第15話
朝の朝礼の時間、秀治は毎日遅れていった。正確に言えば、さぼった。すっかり朝礼が終わった頃に、一時限目の授業を待つ喧騒の中へ滑り込むようにして教室へ入るのが、秀治の毎日の流れになっていた。
他の生徒は最初のうちこそ、それを理由に秀治を手荒くいじったりしていたけれど、一ヶ月も経たないうちに早くも飽きたようで、今では何も言わなくなった。
担任に至っては、最初から声すら掛けようともしなかった。事情を察した上で、敢えて秀治が朝礼に参加しないことを認めているわけでもなく、かといって、注意したり、無理にでも朝礼に引きずり込もうとしたりするわけでもなく、まるで朝礼の時だけは秀治がクラスにいないものとして扱っているかのように、何のアプローチもすることはなかったのだ。
ただ、秀治にとっては寧ろその方が都合良かった。放っておいてもらえたほうが、救われる。そうして作ったひとりだけの時間を、秀治はいつも決まった場所で過ごす。それは、生徒玄関の靴箱の間の空間だった。
秀治の通う中学校は、生徒用の玄関をくぐった正面が二階部分まで吹き抜けになっており、上の階の高さに相当する壁面部分に、色鮮かなステンドグラスが嵌め込まれていた。
ステンドグラスと言っても、宗教的な意味のあるモチーフではなく、単に色とりどりのガラス片を適当に嵌め込んだだけなのだけれど、秀治はそれらを通して伝わる日常を遠く離れた色彩の波長を、毎朝その身体に浴びるのが、唯一のこの学校での楽しみだった。
登校時には、彼の密かな楽しみを理解しない周りの生徒の喧しさのせいで、十分にそれを味わうことも出来ないので、こうして毎日、朝礼の時間にここを訪れるのだ。
その日も同じように朝礼をさぼって玄関の靴箱まで来た秀治は、ふと、靴箱と靴箱の間の、ちょうど廊下から死角になっている場所に誰かが座っているのを目にした。
誰かな、こんなところで何をしているんだろう。そんな素朴な疑問と同時に、苦い感情が胸から舌の先にせり上がってくるような気がした。
秀治が独占していたはずの朝のひと時に、誰かが割り込もうとしている。そいつが秀治よりも強気な人間だったら、ようやく見つけたこの聖域からも秀治は追いやられてしまうに違いない。そうなると、いよいよここに秀治の居場所は無くなる。
気づかないふりをして、一つ手前の靴箱に居ればいいのだろうか。でも、知らない奴が背中合わせに自分の側にいるのも耐え難い。自分だけの場所に異物を流し込まれた屈辱と、その異物がやがて自分にとってかわるかもしれないという怖ろしさを抱えたままでいることなど、臆病で潔癖な秀治にはできなかった。
けれど、大人しく引き下がったり、明け渡したりするには、この場所はあまりにも惜しい。逡巡する秀治の目の前に、靴箱の向こうからその人影が不意に姿を見せた。
「あ...」
目が合い、互いにそんな間抜けな声を漏らし、秀治とその人影はしばし目を合わせたまま黙って向き合った。靴箱の影から現れた“彼”は、秀治の想像していた、そして恐れていたような相手には見えなかった。
小柄で痩せ型の、か弱い小動物を連想させる彼は、多分秀治とおなじような目で、向き合う秀治の正体を探るように見つめていた。その視線の奥には不安と怖れと、どこか許しを乞うような気配が感じられた。
そう怖がるような相手でも無いのかもしれない。秀治は少しずつ張っていた警戒の糸を緩め始めた。相手もそう思い始めたのか、こちらに向ける視線から少しずつ、警戒と怖れが剥がれ落ちていったように秀治には見えた。
「朝礼、さぼったの?」
先に声をかけてきたのは、彼の方だった。秀治が小さくうなずくと、彼の頬に朱が差し、さっきまでの警戒が嘘のように、その表情が華やいだ。
「同じだね、僕も」
飼い主の帰宅を待ちかねた子犬のような表情で、彼は秀治にそう言った。
「僕は舘岡雄樹、二組だけど、そっちは?」
彼、舘岡雄樹は嬉々とした表情で自己紹介をした。
皺の寄ったシャツと、白い汚れがところどころ目立つ制服のパンツ。そして少し口を開いただけで分かる虫歯混じりの歯。なんだか自分に似ていると、秀治は思った。さっきまで怖れを抱いていたのが嘘のように、舘岡雄樹への親しみが湧いてきた。
「四組。名前は尾崎秀治。えっと、一年生だよね?」
その幼い見た目を考えれば、一年生としか考えられないけれど、念のため尋ねた。
「うん、四組か。全然会ったことないよね?」
目を輝かせながら、雄樹は畳みかけるようにそう尋ねてきた。なぜだかとてもうれしそうだった。
「ないね、他のクラスの人と関わることって、僕はあんまりないから」
