天恵の門
夕凪沖見
第1章 ローラン・ユイマース
第1話
雨が二十日以上も降り続き、先ほどまでの小雨がまた激しさを増す。
私は限界近い川の水嵩を眺め、急いで館に引き返した。激しい流れが恐怖をもたらす。恐らくこの一雨で、領地の収穫の半ばを賄うこの近辺の畑を吞み込んでしまうだろう。
「父上、堤防はもうもちません。おそらくこの雨で……」
「そうか、確認ご苦労だった。危ない真似をさせてすまなかったな」
「いえ、父上に何かあればそれこそここは終わりです」
「ハハハ、しっかり者のローランが居てくれれば何の問題もないよ」
「そんなことは、……ありませんよ」
まったく、父上も私のことを買いかぶりすぎる。
たかが一地方の男爵に過ぎないのに、コツコツと暴れ川に堤防を築き、水はけの悪い湿地を畑に変え、橋を架けて隣接する他領との道を開いてきた。
領民に慕われ王家からの覚えもめでたい、そんな尊敬する父上に替わるほどの実績も実力もまだ私は持ち合わせてなどいない。
だが、その父上が心血注いで築き上げた自慢の領地は、今まさに失われようとしている。
すでに館には麓や近隣の集落から逃げる事の出来た避難民が蝟集している。
みな一様に昏い顔をして、無気力に落ちてくる雨を眺め、雨音に心を奪われていた。
「あああっ!堤防が切れたぁっ!」
物見の塔にいた家令が悲痛な叫び声をあげる。
父上はその声を聴きつつじっと麓を見て、あふれ出した水がみるみる畑や集落を呑み込むさまを眺めていた。
長い時間をかけて作り上げていった土地を、濁流が容赦なく蹂躙してゆく。
家屋がきしむ音と共に埃を舞い上げて流される。
私の目の前の子供が、食い入る様にそれを眺めて掴んでいた母親の服の裾をぎゅうっと握りしめる。
悔しさに嗚咽を漏らす男の背を、弟が優しく摩っている。
――――それがこの年の夏、収穫前に私の領地で起こった出来事だった。
◆
「え……どういうことですか?婚約の解消って……」
「先ほどエレナ嬢から文が来た。やはりというか、隣もうちと同じく大変な状態らしい。……ローランも一通り目を通しておいてくれ」
「この雨で橋が流されて中々確認にも行けませんでしたが……ひどいのですか?」
受け取った手紙の見慣れた流麗な文字を目で追いつつ父上に聞いた。
「あそこはまだ領内の改善を始めたばかりだったからな。畑や家屋だけでなく、領民も山崩れや洪水で犠牲者が出たようだ」
父上の功績は国王にも認められたものだったため、領地経営に熱心な近隣の領主はたびたび父上の所を訪ね、色々なアドバイスや指導を父上は無償でしていた。
その中でカミロ男爵は北に接する地の領主であり、自分の領地をどうにかしたいと父上の所にも頻繁に通っていた。
男爵は父上と年が近いこともあり、ずいぶん気安い関係に見えた。
領地が隣同士ということで、今後も関係を強固にしていきたい思惑も大いにあっただろう。カミロ男爵の申し出もあり、一人娘エレナと私は婚約者としてもう二年の月日を過ごしている。
今回の事がなければ、収穫が終わった後に婚礼を行うべく準備をしていたところだった。それだけにエレナからの申し出は信じる事が出来ずに手紙の文字を追う。
手紙には領内の被害が大きすぎて立て直しに莫大な費用と時間を要するとあった。結婚式の資金や持参金の用立てはおろか、借金付きで嫁入りする羽目になりかねないため、婚約の解消を申し出るという内容だった。
「被害を受けて苦しいのはこちらも同じだし、式もなしで身一つで来てくれるならそれでいいのだが……親から見ても二人は仲よさそうに見えたし、な」
「ええ、家同士の繋がりの為ではありましたが、私もエレナとは良い関係だった……と、思います」
若干嘘を混ぜながら、そう答えた。
実のところ仲良くどころではなく、私の方がエレナにベタ惚れしていた。
父上には私が照れて少々素っ気ない言い方をしているのはお見通しだろうが、胡麻化さずにはいられなかった。
「そうだよな。カミロ男爵ではなくエレナ嬢が申し出てきたというのも気になる。婚約解消はエレナにとっても一大事。いくら家同士の事とはいえ、子煩悩な男爵との何のやり取りもなくいきなり解消の申し出だ。私もいろいろ探ってみるが、こちらに言えない事情がある可能性が高い」
その言葉に何か自分の中で引っ掛かりが生じる。ざらついた違和感は、言葉にしないとどうにも収まりがつきそうになかった。
「あの、父上、……今ふと思い出したのですが」
「うん?」
