桜と橘
Rin
プロローグ: 少年とチンピラ
夏。とある街では猛暑日となり、最高気温を叩き出した。その街の外れ、朝から蝉が大合唱して眠れず、茹だるような暑さに額から汗を滲ませて若い男は布団の上でごろんと体勢を変える。扇風機は申し訳程度にしか動かず、クーラーなんて上等な物はあるはずもなく、組で金庫番していた方がよっぽど涼しくて良いよなと、若干ハタチになったばかりの男は思った。寝苦しさに苛立ちを感じていると枕元に置いてあった携帯電話が騒がしく鳴る。男は名前を確認してすぐに応答した。
「はい」
「おう。俺だ、その後はどうだ?」
「あー…いえ、特に変わった様子はありません」
「そうか。元気にしてんのか?」
「今日はまだ見かけてませんが、またひとりで遊んでるのかなと。ただやはり虐待は疑われるかと思います…」
「そうか…」
「桑崎さん、本当に会わないンすか」
「会えねぇよ。俺には家族がいるンだ。あいつも俺に言わなかったってのは、ヤクザの子供にしたくなかったからだろ。そのガキも俺がいない方が良い。…けど、参ったな。カシラの事だ。何かあってからじゃ遅い。些細な変化でも、気付いた事があったらすぐに知らせてくれ」
「分かりました。若頭が子供を脅しに使うなんて俺はまだ信じられませんよ」
「あの人はヤクザらしいヤクザだよ。お前も気をつけろ。真部さんにも気を付けるよう伝えてくれ」
「はい、分かりました」
「じゃぁ、また後でな」
「はい、また」
男は電話を切ると溜息をひとつつき、脇腹をぽりぽりと掻きながら携帯電話をちゃぶ台の上に置いた。厄介な事に巻き込まれてしまったが、この問題を解決できれば親父に対する俺の信頼度も上がるよなと考えながら、うんと伸びをした。怖がっていても何も始まらない。男はヨシッと気合いを入れて布団から抜け出したが、部屋はあまりにも蒸し暑く、男のやる気は一気に削がれた。地球は温暖化とやらで消滅するんじゃないかな。
男はヨレた白いタンクトップを着直し、洗面台でしゃこしゃこと歯を磨く。舌先のピアスを口の中で転がしながらガラゴロとうがいをした。男の背中には派手な刺青が入っている。背中一面はもちろん、臀部から足首、上半身は胸割七分、誰がどう見てもカタギの人間ではないと一発で分かるような華美でギラギラとした刺青を入れたい、と思ってはいるが若い男には金がないので背中に立派な騎龍観音の筋彫りだけが入っていた。騎龍観音の斜め上、左の肩甲骨の上には大きな三日月が描かれ、男はそれをとても気に入っている。男が歯を磨き終え、顔を洗い、なんとなーく目が覚めたなと思っていると、外でガラガラと何かを引くような騒がしい音に気が付いた。
ガラガラガラ。音は数秒止まり、またガラガラガラ。
よくまぁ飽きないもんだよなと男はそっとドアを開けた。ボロアパートの一階、数週間前に越して来た隣のガキんちょが音の正体である。誰かのお下がりか、貰ったのか、盗んだのか、ひと世代前の幼児向けアニメが車体に描かれているコンビカーに、そのガキんちょは一日中乗っている。このアパートは101から105まで五部屋が並んでおり、コンクリートの玄関ポーチの端から端までをガキんちょは足で蹴っては進んでを繰り返している。来る日も来る日も毎日飽きもせず、延々と乗り回している。地面を蹴るガキんちょの足には青痣や傷があり、いつも何処かしらを怪我していた。誰が見ても虐待だった。面倒事は御免だとアパートの住人は触れたがらない。まぁ、俺も面倒事は御免だし、俺が口を出したところで何処の誰が言ってんだと、逆に事態をややこしくしそうだし、見て見ぬふりをすべきなんだろうけどな、と男は頭を掻く。
「あ! にぃにだ」
「よう」
ドアを開けた男の存在にガキんちょはすぐに気付いて、コンビカーを蹴りながら駆け寄って来た。今日も腹を空かせているのだろう、男がガキんちょに餌付けをしてもう一週間が経つ。母親の顔を見た事がなく、餌付けして特に何も言われない。勝手に人様の子供に飯をあげたりして、なんて近所で言われているかもしれないが知った事じゃない。だってこの細くてボロボロなガキんちょ、どうやら4歳になるらしい。なのに小さなコンビカーに乗れるくらい小さくて細くて、オマケにずっと腹を空かせてる。だったら餌付けするだろ。そう男は言い訳を考えながら冷蔵庫を開けて、野菜のサンドイッチとホイップクリームがたっぷり入った菓子パンを手に取った。
