11章 ジョセフィーヌ
朝の光が街を包む中、エリスはノーブラで家を出た。その胸には、自らの信念を貫こうとする強い意志が宿っていた。許可証制度の矛盾を肌で感じ、彼女は一人でそれに抗っていた。しかし、街中を歩いていると、男性たちの視線が鋭く突き刺さるようだった。
「おい、その女!」
突然の声に足を止めると、数人の男たちが近寄ってきた。その顔には敵意と好奇心が混じり、彼女を品定めするような目で見ていた。
「無許可でブラジャーを隠し持っているだろう!」
エリスは胸を張って毅然と答えた。
「私は何も隠してなんかいません!」
しかし、男たちは聞き入れる様子もなく、手荷物や服の中に隠し持っているのではないかと詰め寄ってきた。
「お待ちください!」
その声とともに、エリスの母ロザリーが駆け寄ってきた。手には一枚の紙が握られている。
「ここに許可証がございます!」
男たちはそれを確認すると、不満げに顔をしかめたが、それ以上は何も言わず、エリスを解放した。
「助かったわ……。」
自宅に戻ると、エリスは母ロザリーに向き直った。
「どうして勝手に許可証なんか買ったの?」
ロザリーは落ち着いた声で答えた。
「あなたを守るためよ。これがなければ、次は――あの装置の前に立たされる。」
「でも、それおかしいわ。ブラをしていなければ、許可証がなくても違反じゃないでしょう?
ノーブラなら、処罰されないはずじゃない。」
ロザリーは、少し間を置いてから答えた。
「……ノーブラでも、そう扱われないことがあるの。」
「どういうこと?」
「その場で……用意されることがあるのよ。」
ロザリーは視線を逸らした。
「着けていた、って。これが証拠だって。」
「それって……」
「私も詳しくは知らない。でも許可証がないと、そういう話にされる。
持っていれば、されないこともある。それだけよ。」
「でも、許可証を買うなんて、それはこの制度を認めることになるじゃない!」
「仕方がないこともあるのよ。私たちが貴族やあの男性たちに逆らえると思う?エリス、この家は彼らの注文で成り立っているのよ。」
エリスは何も言えず、うつむいた。母の言葉には反論できない現実があった。考えた末、彼女は小さく頷いた。
「わかった。ノーブラは続けるけど……許可証は持ち歩く。」
ロザリーは安堵の笑みを浮かべた。
それから数日後、店を閉める支度をしていると、戸口に人影が立った。
コレットだった。
「……あの噂、聞いた?」
エリスは一瞬、言葉に詰まった。
「噂? どんなことかしら?」
コレットは視線を落とし、ためらうように続けた。
「友達がね、仕事帰りに男たちに引き留められたの、ブラを隠してるって。
それで家までついてこられて…… 家にあるはずの無いブラジャーがあって……」
「どういうこと? 男たちがブラジャーを用意してたの?」
「たぶんそう、そしてそのブラジャーが……」
二人の間に沈黙が落ちた。
「うちで作られたものだっていうの? そんなことが……」
「私はわからないけど、町ではみんなそう言ってるから」
コレットはそれだけ言うと、それ以上踏み込まなかった。
エリスも問い返さなかった。言葉を重ねても、はっきりした答えが出てくる気がしなかったからだ。
しばらくして、コレットは店を後にした。
戸が閉まる音が、いつもより大きく響いたように感じられた。
エリスはその場に立ち尽くしたまま、作業台の端に置かれた布を見つめた。
いつもと同じ色、同じ手触り。
けれど、どこか距離を取るように、手を伸ばすことができなかった。
「……買い出しに行ってくるわ」
自分に言い聞かせるようにそう呟き、エリスは外套を羽織った。
店を出ると、午後の街は普段と変わらない顔をしていた。
人々は行き交い、店は開き、声もある。
そんな中、すれ違う女性たちが、ふと視線を逸らした。
中には、エリスの顔を確かめるように一瞬だけ見てから、足早に離れる者もいる。
「……」
呼び止められることはなかった。
ただ、声をかけられることもなかった。
エリスは何も言わず、歩調を落とさずに市場へ向かった。
市場の通りを抜けようとしたとき、
エリスの前を歩いていた女が、急に足を止めた。
誰も声を出さないまま、視線だけが同じ方向へ向いた。
通りの中央を、一人の少女が歩いてきていた。
上半身には、ブラジャーだけを身につけている。
