第5話 小百合寮

 今日は小百合寮に藤城小百合ふじしろさゆりの同級生だった及川頼子おいかわよりこたち母娘がやって来る。

 小百合寮とは芸妓げいこ藤城小百合ふじしろさゆりが師匠から独立した時に始めた置屋おきやで、旅館だった建物を借りて経営している。かつては弟子を受け入れていたこともあった。

 小百合寮では今までに二人の芸妓を住まわせていたことがあった。彼女らは結婚して芸妓をやめ、小百合寮を出て行った。小百合の一人息子の皐月さつきには幼少期に同じ家で若い芸妓と暮らした日々が楽しい思い出となっている。

 小学6年生になった皐月にとって、頼子が連れてくる女子高生はあまりにも刺激的だ。

 皐月は駅の近くに住んでいるので、普段から近所の高校に通う女子高生を見慣れている。だが、これから初対面の女子高生と一緒に暮らすことになると、それは現実離れをしたラノベのような話だ。

 皐月は街で見かける女子高生をみんなかわいいと思っているけれど、本当にきれいな人があまりいないことも知っている。それなのに、なぜかこれから家やってに来る頼子の娘のことをアイドル級の美貌の持ち主だと妄想してしまう。


 母からは、使っている二部屋のうちの一部屋を掃除をして空けておけ、と命令されていた。その部屋を頼子の娘に使わせたいからだ。

 小百合寮は古い旅館だったので、部屋同士は襖一枚で隔てられているだけのものだ。皐月はいつも襖を開け放ち、二部屋を広々と使っていた。これからは二部屋を一部屋にまとめたので、物に圧迫されて狭くなってしまう。

 だが、皐月はそれでも不思議と悪い気がしていない。それは自分のすぐ隣の部屋に女子高生が引っ越して来ることが楽しみだからだ。

 前に寿美すみという弟子が住み込んでいた頃は、よく寿美の部屋で遊んでもらっていた。寿美に甘えて寿美の布団にもぐり込んで一緒に寝させてもらったこともある。

 これから始まる新しい生活のことを考えながら部屋を片付けていると、寿美との楽しかった日々を思い出す。さすがに女子高生とそんな甘い状況になるとは期待はしていないが、寿美とその子を入れ替えた妄想が浮かんできてドキドキしてきた。


 頼子の娘のために譲ることになった部屋は、通りに面した日当たりのいい部屋だ。皐月が使う部屋は日当たりが悪く、そのことに不満がないわけではない。だが自分から身を引いて、新しい住人にいい部屋を譲ってあげたいという気持ちはある。

 ただ困るのは友だちが遊びに来た時だ。友だちはいつも、窓の外から大声で皐月の名前を呼ぶ。これからはそういう呼び方をされても、襖を閉めた奥の部屋にいては聞こえないかもしれない。

 部屋を片付け始め、テレビとゲームを皐月の部屋に移動させると、六畳間はギチギチに狭くなった。今までだと友だちが家に来た時は日当たりのいい部屋を好きなように使っていたが、これからはどうやって遊んだらいいのかわからない。もう家で友だちと遊ぶことはできないかもしれない。

 日常生活にも支障が出る。これからはテレビや音楽、ゲームを楽しみたいときにヘッドフォンをしなければならなくなる。防音のできない襖の部屋では音に対して配慮をしなければならず、今までの生活を続けると隣の部屋に音が漏れて迷惑を掛けてしまう。

 気を使うことが多くなりそうだ。皐月は思い描いていた期待が冷め始め、だんだん憂鬱になってきた。だが、それは引っ越してくる女子高生も同じなので、自分の方が気を使わなければならないと思った。


 昼ご飯を食べ終えた皐月は水着を持って家を出ようとしたところで小百合につかまった。

「ちょっとあんた、どこに行くの?」

「学校のプール」

「もうすぐ頼子が来るから家にいなさい」

「すぐに帰って来るからいいでしょ?」

 小百合は少し考えて、皐月の外出を許可した。部屋の片づけはちゃんとできているし、引っ越しの時に子どもにうろちょろされても邪魔になるだけだ。頼子へ皐月を紹介するのは引っ越し業者が引き払った後、少し落ち着いてからの方が都合がいいはずだ。

「4時までには帰ってきなさいよ」

 小一時間で帰ってこようと思っていた皐月はあてが外れた。思っていたよりも長く家を開けろと言われたことで、梅雨払いをされたような気がして面白くない。でも、これで目論見通りにはなった。

 あまりにも緊張が高まっていたので、皐月は家から逃げ出したくなっていた。どうせ家に帰らなければならないが、とりあえずプールでひたすら泳いでいれば気持ちが鎮まるような気がした。

 ささやかな逃避行に友だちを誘う気にはなれなかった。こういう時、皐月は友だちに頼らずに一人で問題を解決してきた。

 この習性は一人で過ごすことの多かった今までの環境が形作ったものなのか、あるいはまだ心を許せる友がいないからなのかはわからない。同学年の男子は皐月から見ると子どもっぽ過ぎて、抱えきれない気持ちを吐き出す相手としては物足りない。

 そうなると話し相手は育った環境も似ていて、自分よりも精神年齢が高そうな真理くらいしかいなくなる。しかし、真理は受験勉強で忙しいので巻き込むわけにはいかない。真理にはあまり弱みを見せたくはないけれど、皐月は今、無性に真理に会いたくなっている。

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