蜥蜴の殺し方 【夏休みのはじまり】

昼八伊璃瑛

第1話 夏休み初日

 七月二十四日。高校二年生の夏休み初日。

 

 雪本は朝の六時半にぱっちりと目が覚めた。昨夜は何時に眠りについたのだったか思い返そうとして、時計を見ていなかったので結局のところはわからず、全く別の情景ばかり思い浮かぶ。

 体が妙に生ぬるい。スラックスを履きなおしベルトを締めて姿見を見ると、白いワイシャツに無数の皺があった。

 近場にアイロンさえあれば軽く拝借してしまおうと思って、あたりを見回し、真菜の左足が視界に入る。

 

 ベッドの上の小さな白い足が、外の晴天を反射して、きめ細かにうっすらと青く光る。行儀よく規則的に整列した指と指の間にさえその青い光はまとわりつき、細く筋肉のついたふくらはぎから、弾力のある引き締まった太ももに至るまでをベールのように覆いつくして、部屋着用のハーフパンツの上を這って、くびれのあたりでまた一瞬肌に戻って、薄手のTシャツの生地の上を鈍く寝そべり、広がるしなやかな黒髪に艶を出して途切れる。

 雪本がそもそも寝ていた空間に顔を向け、腕を伸ばして、まだ抱きながら眠っているつもりなのだろうか。ふと湧き上がりそうになった笑みを、唇を噛んで押さえた。朝っぱらの日差しの中で流石に面目ないような気がした。

 ふとスマートホンを開くと、東井から三件ほどメッセージが来ていた。一件は、部活を無事にやめられたこと、石崎としっかり白黒つけられたことへの祝福とねぎらいがつづられていた。

 二件目は、昨夜の八時ごろ送信されたもので、告白がうまくいったのかを後で教えてほしいという旨の連絡だった。

 三件目はついさっきくらいに送られてきたものだった。朝練に行くついでにでも送ったんだろうか。返事がないあたりうまくいったということだろうと察しはついているらしい。後で必ず事情を報告せよという性急な文言だった。東井は東井で夏休みテンションに突入しているのかもしれない。

 ちなみに榊からは一切、何も連絡がなかった。部活動の件については既に直接言葉でねぎらわれたが、真菜の件については、雪本が「じゃあ、残りも頑張ってくる」と言ったのに適当な相槌を返したに留まった。単純に、その手の話を聞きたいか否かの差だろう。


 外で物音がして、慌てて窓から見下ろした。美術館の来訪者というわけではなく、ただ近所の主婦が窓を開けたというだけだった。

 カフェの開店が十時で、一時間前には準備を始めなければならないことを考えると、九時からは真菜も忙しくなることだろう。店主は午後一時からの出勤だということだったが、早く来ないとも限らない。

 一晩泊めてもらった割に、ろくな会話もできていない。後悔はしていないが、気持ちの整理がついていないことも確かだった。

 せっかく早く起きられたのだから、出来れば真菜をやんわり起こして、ある程度会話をして、それからゆっくり出ていきたい――。


 「!」

 雪本の思考は真菜のスマートホンから鳴り響く音に遮られた。シンプルな、初期設定そのままの着信音が、かなり大きく部屋に響き渡る。

 真菜はその音にたたき起こされてしまったのか、もぞもぞと不機嫌そうな声を上げながらもがいて、どうにか携帯電話をとった。

 「もしもし……ああ、リョウちゃん」

 リョウちゃん。

 寝ぼけているのか、それともなんとなく視界に入らなかったのか、真菜は雪本の存在を認識してはいないようだった。雪本はその間に、一瞬前に聞こえた真菜の声を嫌というほど反芻した。

 

 リョウちゃん。


 ハッキリ言えば、女性の呼び名とは思いづらい。もちろん、リョウという名前の女性はいくらでもいるが、リョウという名前の男性よりは少ないだろう。

 「なあに、朝っぱらから――え?」

 朝に弱いのか、不機嫌そうではあるが、その上でどこか無意識のうちに、自然と愛嬌をなじませているようで可愛らしいうえ、どこかに艶を感じさせる声だった。

「え、ベルト?……え、あ、あれか。あれ、ちょっと待って。……ええ?見てないけど……」

真菜は周囲を見渡し、そこでやっと雪本と目が合った。

 雪本は真菜の座っているベッドの下から、金具の端っこがのぞいているのを見つけて、歩み寄り、それを引っ張り出した。深い色合いの、明らかに使い込まれた、それでいて傷んでもない、とても質のよさそうなベルトだった。

 金具からして、サイズからして、男物であることは明白だった。

 『これ?』と口元の形だけで尋ねると、真菜は一瞬じっと雪本を見てから、存外あっさりとうなずいた。

 「あ、ごめん、あった、あったよ良ちゃん。今度渡すね」

 真菜はそんな風に電話越しの相手に声をかけ、そしてその後、ふふ、と苦笑いした。

 「うん。わかるか。そう。そうなんだよね。うん。……うん。だからまた後でちゃんと説明する。ちょっと待って、いったんこっちはこっちで、そうそう。じゃ、えっと、はは、切るね。はーい」