「今年の初めにエレナと話していた時、商人から融資を受ける事が出来たので、領内の開発がずいぶん早く進みそうだと聞いた記憶が……」
「ふぅむ……男爵にはまだ手探りの段階では急がないほうがいいと伝えたつもりなんだが……結果が欲しくて焦っていたのか?」
その後も二人で色々話を続けたが、不確かな情報に推測を重ねる愚に父上が気付き、この話はいったんお互いに裏取りをすることにした。
ただ、交通も遮断されているうえ、被災者の救済と支援の受け入れ、領内の復興と同時進行の片手間では後手に回ってしまったのは否めない。
焦る気持ちを必死で抑え、寝る間を惜しんでカミロ男爵やその領地の状況把握をしようと動き続けた。
しかし、私が手をこまねいているうちに事態は最悪の方向に転がり続ける。
しかもその結末を知ったのは、もうどうしようもなくなった後だった。
◆
「結局、世の中は金、つまりはそういうことだと、私は思い知らされました」
力なくそう言った私を、ラサ教区長がいつもと変わらぬ優しい瞳で見つめ続けている。
三年前から身を置く修道院で、夜に時間をくれと言われて尋ねたラサ教区長の執務室には、寄進されたワインとチーズが並べられていた。
酒にはとんと弱くて一人では手に余ると照れる教区長に、ご相伴に預かりますと言いつつ向かいのソファに座る。
他愛もない話をしていた筈だが、話題はいつの間に私がどうして修道士になったのかという身の上話になっていた。
必然的に思い出したくもないあの大水害の話になる。
あの頃自領の被害把握と対応に追われ、カミロ男爵領の状況が判明したのは被災から二カ月も経った後だった。
その被災状況は惨憺たるものだ。
カミロ男爵の館は土石流に吞まれて一家は行方不明。たまたま最寄りの集落に避難の呼びかけに行っていたエレナだけが生き残っていた。
主だった領内の集落や農地は八割壊滅し、領民も食い詰めて逃亡が相次ぎ半減という、絶望的な状況だったと聞く。
周囲の領地も似たり寄ったりで、流民化したこのあたり一帯の領民は、王都や主だった都市に流れ込み、物価の高騰と治安の悪化を招いていた。
辛うじて領民を保護できただけの父上の領地が奇跡と言われ、近隣の他領は王宮が直々に陣頭指揮を執って諸侯を動かす程の惨状だった。
カミロ男爵領では、残った領民も収穫前の被災という最悪のタイミングだったため、その後も慢性的な飢餓状態に直面する。その上間引きや身売りが横行していると噂になっていた。
「そこに現れたのがアナン商会のラザロ氏でした」
炎が揺らぐ燭台の向こうで、ラサ教区長がワイングラスをゆっくり傾けている。考えてみればこんな風に自分の身の上話をするのは初めてだ。
未曽有の大洪水からもう四年。行方知れずになったエレナをあきらめて一年が経つ。
「彼は当時飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していた商会の長で、貴族たちとの取引を増やすために爵位を買える貴族を探していたようです。ただ当初は、商会にとってカミロ男爵は有望な投資先程度の認識でしたが、不幸にも領地は壊滅、生き残ったのはエレナだけ。そこでエレナに領地の立て直しと融資返済の免除を餌に、結婚を迫ったのです」
「エレナさんは、それを受け入れたと」
「一方的な婚約解消の申し出は、領地と領民のため。相談できる人もなく、支援の手も届かず絶望した中で、縋りつけるただ一つの希望に見えたのでしょう。家族の死を知らせれば婚約解消も受け入れてもらえないと思い、あえて何も触れなかったようです」
「世知辛い話ですが、領民を窮地から救うには、背に腹は替えられなかったと」
「……優しい人でしたから、飢え死にしそうな領民を黙って見殺しになんかできなかったのでしょう。もちろん私もかつて貴族の端くれでしたから、その選択も仕方がないと思えました」
そこまで話して私もワイングラスを手に取り、半ばまで注がれた赤い液体を一気に飲み干す。
そう、婚約破棄も金のための婚姻も、どこにでも転がっている悲話でしかない。未だに私は自分にそう言い聞かせている……
ラサ教区長はずっと変わらず静かな瞳でじっと私を見続け、話の続きを待ってくれていた。
「実際食糧支援や応急の復旧なども被災地の中では早かった。それで救われた命も多かったでしょう。――――エレナは……心労が祟ったとかで一年もせずに亡くなったと聞かされました」
未だにその死の真相は知る事が出来ない。打算と利害だけの結婚で、お飾りとして何もさせてもらえず、無力さを噛みしめるだけだったと理解はできる。
