第21話
高校に入学して二、三週間ほどしか経っていない、春なのにまだ風の冷たい日、同じクラスになった大野俊という男子生徒が、秀治に声を掛けてきた。
まだクラス全体が手探りで人間関係を築いている中、大野俊は互いをけん制しあうような他の生徒の頭上を軽々と飛び越えて、クラスの連中と次々に仲良くなっていた。
そんな、自分にはとても真似できない離れ業を、羨望と怖れの眼差しで遠巻きに見ていた秀治は、まさか自分が声を掛けられるなどとは夢にも思わなかった。むしろその視界に入らないように徹底して無関心を貫いていたくらいだ。
大野俊と自分、正確に言うなら中学校時代の自分とは、間違いなく狩る側と狩られる側に分けられる関係性のはずだ。秀治の皮膚や臓器や細胞の端々からそんな警告が伝わってくる。
俺のことには気づかないでくれ、そんな風に思いながら黒板の方へ鋭い視線を向けていた秀治のテリトリーに、大野俊はまるでずっと前からこれくらいの距離で話をしていたのだと言わんばかりに、遠慮の欠片もなく入り込んできた。
「あのさぁ」
名前を尋ねるでもなく、自分から名乗るでもなく、むしろ自己紹介なんて今さら余計だというくらい自然に、俊は秀治に何かの話を始めた。
不意を突かれて粟立った秀治の神経は、聴覚に意識を向ける余裕すら失ってしまったのか、俊の話を完全にシャットアウトしてしまった。相手が喋っている内容が、何一つ入ってこなかった。秀治はただその一瞬一瞬を取り繕うように、無言のまま何度か頷いていた。
「じゃ、よろしく」
無邪気に歯を覗かせて笑った俊は、次の止まり木を求めて秀治の前から去っていった。けれど、これ以上ないほどに強張った秀治の神経はすぐに元には戻ってくれず、しばらく俊の後を目で追った。漸く少しずつほぐれてきたところで、秀治は頭を抱えるようにして机に肘をついた。
俊の喋っていた内容を全く覚えていないことはもちろん問題だけれど、それ以上に、秀治相手に終始楽しそうに会話をしていた俊の目や表情に、何度思い返しても悪意や嘲笑の気配が見られなかったのだ。そのことに、秀治は違和感と困惑を覚えずにはいられなかった。
周囲の視線に怯え、時にへつらうように卑屈に笑ってきたことしかなかった秀治は、自分に向けられる蔑みの目には特に敏感だった。そして、そうした軽蔑の眼差しが彼への敵意となって刃を向けるか、或いは遊びの延長のように彼を弄ぶかという状況に備えることがこれまでの日常だった。
そんな状態に馴れきっていた秀治に、俊の態度は意外だったし、かえって恐ろしかった。何か別の趣向で自分を陥れようとしているのか、そんな考えすら頭に浮かんだ。
そこまで考えてしまうのも、それはそれで自意識過剰というものなのだろう。俊は案外、そこまで自分に関心はなく、ただ彼が他の人間に対しても見せる標準的な好意を、秀治にも見せていただけなのかもしれない。
そういうことであれば、秀治にとっては幸運なことだ。俊にとってのその他大勢の中に適当に放り込んでおいてくれた方が、秀治にはありがたい。葉が風に舞うように落ち着きなく動き回る俊の背中を追いながら、秀治の頭の中もまた、落ち着きなく回っていた。
けれど、そんな不安の中でふと秀治は、ああいう人間と仲良くなるのも良いのかもしれないと考えた。少し前の自分であれば想像すらしなかったようなことだった。けれどそうやって、考えもしなかった可能性に目を向けると、そこから新しい世界が開けていくに違いない。
そんな想像に浸って、期待を寄せている自分を見つけた秀治は、自分が少しずつ変わっていることを自覚した。そして、変わる自分を前向きに受け入れる準備も出来つつあった。
その日の放課後、部活動への勧誘から逃れながら秀治が校門の外へ出ると、雄樹が待っていた。中学生の頃から当たり前のように続けてきた習慣が、憎らしいほど鬱陶しく思えた。目の前にいる雄樹の穏やかな笑顔が、なぜかとても愚かな顔に見える。自分がこれから変わっていくような予感を微かに感じていた秀治にとって、雄樹は自分を過去に繋ぎ止めようとする足枷のように思えた。
「ねぇ、秀治くんは部活なにか入る?」
変わらない、何一つ変わらない無邪気な高い声でそう尋ねてきた雄樹に、秀治はすっかり低くなった声で、さぁ、とだけ答えた。
言ってから、自分が心をひりつかせるような冷たい返事をしたことに一抹の後悔を覚えた秀治は、そっと雄樹の方へ視線を向けた。けれど雄樹は、そっか、と相変わらずの笑顔で答え、秀治から見ればなんの悩みも無さそうな笑顔を保ったまま、いつもどおり自分の言いたいことを語りだした。
運動が極端に苦手な雄樹は、もうすでに文化系の部活を中心にいくつか見て回ったようだ。先を越されたような気がして秀治は内心良い気持ちはしなかった。
「明日は一緒に部活の見学とか行ってみる?」
不意にそう尋ねてきた雄樹に、秀治はイエスともノーとも言えない曖昧な返事を返した。それだけは嫌だ、となぜか思った。
「考えといてよ」
そう言った雄樹は変わらず笑顔だったけれど、秀治はその笑みの端に困惑と寂しさを感じたような気がした。でもすぐに、それは気のせいだと自分に言い聞かせて、そのまま雄樹が喋り続けるのをバックミュージックのように聞き流しながら自転車を押した。中学校の頃から使っている古い自転車を。
捨ててしまいたい代物ではあったけれど、自転車なしの通学路は中々辛いものがある。かといって新しく買い換える余裕もない。使うしかないものは使うしかないのだと諦めて、秀治は自転車を押した。
捨てられないものと、捨てても良いもの、ある程度分けてしまって、後者はすぐにでもどうにかした方が良いのだろう。飽きずに喋り続ける雄樹と古い自転車との間で視線を行き来させながら、秀治はそう考えていた。
「それとね、これ始めてみたんだけど、秀治くんはやってるかな。フォローしてもいい?」
そう言うと、雄樹は祖母と共有している自分のスマートフォンの画面を見せた。とあるSNSの画面だった。秀治はやっていない。
「アカウント名は百日紅にしてるから、それで検索してくれたらすぐに出てくるよ」
雄樹はそんなことを言っていたが、秀治はそれを右から左へ流していた。
翌日の放課後、秀治は雄樹と一緒に部活動の見学には行かなかった。大野俊が秀治を誘ったからだった。
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