【BL】ファントム・ティアーズ

畔戸ウサ

ユーフィン編

第1話 拾い物

 パンと頬の真横に衝撃が走る。

 跳ね上がった空気の勢いに目を細め、ニヒトはようやくその異変を察知した。


「ヴィータ……?」


 声を掛けてはみたが、ニヒトが跨る聖獣せいじゅうは生い茂る木々などまるで存在しないかのように、薄暗い森の先を見つめ一直線に駆け抜けた。

 ニヒトは振り落とされないように姿勢を低く保ったまま聖獣の背にしがみつく。星屑のきらめきを放つ体毛が風を受け、ニヒトの服の裾をバタつかせる。鋭い爪が地面を抉り、ニヒトの背丈ほどもある茂みに飛び込んでもその勢いは衰えず、鬱蒼とした藪を抜けると、今度は突如現れた大木の根っこを器用に避けて、白銀の身体は高く宙に舞った。

 着地の振動でヴィータの体に結びつけた荷袋から甘夏の実が飛び出した。ニヒトは慌てて手を伸ばしたが半瞬遅く届かない。地面に転がる甘夏はあっという間に小さくなり、ニヒトの視界から消え去った。

 一体何が起こったのか。


「ヴィータ! どうした?」


 聖獣ヴィータが何を感じ、どこに向かっているのかは分からずとも、この辺りはニヒトにとっても通い慣れた場所である。道とも言えないこの森の先に何があるかは察しがついた。


「おい! 止まれっっ!」


 ——そっちは!

 木々の切れ目に光が見えたと思った瞬間、ヴィータは突如方向転換し、尻を大きく振った。シロツメ草が生い茂る地面に爪を突き立て、体長二メートルを超える白銀の聖獣は見事崖の突端で静止したが、慣性の法則に抗えないニヒトの身体はそういうわけにもいかなかった。

 しっかりと握り締めていたはずの革紐がニヒトの体重を支えきれずスルリと滑る。


「うっ——……」


 まるでスローモーションのような映像だった。


「……わぁぁぁぁっ!」


 放り出された身体は一秒だけ宙を舞い、その後は重力に従って山肌に刻まれたスリットに吸い込まれるように落下した。

 一枚の布を切り貼りしたような、ゆったりとした服装。そして、聖獣のきらめきにも負けないニヒトの艶やかな髪がふわりと風に舞う。大きく見開かれたオリーブ色の瞳には谷底を流れる急流と、それに揉まれるように流されてゆく黒い物体が映っていた。

 

 ズブンと水中に突き刺さるように沈んだニヒトの身体を重たい水流が捉える。

 下流へと押し流されながらなんとか水面へと浮上し、息をしたのも束の間、次の瞬間には大きな波に攫われ、ニヒトは再び水中へと引き込まれてしまった。

 明らかに何かの力が働いている。しかし、ニヒトの瞳では何も捉えることはできない。荒れ狂う流れの中で何とか方向転換したニヒトの目に映ったのは、黒い人影だった。

 森の空気が荒れていた原因はこの男だ。

 ユーフィンの理を理解していないその男は、襲ってくる水流を抑えようと炎の魔法を使っている。


 危険だっ! 今すぐ止めろ‼︎

 ここはユーフィンだ。魔力の常識など通用しない。


 それを伝えようにも、水中では声が出せず、ニヒトは何度も水流に揉まれてしまう。

 男が戦っているのはこの森に住む精霊である。そしてそのことが輪をかけて精霊たちの怒りを買っている。

 彼らが作り出す水の塊が川の流れを無視して男に向かっていく。細かい泡を孕んだ軌跡のお陰で、魔力を持たないニヒトにもかろうじて精霊の動きを目で追うことが出来た。一つや二つではない。彼を囲むようにあらゆる方向から、無数の水流が牙を剥いている。たとえユーフィンの民であったとしても、これだけの精霊を相手にするのは至難の業だろう。並みの人間であればとっくに命を落としている。しかし、この地の民でもない見知らぬ男は全くコントロールの効かない魔力を駆使しながら、どうにかこうにか踏みとどまっていた。

 能力の高さは認めざるを得ない。しかし、それが返って仇になっている。

 とにかく、攻撃を止めさせなければ。

 ニヒトが流れに身を任せるようにして近づくと、そこでようやく気付いたのか、黒衣の男がこちらに顔を向けた。

 黒の上下に黒髪、黒目の男。

 それは、ゼクスクローネの北部に位置する、旧公国、ベッツ領の人間に見られるものだった。

 彼の服装は、冒険者や旅人の物ではなく、高貴な人間が着用するものでる。その中でも黒を基調とする一族にニヒトは心当たりがあった。

 どうしてベッツの貴族がこんなところに?