領民の恨みつらみも理不尽に向かっていっただろう。現に領地入りしたラザロ氏は、炊き出しや見舞金のバラマキで神のごとく領地で崇められていたとも聞く。
…………最初の一カ月は。
その後は権力を握ってはいけない人間がトップに立つとどうなるかの典型のような展開だった。
領民は災害の復旧名目でただ働きさせられ、ぎりぎり飢えない程度の食事で逃げ出すこともできない状況に置かれた。
村長クラスのまとめ役以外はほぼ土地を取り上げられ、土地の風土にそぐわない換金作物を荒れた土地で無理矢理育てさせられた。
当然碌に何も育たず逃亡する農民も多く出たが、アナン商会の荒くれ者にほとんどが捕まったようだ。
国の捜査官と教会の審問官が踏み込んだ時、路上には片付けられない遺体が放置され、男女の区別もつかない幽鬼のごとく彷徨うやせこけた領民しか視界に入らなかったと言う。
「エレナさんは、その間ただ見続けるしかできなかったのですね。きっと無念だったでしょう」
「それが……、いつエレナが死んだのか結局判らずじまいなのです。病死したという割に墓もなく、近くの森に遺体は捨てたといわれましたが、探しても何も出てこない。ラザロ氏の証言も二転三転して、信憑性がまるでなかった。そのため山積みされた白骨遺体のどこかにいるのだろうという事になり、それ以上の捜査は打ち切られました」
「彼の罪状は領民の虐待や王城での贈収賄、経理の不正など、他の罪状で極刑と判断されてそれ以上は追及されなかったのですね」
「そのようです。辛うじて逃げ出した農民の証言から教会と国が動き、今は教会領となったのはご存じの通りです」
「顛末はわかりました。それで話はまた戻ってしまいますが、ローラン・ユイマース修道士はなぜ教会に?」
私はしばらく言葉を選ぶ。この問いを投げかけられて始めた身の上話だったが、なぜ自分でもここまで話してしまったのかよく解っていない。
「出来たかもしれない事を……何もしなかった、できなかった罪悪感に、耐えられなくなったのです」
婚約解消に納得できない思いを抱えたまま、領地の復旧に父上と共に勤しんだ。エレナが死んだと聞かされてからは尚更だった。
災害という理不尽と、何の手助けも出来なかった無力さに打ちひしがれ、抗うように領地の経営を父上から受け継ごうと藻掻いた。その結果ある日突然倒れて寝込み、次いで襲った無気力にどうしようもなく館に引き篭もる事となった。
「それがひと月位ならみんな理解は示してくれましたが、一年ともなると誰も許してくれはしません。許せないというのは……私も含めてです」
実際父上も辛抱強く私の回復を待ってくれていた。しかし一年近くになると、家族はもとより領民からも煙たがられることになる。
「幸い弟がいましたので、まだまだ苦しい領地の財政を考えると私があそこに居続けるのはもう無理だと思いました。だから……教会の扉を叩いたのです」
災害で行き場をなくして教会を頼る。これもまたありふれた話だろうと思う。
もっとも修道士になろうとした動機の一つに、領地の立て直しに教会からの無償の援助がかなりあったこともある。
教会も何がしかの思惑があるにせよ、それでも尚差し伸べられた手は本物の信仰の現れと思わせる、純粋な献身も確かにあった。実際、人々の先頭に立って復旧を手伝う修道士たちのその姿には、心打たれるものがあった。
「それに、亡くなったエレナには……弔う人もいない。それは……あまりに……不憫ではないですか」
共に祈り、共に働いた教会関係者とは、思いを共有する事も出来た。それが私には救済にもなった。けれど、エレナは……
感極まってしまった私の前の空いたグラスに、ラサ教区長は静かにワインを注ぐ。
「エレナは……領民思いの優しい人でした。――――なのに領民にも恨まれ、だれもそれを訂正もしない。『カミロの吸血鬼』。それがエレナのあそこでの二つ名です。噂通りの所業など、出来る筈もない優しい人なのに……領民のために自身の全てを諦められる……そんな人のはずなんです。そんな人の……人のために動くことのできる優しい魂を、誰も救わないのは、それは、人の起こす理不尽ではないですか……」
そのまま絶句する私を何も言わずにラサ教区長は見つめ、それからボトルが空になるまでの数時間、無言の酒盛りが続くこととなった。
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