30. 修道院とケルト十字

 女王は肘当てに寄りかかり、頬杖をついたまま秘書長官フランシス・ウォルシンガムの報告を聞いていた。国家機密事項。この内容を知り得るのは、ほんの一部の者だけ。今も呼ぶまで誰も来ないよう、人払いをしてあった。


 国内外に情報網と監視網を張り巡らせ、諜報活動を取り仕切るのが秘書長官の役目。各都市に放たれた彼の部下たちの活躍で、女王は何度も暗殺の危機を回避していた。


「教皇に従ったのは?」


「イタリア、スペイン、ポーランド、リトアニア」


「フランスは?」


「来月から二か月遅れで」


 現行の『ユリウス暦』では、128年に1日のズレが生じる計算になる。これを是正するため、この年の二月にローマ教皇グレゴリオス13世が改暦の勅書を発布していた。


「実施から一ヶ月か。大きな混乱は?」


「今のところは。宗教行事の少ない10月での変更が功を奏したようです」


 教皇の名を冠する『グレゴリオ暦』。この新暦はイタリア諸国とスペイン領で最初に実施された。1582年の10月5日から14日が、彼らの歴史から消えたことになる。


「すぐに採用したいところだが、教皇の言いなりになるのは……」


 教皇は反イギリス国教会の姿勢を強め、その首長である女王を暗殺した者には祝福を与えると宣言していた。そのせいもあり、国内ではメアリー・スチュアートを掲げて王位略奪を目論むカソリック派が後を絶たない。


降誕祭クリスマスまで二か月を切っております。今から十日も前倒しにするのは民の負担となりましょう」


 12月25日から数えて四つ遡った日曜日から待降節アドベントが始まる。この準備期間はクリスマスには不可欠だった。祝祭は1月5日まで十二夜も続く大行事イベント。キャロル「The Twelve Days of Christmas」ではクリスマス12日目までプレゼントが届いたと歌われ、現代でもツリーの回収は1月6日とされる。


「しばらく様子を見ましょう。急ぐ必要はございません」


 実際にイギリスが新暦を導入したのは、それから150年以上も後になる。


 多くの反女王陰謀を摘発した秘書長官は、誰よりも女王と教皇の関係を理解していた。彼はいつも女王に寄り添った意見を言う。それを承知した上で、女王は妥協案を出した。


「スペインに関しては新旧両暦を用いて報告せよ。認識にズレがあっては、後の国策に差し障るであろう」


 秘書長官は対スペイン主戦派。時期尚早と開戦は見合わせてはいるが、女王は彼の判断に信頼を置いていた。いずれはその主張を通すときが来る。


「スコットランドの件、サウサンプトン伯が何やら画策しておりますが……」


「リズリーは私の指示で動いている。好きなようにさせておけばよい」


 秘書長官は黙って頭を下げた。彼が退出したのを確認してから、女王は後に控えていた愛人レスター伯ダドリーに声をかける。


「さて、ジェームス6世の女をどうしたらいいか……」


 アンの処遇に関しては、ダドリーが慎重に根回ししていた。


「まずはバーリー男爵の養女に……」


 己の後見人の娘ならば、リズリーは結婚を承知せざるを得ない。ただし、必要となれば婚姻無効の申し立てができるよう、巧妙に書類に不備を入れてあった。


「その予定だったが、思った以上に男好きするようだ。高貴な者だけでは足らず、使用人まで咥え込んだとか」


 女王から手渡された手紙は、彼らの娘ジェーンの筆跡だった。夫デヴァルーの愛人が従者と関係を持ったので、ほとぼりが冷めるまで身柄を預かってほしいとだけ書いてある。


「こういう女は、修道院に預けるのがいい」


「修道院はどこも廃墟に……」


 女王の父ヘンリー8世は、王妃と離縁して女王の母アン・ブーリンと再婚するために宗教改革を余儀なくされた。そして、教皇から破門されるとカソリック修道院を解散し、その全財産を没収していたのだった。


「ああ、言い方が悪かった。ケルト神殿という意味だ」


 大魔術師マーリンは王家への助言の見返りに、修道院という名を隠れ蓑にした神殿を各地に与えられていた。


「西は特に土着信仰の聖地。元々がカソリックの力及ばぬ場所」


 キリスト教に融合したように見せて、ケルト信仰は根強く地方に残っていた。キリスト十字と太陽のシンボルの円環を組み合わせたケルト十字がその目印。


「荒野のには売り払えるような財産もなく、貴族の館にするにも森が深くて立地が悪い。父にも捨て置かれた場所」


「どの辺りをお考えでしょうか」


 女王は長椅子の側のテーブルの上にあるリンゴのタルトに目を向けた。


「ニュー・フォレストがよい。所有する果樹園で労働者を探していた」


「あそこはサウサンプトン伯領。リズリーの監視下になります」


「夫となるべきリズリー相手ならば、姦淫の戒を破ったところで罪にもできぬ」


 すでに女を愛せる体とはいえ、リズリーにはアンに対する情欲はないように見えた。その事実を知っているダドリーは、女王の見解に同意できない。だが、ジェーンのためには、アンをデヴァルーから遠ざけることに賛成だった。


「承知いたしました。すぐに手配を」


「後でよい。お前に聞きたいことがある」


 女王は立ち上がると、ダドリーの首に腕を回す。女王の体から漂う甘い香油に、ダドリーの下半身が強張る。


「女というのは、みな抱き心地が違うのか?」


「さあ。他の女のことは覚えておりません」


「私はお前しか知らない。他の男はどんな抱き方をするのか。ジェームズの女に聞いてみたいものだ」


 女王の言葉にダドリーの血が沸いた。そばにあった長椅子に、女王を乱暴に押し倒す。そして、反論を許さないとばかりに、女王の口を己の手で塞いだ。


「お望みでしたら、私がお教えいたしましょう」


 ダドリーは女王の両手を腰の飾り紐で縛り、その高価なドレスを短剣でズタズタに引き割く。二人の行為が始まったのを合図に、この日の女王の政務は終わりを告げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る