった。
誰の手も借りずに一人で釣り上げた初めての獲物。それは達成感と多幸感を与えてくれる。
興奮冷めやらぬ内に、アトラは魚をサンヂアゴに渡す。自分では捌くことができないから、この道のプロに任せるのだ。
素晴らしい手際で捌いていく。あっという間に切り身にされて、肉を晒している。
残酷だと言われるかもしれないが、サンヂアゴにとって、魚を捌くことは誰かにとやかく言われるような事ではなかった。
釣ったものは新鮮な内に食べる、それが釣り上げた者の責務だからだ、とサンヂアゴは語る。
皿に盛り付けられた切り身は美しく、光が反射して輝いて見える。
三人で一皿をつつき合うと、すぐに空になってしまう。
「いやー初めて釣れたよ。やっぱり、何かが出来るようになるのは嬉しい事だね」
深い闇に辺りが包まれ、操縦室にいるのがサンヂアゴに変わった時間帯。アトラは昼の出来事を思い出して浸っている。
「これからも続けて行けば、ゆくゆくはもっと多くの魚に会える。だからやめられないんだよ。釣りは」
そんな事を言って運転をしている。経験豊富なサンヂアゴが、これまで多くの魚を釣って来たのは、疑う余地もないだろう。
「後どれぐらいでムアン国に着くんだい? 」
「三日ぐらいだな。長旅も、そろそろ幕引きだ」
そろそろこの旅も終わりを告げる。海の上の生活は快適とは言えなかったが、それでも楽しく、記憶に残るものだった。
アトラは目を閉じると、ロホと共に眠りについた。
ぐらつく船体に揺られ、アトラは目を覚ました。良い目覚めと言えないそれに、アトラは一瞬で目を覚ました。
するとそこには、一本の紐を綱引きのようにして引いているマノリンとサンヂアゴがいた。
腕には血管が浮かび上がる。真っ赤になった手を見ると、必死なのは火を見るよりも明らかだった。
間髪入れずにアトラも手伝いに行く。
「あんた、これは、マノリンとわしの戦いだ。手助けはいらん」
「寂しい事言わないでさ。私だって、この船の一員だろ」
何か言いたそうにしているが、そんな事をしている余裕はないようだ。
アトラが来たからなんとかなるかと聞かれると、そんな事は断じてない。アトラは役に立たない。魔法を使えばそんな事は無いが、アトラは頑として魔法を使わなかった。
水面には赤い液体が広がっていた。だんだんと引かれる力が弱くなっていく。
ラストスパートをかけるかのようにサンヂアゴが声を出した。
マノリンはヘロヘロで、アトラに至っては、腕を伸ばしているだけという表現が一番似合っていた。
だがラストスパートを切ったのは、大物の方が早かった。疲れ切ったサンヂアゴとマノリン、それは魚も同じだったが、生きるという執念が勝ったのか、握っていた綱が海の中に引き込まれて消えてしまった。
「あれだけ深い傷を負ったのに、あいつは逃げ切った。負けたな」
サンヂアゴが後、十年分若ければ、マノリンが後、十年分経験を積んでいたら、勝利はこの船の物だっただろう。
だが時間に勝てる生物はいない。サンヂアゴはすでに老人で、マノリンはまだ半人前だった。
それでも二人は満足していた。自分たちの力が不足していようが、あれほど勇ましい獲物はそういない。そんな大物と戦えた事。それが何より嬉しかったからだ。
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