胸を覆う布は整っているが、それ以外は何もない。
白い肩と腹部が、日差しの下で隠しようもなく露わになっていた。
少女は歩調を変えない。
背筋を伸ばし、顎を引き、前を見たまま進んでいる。
「許可証はあるのか?」
男性たちが集まり、彼女を取り囲んだ。しかし、少女は彼らをまっすぐ見返し、きっぱりと言った。
「そんなものはありません。」
その堂々とした態度に、男性たちは圧倒されながらも声を荒げた。
「それでは咲き誇る乙女で処罰することになるが、それでいいのか?」
「構いません。」
少女は迷いなく答え、自ら広場に向かって歩き出した。
広場では、咲き誇る乙女が待ち構えていた。男性たちは興奮を期待して集まってきたが、少女は威厳を保ち、手で胸を隠すこともなかった。その姿に、男性たちは困惑し、いつものような熱狂を見せることはなかった。
処罰が始まると、少女は毅然とした態度を崩さず、静かに処刑を受け入れた。そして、すべてが終わった後、彼女は人々に向かって声を上げた。
「私は許可証制度に反対します。この制度がどれほど矛盾に満ちているか、皆さんもわかっているはずです。私はこれからも許可証なしでブラをつけ続けます。何度処罰されても構いません。」
その言葉に、広場にいた女性たちから拍手が起こった。男性たちは気まずそうに下を向き、場を離れる者もいた。
エリスはその姿に感銘を受け、少女に駆け寄った。
「あなたの勇気に感動しました。素晴らしいです!」
少女は立ち止まり、エリスを見る。
視線は、顔に留まり、外套の留め具へ落ち、
そのまま一拍置いて戻ってきた。
「ありがとうございます」
短い返事だった。
少女は一応挨拶を返し、「ジョセフィーヌ」と名乗った。
「ブラジャー、よく売れているみたいですね」
そのジョセフィーヌは振り返らずに歩き去った。
エリスは、その場に残った。
ジョセフィーヌは広場を後にしたが、彼女の行動はやがて多くの女性たちに勇気を与え、「Sans-chemise(サン・シュミーズ)―シャツを持たない者」として語り継がれることになる。
ジョセフィーヌの背中が人波に消えたあと、エリスはしばらく、その場から動けなかった。
「――その場で……用意されることがあるのよ。」
母の声が、遅れて胸の奥に響いた。
「着けていた、って。これが証拠だって。」
あのときは、意味が分からなかった。
ノーブラなら大丈夫なはずだと、そう思っていた。
母の言葉が、頭の奥に残ったまま離れない。
エリスは歩きながら、それを何度も思い返した。
噂も、許可証も、今日の視線も――
どれも、そのままにしておける気がしなかった。
家に戻って、確かめなければならない。
■ 用語解説
・ジョセフィーヌ
対応する歴史上の人物
テロワーニュ・ド・メリクール
生没年:1762年〜1817年
国:フランス
時代:フランス革命期
区分:フランス革命期の人物
フランス革命期に活動した女性革命家。
民衆集会や街頭で積極的に発言し、
女性が政治に参加することを当然の権利として主張した。
革命初期には象徴的存在として注目されたが、
急進化する政治状況の中で次第に排除され、
最終的には社会的・精神的に追い詰められた。
ジャン=ポール・マラー
生没年:1743年〜1793年
国:フランス
時代:フランス革命期
区分:フランス革命期の人物
フランス革命期の医師・ジャーナリスト・政治活動家。
新聞『人民の友』を通じて、
権力者・裏切り者・特権階級を激しく告発した。
理論家というよりも、
民衆の怒りや不満を言語化し、煽動力を持った人物であり、
急進的世論形成に大きな影響を与えた。
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
生没年:1763年〜1814年
国:フランス
時代:フランス革命期〜ナポレオン時代
区分:フランス革命後の人物
ナポレオン・ボナパルトの最初の妻。
革命期を生き延び、
恐怖政治の時代を経たのち、
帝政期には皇后として政治権力の中心に近い位置に立った。
自ら権力を行使する立場ではなかったが、
人脈・調停・感情労働を通じて影響力を持ち、
革命後の新体制に適応した女性の代表例とされる。
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