秀治のクラスメイトの中には、クラスの違いなどあって無いかのように妙に交友関係の広い奴もいるけれど、人間関係をいたずらに広げることを好まない秀治にしてみれば、他のクラスまで出向いてわざわざそこにいる連中と仲良くする意味が理解できなかった。クラスの中の狭い人間関係を相手にするだけで自分は精いっぱいだ。
「そっか、僕もかな。たまに別のクラスに引っ張っていかれたりするけど」
雄樹は笑った。その笑顔は恥ずかしそうにも、悲しそうにも見えた。秀治の薄い胸板の中にしまった心の底の方で、雄樹のクラスメイトが彼を使い込んだサンドバッグか何かのように小脇に連れて、他のクラスを歩いて回る姿が想起された。
「そうなんだ・・・」
返す言葉も見当たらなかったので、代わりに一言だけ言って、そして小さく笑みを返した。
雄樹にはそれだけでも十分うれしかったようだ。彼は堰を切ったように溌溂とした声で自分のことを話し始めた。自分が祖母と二人で暮らしていること、好きな漫画や動画、その配信者、両親が離婚して、二人ともどこかに居なくなったこと、住んでいる場所まで。秀治なら躊躇ってしまいそうなプライヴェートな話題も全て、あけすけに語った。
誰かにスキを見せることや、弱い部分を掴まれることをまるで恐れていないのか、或いは考えたことすらないのか、お気に入りの動画配信者が好みの動画を中々アップしてくれなくなった事への不満と同じレヴェルで、両親二人から虐待を受けていたことをも秀治に告げた。
「それで、お父さんは心の病気とかで仕事辞めてからずっと家にいたんだけど、お母さんがいつもそのことでお父さんに面と向かって悪口言うから、いつも喧嘩になって。でもね、お父さん、僕みたいに小さくて弱いし、お母さんがたまに包丁持ちだして来たりするから、だからお父さん、最後の方はお母さんと喧嘩できなくて。で、イライラしたり悲しかったりしたら、僕のこと蹴ったり殴ったりして、目の周りとか青あざになったりしてたんだけど」
思いのほか生々しい虐待の様子を、あっけらかんと語り続ける雄樹に不安を感じながらも、理性の底が抜けたような彼の明るさに、いつしか秀治は惹き込まれていた。
雄樹の話はいつの間にか好きなスポーツの話に移り、自分は運動神経が悪いせいでプレーヤーとしてスポーツを楽しめないと不満を言い出したかと思えば、自分の印象に残った試合が何年の何月何日に行われて、その時のスコアやゴールを決めた選手の名前まで、言いよどむことなく喋りつくした。ちなみに、そのスポーツはバスケットボールで、秀治には全くなじみのない世界の話だった。
けれど、生き生きと語る雄樹の楽し気な表情は、秀治の心も気づけば明るくしていた。自分の話したいことを遠慮せずに話し倒し、退屈じゃない?と相手の様子をうかがうことすらしない雄樹の素直さと天真爛漫さ、そして隙の多さが、却って秀治を安心させた。
同時に、こういう調子で他の人間の前でもしゃべり倒そうとすれば、鬱陶しがられたり、相手をイラつかせたりしてしまうのだろうと、秀治は頭の隅の方でそんな風に考えた。雄樹がいじめられている理由が、なんとなくわかった。
「あ、もう朝礼終わりそうだね」
不意に、雄樹が校舎側の吹き抜けの方を見上げていった。吹き抜けの壁面に掛けられたシンプルな丸型の掛け時計は、雄樹の言ったとおりあと一分ほどで朝礼が終わろうとしていることを知らせていた。
「そろそろ戻ろっか」
雄樹は言った。秀治は、うん、とだけ言って、その時初めて自分が立ったまま雄樹の話を聞き続けていたことに気が付いた。妙に腰がいたかった。
雄樹は満足そうに、ふぅ、と息を吐いてから
「最後まで聞いてくれてありがと、ちゃんと話聞いてくれたの、多分ばあちゃん以外だと秀治君だけ」
と言って、笑った。秀治はその言葉に心の中の何かを掴まれたような気がしたけれど、それが何なのかを落ち着いて把握しようとするより早く、雄樹がまた口を開いた。
「今日、一緒に帰っていい?先に終わったらこの辺で待ってる」
「え、うん、いいよ」
今度は、頭で雄樹の言葉を理解するより先に、言葉の方が秀治の口から飛び出していた。
「ありがとう、待ってるね。あ、でも秀治君の方が早く終わったら、待っててね」
そう言うと、雄樹は小走りに自分の教室へと戻っていった。一人生徒玄関の靴箱の側に残された秀治は、自分も早く教室に戻らなければと思いながら、どこか晴れやかな気持ちをまだ胸の辺りにとどめておきたいと、しばらくその場でじっと雄樹の背中を追っていた。
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