第3章 歌姫シルヴァーナ
第27話
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アンナ・ギルバートは、自他ともに認める歌姫シルヴァーナ・ラディーバ・デルバルの最後の弟子である。
アンナとシルヴァーナの出会いは、彼女の母国で見たシルヴァーナの演奏会を見た時だ。
共演者の史上最高の舞台を自身の歌声で上塗りし、彼が浴びる筈の喝采を掻っ攫う歌姫シルヴァーナに一目ぼれし、いつか弟子入りすると固く心に誓う。
そして母国の家族の猛反対を押し切り、取り上げられたパスポートを物ともせずに、密航してまで弟子入りした猛者でもある。
心酔者であり厄介な信者でもあるアンナは、シルヴァーナの言う事も行動も何もかも否定しない。
「アンナ、教会に行きます」
「ハイ!広場の向かいの教会でよろしいですか?」
「他にどこかあるのです?」
「ございません」
「よろしい、それではお触れを出しなさい、三十分後に伺います」
「畏まりました」
ゆえに命令にも疑問は抱かない。師匠たる歌姫シルヴァーナの意向がすべてだ。
たとえシルヴァーナの全盛が過ぎていようとも、己に正直であるがために権威が失墜していようとも、すでに過去の人と言われていようとも、アンナにとっては絶対無二の存在であり、心のよりどころだった。
予告した三十分後にシルヴァーナは教会の門前に立つ。
アンナは門前のシルヴァーナに近付いて一礼して、聖堂の中に導く。
夕刻の教会は薄暗く、熱心な信者が二、三人祈りを捧げているだけでしんと静まり返っていた。
靴音を響かせてシルヴァーナが聖堂中央の通路を進み、適当な所で席に着く。アンナは静かにその横に座り、シルヴァーナの祈りをじっと眺める。
時間にして十分程だろうか、シルヴァーナは立ち上がると、戻りますと短く言って、元来た通路を引き返す。
アンナもその露払いを行いながら、聖堂を後にした。
異変は道路に出る前の門柱の所で起こっていた。光る水色の幕の様なものが門柱の間に出現し、異国の文字のようなものが時折流れては消える。
それを見た通行人が騒いでいて、二人が聖堂から外に出た時には、門柱の前の道路に周囲の建物からわらわらと人が集まり始めている所だった。
誰もが不思議そうにその光る幕を眺め、遠巻きに人だかりを作りながらこの光景から目が離せないでいる。
「先生、何だか様子が変です少し様子を……って先生?」
「戻ると私は言いました」
「し、しかし……」
シルヴァーナはアンナの言葉に耳を傾ける事すらせず、どんどん光の幕が横たわる門柱に近付く。
「おいあんた、危ないぞ!」
通りにいた仕事帰りと思しき工員が何事もないかのようにやって来るシルヴァーナに警告した。
しかしシルヴァーナは眉一つ動かさずに、ついに光る幕に接触する。
途端に光る幕は消え去り、また元のように門扉の無い教会の入り口の門柱に戻る。
その場をどよめきが覆い、驚きの表情を浮かべてシルヴァーナを見遣る人々は、尚もまっすぐ歩んでくる彼女に声をかける事も出来ず、人の輪は割れて劇場に向けて道が出来る。
シルヴァーナとアンナが劇場の中に姿を消した後、ようやく集まった人々は目の前で起こった出来事が何だったのか話し始め、当然ながら何の結論も出ずに興奮と憶測だけが飛び交う。
そこに通行を妨害されて怒った御者が群衆に怒鳴り散らし、話を邪魔された人々の怒りを買って喧嘩になる――――
それが開演一時間前に起こった出来事。しかしその奇跡の目撃者は、劇場の大ホールに集まった千二百人に満たない人々にのみ許された。
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蒸気機関や大規模工場が出現し始めたこの地域で、シルヴァーナの住む国と北の隣国は炭鉱と鉄鉱山を巡って長い間争いを続けていた。
戦争のたびに国境線は入れ替わり、時には双方の国名や為政者がすげ替わって歴史を刻んできた。
騎士が戦場を駆け回り、歩兵が槍を煌めかせ、弓兵の放つ矢が降り注ぐ戦場は、機関銃が燎原を睨み、小銃が一兵卒にまで行き渡り、目まぐるしく射程を伸ばす長距離砲の出現により一変しつつあった。