 電話を切った真菜はそのまま雪本に向き直り、

 「雪ちゃん、今から、割としっかり話す時間ってもらえる?」

と尋ねた。

 「それとも、今すぐ帰りたい?」

 「――」

 雪本はどちらとも返事をせずに、ただその場に軽く腰を下ろした。

 「……川上良さんっていうの。画数の少ない方の川に、上手下手の上。良識の良で、川上良。……写真、これしかないや」

真菜がスマートホンを差し出した。

「これは……」

「大学時代ね、同じサッカー部だったんだ。私はマネージャーだったんだけど。その合宿の最終日の写真。この写真を撮った前の日の夜に、呼びだされて告白されて」

 夏合宿なのだろう。全員軽装で、背景に移る山も青々と木々が生い茂っている。集合写真の定番で、女性や小柄な男性が前の方で座り、背が高い人間ほど後ろに回っている構成の写真だったが、川上良は、最後尾にいながら鎖骨のあたりまで見えていた。

 「背が高い」

 思わず漏れた独り言に、真菜がうなずく。

「もうその時には百八十五センチかな」

 雪本はまじまじと、川上良の顔を見つめた。

 黒い毛先が邪魔にならない程度に切られてはいたが、短すぎるということもない前髪の下から、細い一重瞼の双眸がのぞいている。

 華はないが、目の形自体は繊細できれいな作りをしており、鼻筋はすっと通って、薄い唇が賢そうな笑みを浮かべ、上品さと清潔感が際立っている。

 やや細面で顔が縦に長く、平均よりも目の位置が高いので、地味と言えば地味だが、さっぱりした印象の好青年だ。

 「今年で、付き合って五年目」

「結婚するの?」

「そういう話、できないの。色々あって。どっちかっていうと、無理そうかな」

真菜は軽い調子で苦笑し、そして、その調子のままで付け加えた。

「もっというと、今『恋人』ですらないと思うもん。『彼氏』だとは思ってるけど」

「どういうこと?」

淡々とした真菜の言葉は、雪本を相手取るために拵えたものではなさそうだったが、だからこそ雪本にはその言葉の意味も、そしてそれを今ここで言う理由も、いまいち飲み込みかねた。

「倦怠期とか、そういうこと?」

「そういう、時期的な話では―いや、時期も関係するか」

真菜は真摯に言葉を探していたが、雪本はその真横に座りつつ、言葉を探すことに『は』真摯になれるんだな、というようにとらえ始めた自分に感づいていた。

「色々あったの。ありすぎたの。それで、相手の事がお互い、よくわからなくなっちゃったの」

苛立ちはゆっくりと、ゆっくりと、真菜の一言一言にへばりつく。

「よくわかんなくて、困ってる間に、惚れた腫れたがどっか行っちゃって。向こうなんて、私が浮気しても気にしないってはっきり言ってきてるし」

「でもセックスとかはしてるんでしょ?」

 雪本は言った。自分でも覚えがないうちに、川上の置いていったベルトをはっきりと右手の人差し指で示して、ただの質問のような口調で聞いていた。

 嫌になった。

 「すみません、本当に帰ります」

「待って……待って、雪ちゃん」

真菜は今度こそ本当に焦った口調でそう口走って、雪本の手を掴んだ。昨日の夕方の光景を思い出し、思わずその時のように立ち止まってしまった雪本は、その分余計に胸がざわついて、真菜の目をまともに見られずにいると、真菜の芯の強い声が聞こえた。

 「雪ちゃん、ありがとう。告白してくれてうれしかった。言ってくれてうれしかったし、気持ちが嬉しかった。びっくりして何にも言えなくてごめんね。私、雪ちゃんのこと普通に心配だったの。一年半、ずーっと心配だった。だから男の人として見てたかって言われると、正直、それは違うんだ」

真菜は口ごもると、勢いづきすぎていた自分をいさめるように、ゆっくりと深呼吸して、それから続けた。

「でも、告白してもらった時、馬鹿みたいだけど、雪ちゃんの全部、今でなきゃ手に入らないなら、今欲しいって、そう思ったの。本当に、最低なんだけど、私の気持ちは、そういうことです。ごめんなさい、すみませんでした」

 真菜の言葉に、軽い部分も、偽りらしい部分も微塵も見つけられなかった雪本は、それでも頑なに床を見つめたまま言った。

「俺は、本気なんです。真菜さんが好きなんです」

真菜が手を引いて体を寄せようとするのを感じ、逆にこちらから思い切り力を込めて引っ張ってかき抱く。力加減を一切しなかったので、真菜はきっと痛かったはずだが、痛いとは言わず、その心遣いが却って、悪意にも満たない不快な煙をムッと濃くするようだった。雪本は眉をひそめ、歯をしばらく食いしばってそれに耐えてから言った。

 「俺はそれでも、好きですからね」

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