「どっちが良い?」
玄関先でしゃがみこんで目線をガキんちょに合わせる。ガキんちょはうーんと悩んだ挙句、菓子パンを選んだ。
「じゃぁ食うか」
「ありがとう、にぃに」
ガキんちょは鼻を垂らして笑っている。男は玄関に置いてあったティッシュを数枚取って鼻を拭いてやりながら、「部屋、入る?」と訊ねると、ガキんちょは首を横に振る。
「……入らない」
餌付けをするが警戒心があるのか、ガキんちょは男の部屋には入らなかった。
「いつも入らねぇよな。なんで?」
「だって、にぃにの部屋、タバコ…」
ごにょごにょと言葉は尻すぼみになっていったが、確かにタバコと答えた。そうか、原因はタバコかと男は顎を撫でる。
「タバコ臭い?」
ガキんちょはこくんと小さく頷く。男は部屋に入って窓を全開に開けると座布団を敷き、ちゃぶ台の上にオレンジジュースを置き、玄関のドアをストッパーで止めて風通しを良くして、再度、ガキんちょを見た。
「どう? 入る? オレンジジュースもあるよ」
ガキんちょは顔を輝かせるものだから男の頬はつい緩んだ。
「ありがと、にぃに! いただきます」
にへらと笑ってガキんちょは座布団にちょこんと座る。ふたりでちゃぶ台を囲み飯を食う。いつもは外にふたりで並んで食べていたがやはり室内は良い。炎天下の外にいたら食欲なんて失せてしまう。
「ごちそうさまでした」
「おう」
律儀に手を合わせるあたり、この子は良い子だと男は思った。
「そうだ、コレ、知ってる?」
組の連中が、ある男から借金の形に取り上げた古いスナックの店には無数のガラクタがあった。好きな物を持って行けとゴミ処理を頼まれた男は、埃の被ったポラロイドカメラだけを貰った。それをガキんちょに見せると、ガキんちょはふるふると首を横に振った。
「これは昔のカメラ。撮ってみようか」
ガキんちょはあまりよく分かってないようで小首を傾げた。そのガキんちょに向けてパシャリと一度シャッターを切る。ジーと機械音を立ててフィルムが一枚、ゆっくりと押し出された。
「少し待ってろよ」
ちゃぶ台にその一枚を置き、男は再度カメラを掲げるとガキんちょに近付いてニッと白い歯を見せる。カメラを自分達の方に向けてシャッターを一枚切った。ふたりが並んだフィルムもゆっくりと押し出され、ちゃぶ台に並べて色が浮き出るのを待った。しばらくして浮き上がった写真を見てガキんちょは目を丸くして驚いた。
「すごい! に、にぃに、写真だ!」
「二枚共あげる」
そう差し出すと、ガキんちょは自分だけが映った一枚は気に食わなかったのだろう、「いらない」と見向きもしなかった。ふたり並んだ写真は大事そうに握りしめ、じっと眺めている。ガキんちょが嬉しそうにするから男も嬉しくなった。頭をポンと撫でてやるとガキんちょは更に表情を緩め、「ありがと、にぃに」とへらへらとまた笑った。
「明日も来る?」
「うん!」
男はガキんちょの笑顔を見て、禁煙しようと思った。ガキんちょは長居せず、外へまた遊びに出た。とは言え、あのコンビカーをひとりで蹴って遊んでいるだけなのだが。
数日後、男は初めて母親を見た。この人が桑崎さんの…。へぇ、随分と若いな。
久しぶりに早く仕事を上がり、酒をしこたま買い込んだ日だった。母親は玄関先で中年男を見送っている最中だった。中年男は恰幅の良い男で成金な雰囲気が漂っている。たぶん堅気。だが胡散臭い佇まいである。母親はというと派手なメイクに派手なワインレッドのネグリジェを着ていた。歳は自分より少し上くらいだろう。
ガキんちょは母親と男の情事の最中、追い出されていたらしく、玄関ポーチでひとり画用紙に絵を描いていた。家から漏れる灯りだけが頼りだったろうが、ガキんちょは文句ひとつ言わないらしい。母親は苛立ちを見せながらガキんちょの腕を引っ張るとそそくさと部屋に入れて鍵を閉めた。
なるほど、男は思った。邪魔なんだろうなぁ。
翌日、事件は起きた。朝方に帰って来てシャワーを浴びて寝る直前だった。ガシャンと何かが倒れる大きな音が隣から聞こえて男は片眉を上げる。次の瞬間にはガキんちょの悲鳴のような泣き叫ぶ声が聞こえて、只事ではないと男は一目散に部屋を飛び出した。ドアには鍵が掛けられていた。ドンドンとドアを叩くがガキんちょの泣き叫ぶ声だけが聞こえる。焦りと同時に腑が煮えくり返り、あの母親は何をしてんだと、気付けばドアを蹴破っていた。