戦死者数が動員兵力の一割となればひどい戦争と言われた時代は終わり、一会戦で三割方の兵士が死傷する、ひたすらに命の損耗を求める地獄の様相を見せつつある……
シルヴァーナの住む国も北の隣国も、日々の戦況や勝利のニュースに沸くより、積み上がる戦死者数や戦場帰りの廃人がもたらす社会的影響に戦慄した。
勇ましい言葉で戦場に送り出す為政者や新聞社に疑問を呈し、恋人や父親を失った家族の嘆きに人々は涙した。
両国は国論が二分し、継戦か休戦かで議論は沸騰する――――
そんな最中にも最前線で小規模な戦闘は繰り返され、互いに趨勢を決するべく準備を整えていく。
先に準備を整えて侵攻を開始したのは北の隣国だった。
準備砲撃は新型の長距離砲が威力を発揮し、シルヴァーナの住む国の兵士は突如降り注ぐ砲弾の雨に後方の陣地が晒される。
そこには物資の集積所と兵士の慰問所があった。
幸い弾薬集積所は砲撃を逃れたが、数日後に予定されていた一斉攻撃前の大規模な慰問イベントの会場を直撃。死体の残らない戦死者を大量に作り上げる事となる。
不幸にもその舞台に、大衆向けの歌劇でヒロインを演じていたシルヴァーナの孫娘も含まれていた…………
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歌姫シルヴァーナ・ラディーバ・デルバルがこれから上がる舞台は、戦闘の犠牲者の家族を慰問する事を目的とした演奏会だった。
主催者たる為政者が、国威発揚と国民の継戦意欲を繋ぎとめる色合いの濃い催しではある。だがしかし、家族や恋人、婚約者を失った人々への申し訳なさへの贖罪の意味合いがあるのも確かだった。
「先生、お客さんの入りは、……そこそこ、入っているようです」
「アンナ、誤魔化さずに正確なことを仰い。どうせ舞台に立てばわかる事です」
アンナは舞台袖でチケットの売れ行きを嘆く関係者や、オーケストラ参加者の諦めはじめた態度、そして他人事を決め込む合唱団と思しき人たちの姿を見ている。
真剣にこの演奏会を成功させようと思ってもいない人たちと、先生を同じ舞台に立たせたくないと思い、アンナはつい歯切れの悪い言葉を並べてしまっていた。
「申し訳ありません……席の埋まり具合は六割ほど。ですので大体千二百人弱と思われます」
「そう。そのうちご遺族の割合は?」
「推測ですが、八割ほどかと。口惜しい限りですが、まともにチケットを購入した観客は席数からすれば一割程度と思います」
「上々ね。盛りも過ぎた出涸らしの歌姫、おそらくチケットを買って入ったお客様の半分は冷やかしか、面白おかしく伝聞を書き立てるための記者や関係者でしょうね」
アンナが敢えて言わずにいた厳しい現実をシルヴァーナが把握し、既に受け入れている事に悲しくなる。
「こんな事が……あって良いのでしょうか?歌姫シルヴァーナの十二年ぶりの舞台ですよ?」
「アンナ、私たちの舞台に実績や名誉は何の役にも立ちませんよ。指揮者の横で舞台に立って、歌い出すまではこれまでの全てを懸けて準備して、歌い切った後はすべての批判をも受け取らなければならない。舞台を任される立場とは、そういうものです」
「しかし……先生はまだ終わった歌い手ではありません!評価にせよ批判にせよ、まず聞いてから行うべきではないですか!」
「聞くに値しない音楽を伝聞と紙面で表現しようとする輩なんて、昔からどこにでもいるのです。そもそもアンナ、今回の舞台、あなたは一体だれのために用意されていると思っているの?」
「それは……先の戦闘で家族を失った人たちのため……です」
「そう。もしかしたらご遺族にも不本意に参加している人もいるかもしれません。けれど、ご遺族の皆さんの救済に少しでもなるなら、この舞台の意義は十二分にあるのです。正直私は、ご遺族以外の方々のために歌うつもりは元々ないのです……」
「先生……」
それは、アンナにとっても納得のできる舞台に立つ理由だった。
息子から絶縁状を叩きつけられたシルヴァーナが天涯孤独のまま老境に差し掛かり、ほぼ引退を決めた際に目の前に現れたのが孫娘だった。