入ってすぐキッチンがある。ガキんちょはそこにいた。見てすぐに状況を理解した。鍋が床に転がり、コンロの火は点けっ放し、辺りは湯が撒かれてガキんちょは服の上からそれを被ったらしい。部屋の間取りは男の部屋と逆だった。コンロの火を止め、泣き叫ぶガキんちょを抱えて風呂場へ連れて行き、冷水を服の上から掛け続ける。救急車を呼ばなければならない。どれくらいの温度の湯だったのか、どれくらい皮膚にダメージを与えているのか、病院に急がないと。男はそうあたふたしていると、のそっと誰かが風呂場へ来て自分を見下ろしている事に気が付いた。
「誰だお前」
中年男が上裸でそこに突っ立っていた。ガキんちょが泣いている事に対して疑問に思わないのかと男の眉間に皺が寄る。中年男の目は据わっているし、変な臭いがした。嗅いだことのある臭いだった。その正体に検討がつくと呆れて更に苛立った。
「おっさん、救急車」
「あ?」
「見りゃ分かンだろ。この子、火傷したんだ。救急…」
まで言いかけて突然顔面を蹴られそうになる。あまりにも突然で驚きながらも身を翻したが、意味が分からなかった。ヤクがキまっている中年男にはきっと何を言っても無駄で、男は諦めて水を出しっ放しにしたまま、中年男を見て顎を狙った。あっさりと中年男は脳を揺らされ倒れたが、それでも苛立ちは治らなかった。殴り続けてガキんちょの泣き声でハッと我に返った時、中年男の鼻は折れ、瞼は切れて血だらけで、頬も殴りすぎてグダグダになっていた。
ふらりと立ち上がりながら、ふと寝室を見る。母親は脱力しきって焦点の合っていない瞳を男に向けた。母親は全く使い物にならない。子供が火傷を負ったというのに…。これは育児放棄にもほどがある。
子供の父親が極道だから会わせたくない、極道の子供にしたくない、理由は分かるが、これじゃぁあんまりだ。桑崎さんも桑崎さんだ。自分が極道だからという事よりも、自分に家庭があるからこの子の存在を認めるわけにはいかないってのが本音だろ。この子の存在をつい先日知った桑崎さんに、この子を引き取ってほしいとは言えないけれど、それじゃぁこの子が不憫すぎる。男は悔しくなって目に涙を浮かべながら急いで自分の部屋に戻り、携帯を取って救急に電話をした。だがもれなく警察も来て大騒ぎとなった。
数時間後、男は警察署で取り調べを受けていた。悪いのはあいつらだろ、と男は思ったが堅気を殴って半殺しにしたヤクザに警察の目は冷ややかだった。これだからヤクザは、が常套句の警官に心底腹を立てるが、どうしようもない事だった。
その後、あの母親も中年男も揃って逮捕されたらしい。男も過剰防衛だとしょっ引かれそうになったが何とか事なきを得た。身元引受人が男の監視を命じられ、男は不服ながらも身元引受人となる由賀組組長に電話を掛けて、無事に警察署を後にした。車内、男はふと思った。あのガキんちょ、母親がしょっ引かれたのだから、これからはどうなってしまうのだろうか。桑崎さんだってあのガキんちょは引き取らないだろうし。男は途端に不安になった。
「あいつ親、いないんですよ。女がしょっ引かれたんでひとりなんです。あのガキんちょには誰もいないんすよ。だから俺、時間がある時に会いたいんすよ。養護施設に入れられるんすよね? 知らない人ばっかで心細いと思うんです。あのガキんちょの居場所って教えてもらえないのでしょうか。俺、差し入れしたいンすよ。あいつ、ホイップクリームが入ったパンが好きで…」
男はそう焦りながら早口で言うと、男の親代わりである組長が男を宥めて諭した。
「良いか、お前はもう関わっちゃならないよ。日陰者は一生日陰だ。その子供にとって我々のような人間は関わらない方がいい。その子はいつか立派に日向を歩く。世界が違うんだ。もう関わっちゃならない、だから忘れなさい。良いね?」
組長の言う事は正しいのだと男も理解はしていた。ただなんだかとても寂しかった。悔しかった。自分みたいな者が関わったところであの子は幸せにはならないだろうから、新しい場所で幸せに生きる事をただ願う事しかできない非力さと不甲斐なさを恨むしかなかった。自分が選んだ道はそういう道なんだと、男は言い聞かせてガキんちょとの思い出を消し去った。
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