彼女はシルヴァーナの心の扉を強引にこじ開け、もう弟子を取らないという言葉を公言していたのを翻意させた存在だった。
孫娘はまた、アンナの姉弟子にあたる。
アンナがシルヴァーナの元に押しかけ弟子入りをしたのちの二年間は、この気さくで自由人な姉弟子に散々世話になった。
孫娘は恐ろしく気難しいシルヴァーナをいなし、仏頂面がトレードマークのシルヴァーナに度々愛らしい笑顔を浮かべさせた。それは家族や身内だからという範疇を超えた人間力のなせる業だったと、アンナは今でも思っている。
楽屋で淡々と準備を重ねるシルヴァーナを、アンナは献身的に支える。
進行係がオーケストラと合唱団がステージに上がった事を知らせに来た。
ご準備お願いしますという言葉にシルヴァーナは立ち上がり、衣装の最終調整を終えると、先導をするようにアンナに目線で促す。
二人は舞台袖に移動し、これから指揮台に向かう指揮者に面と向かう。
「私がまとめるから、ご遺族のために思い切りやってらっしゃい」
自信満々に言い切るシルヴァーナ。
ソプラノののソロがシルヴァーナと知った時点でやる気を半ば失っていた指揮者は、リハーサルの時と別人の、全盛期もかくやというシルヴァーナの醸し出すエネルギーに当てられてこくこくと頷く。
促されて舞台に歩み出した指揮者の背中を眺め、シルヴァーナはこの舞台で全力を出すべく、精神の集中に入った――――
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歌姫シルヴァーナ・ラディーバ・デルバルの伝説の始まりは、王都のどこにでもある大衆酒場からだった。
14歳から店の看板娘として客席の間を駆け回り、客の求めに応じて流行りの歌や労働歌を歌ったりしていた。
ある日噂を聞きつけて酒場にやって来た舞台監督の目に留まり、大衆向けの歌劇で端役を得て初舞台に立つ。
その後も順調にキャリアを積み、大衆演劇の主役はオペラの舞台に進出し、歌唱力に磨きをかけてやがてソプラノ歌手としてその美声を響かせ、観客全員のスタンディングオベーションを受けるほどとなった。
全盛期には幾度となく海外公演にも招待され、知名度は国際的なものとなる。
世紀の歌姫としての地位と名誉をほしいままにした歌姫シルヴァーナ、私生活も派手でセンセーショナルな浮名をいくつも流す。
高名なオペラ俳優、パトロンになった飛ぶ鳥を落とす勢いの商会の会長、新進気鋭の画家や国内外の王侯貴族――――
節操がないとか歌が上手いだけのアバズレだとか言った誹謗中傷も多々あったが、浮名の多さのわりに特定の誰かと付き合う事はせず、生涯独身を通してきた。
彼女曰く、所詮成り上がりの庶民風情に、高名な方々の振る舞いを真似できる筈もないと常々言っていたくらいには、その思考は冷めていたようだ。
そんな彼女がしばらく舞台から遠ざかっていたと思ったら、復帰の日に乳飲み子を抱えて劇場に現れたため、関係者は天地をひっくり返したかのような大騒ぎとなった。
シルヴァーナは父親については黙して一切語らなかったため、当時は新聞記者などが父親探しを躍起になって行う事となった。
幸いにもシルヴァーナは沈黙を守り通し、追求は彼女の望みどおりに父親の存在に辿り着く事無く終わる。
不幸にも息子はどこに行っても好奇の目に晒され、同年代からも距離を置かれて孤独に沈んだ。
彼の不幸はそれに留まらず、学校でいじめを受けるなど散々な幼少期から少年期を過ごす羽目になった。
成人してとある地方都市の役人の職を得た息子は、それまでの恨みつらみをシルヴァーナにぶつけ、親子の縁を切る事を一方的に彼女に告げた。
シリヴァーナは一言、
「ああ、そう」
と言ったきりで、その態度に絶句する息子を一瞥くれることなく、次の舞台に備えて譜面読みを続行した。
以来彼女は、息子と会話どころか事務的な手紙のやり取りすらせずに、長い間音信不通となる――――
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