 いろいろと疑問はあったものの、緊迫した状況がゆっくりと考えている時間を与えなかった。ニヒトは男の腕を掴んで攻撃を止めさせると「上へ来い」と親指を立てて指示をする。一時的に攻撃が続いても、こちらに反撃の意志がないことを示さなければ精霊は鎮まらない。ニヒトの意図が伝わったのか、男は手の平に集中していた魔力を開放した。しばらくの間、二人は成すがまま浮きつ沈みつしながら精霊の攻撃が止むのを待った。激しかった攻撃が弱まる頃合いを見計り、川の流れが緩やかになった所で浮上を始める。

 それでいい。

 ニヒトも少しだけ安心し、緊張を解いた——その刹那


「……!?」


 川底で何かが動く気配がした。

 積乱雲のように巻き上がる泥の中、清らかな水を纏った精霊たちは一目散に姿を消し視界は一気に悪くなった。

 何か嫌な気配を感じる。

 ニヒトは咄嗟に男を上に押しやり、腰に結び付けていた鎌を振るった。固い物に突き刺さるような手ごたえがあって、何かが水中の中で激しく動き回る。それでも構わずに、ニヒトは持ち手を握る腕に力を込めてその刃を出来得る限り押し込んだ。

 一層悪くなった視界の片隅に赤黒い血が混ざる。

 間違いない。これは魔獣だ。

 魔獣化してからかなりの年数が経過しているらしく、身体も大きく狂暴だ。陸の上ならいざ知らず、魔力を使えないニヒトと、魔力は使えても、全くコントロールが利かない男とでは太刀打ちできるものではなかった。

 早く水上に出ろ、と指で男に指示し二人は光が差す水面へと急いだ。

 ところが、あと少しで息が出来ると思った瞬間、川底からびゅるっと伸びてきた触手のようなものがニヒトの脚に絡みついた。

 圧倒的な力で再び川底へと引っ張られたニヒトは思わず口から息を吐き出してしまった。

 太い丸太のような……否、巨大な蛇のような物体が右の足首から太腿へと這い上がり、幾何学模様が刺繍された服の裾からヌルリと入ってくる。まるで人間獲物の肌の感触を愉しむかのように、その触手はビタビタとニヒトの太腿の内側に張り付き下腹に向かって這い上がろうとしていた。濁った水とは違う冷たさの中に、ヌメヌメと粘液を纏った気色の悪い皮膚の質感まではっきりと感じられる。生理的嫌悪に背中を震わせ、ニヒトが自由な左足で絡みつく物体を蹴とばすと、僅かに差し込んだ太陽の光によって、泥水に溶け込んでいた化物の正体が覗いた。朽ちかけた流木のような黒々とした斑らの体。そこにぎょろっとした金色の目玉が光る。ニヒトを捕らえてゲハゲハ笑っているかのような大きな口は先端が尖り、そこには二重三重に並んだナイフのような歯と、やたらと白く長い舌が見えた。

 ニヒトの足に巻き付いてきたのは、異形の影の胴体から伸びた触手だった。本体は更に大きく、気持ち悪いほどの角度で全開された口はニヒトの身体ですら一飲みにしてしまうほどだった。

 先に水面へと向かっていた黒髪もニヒトの異変を察知したのだろう。水中でクルリと反転すると、川底へ引きずり込まれていくニヒトの服を寸でのところで掴み、一瞬の躊躇いもなく魔力を発動させた。

 もちろん、それもここでは悪手だ。

 しかし、それ以外にニヒトが助かる可能性はなかった。

 彼の手から放たれた魔力は球速に膨らみ、巨大な水蒸気爆発が起こった。爆発の威力でニヒトに絡みついていた魔獣の触手は千切れ飛び、ニヒトと男の身体は水面から空へと弾き出される。

 ニヒトも背中に水圧と熱を感じた。しかし、火傷するほどの熱さではない。宙に放り出されたニヒトの身体を黒衣の腕が抱きとめる。たった今炎の魔法で川底の魔獣を撃退した男が、今度は氷の魔法で、爆発によって発生した高温の水蒸気を抑えていた。

 ニヒトはその技術の高さに目を瞠る。

 同じ系統とは言え、炎と氷の魔法はベクトルが全く異なる魔法だ。それをこの男は一瞬で切り替えた。しかし、コントロールが効いたのはその瞬間だけだった。

 爆破の勢いはかなりのものだった。しかもニヒトの身体を抱えた黒髪には受け身を取る事ができない。


「ダメです!」


 ニヒトが鋭く声を上げたが、コンマ数秒遅かった。

 地面への激突を回避する為に咄嗟に風の魔法を使った男は、横からの突風を受け、切り立った崖に体をしたたかにぶつけてしまった。ニヒトの体重を受け止めた男はぐっと息が詰まるようなうめき声を上げた後、気を失いゴツゴツした石が並ぶ岸壁に身体をぶつけながら落下した。


「大丈夫ですか!?」


 こんな時に魔力があれば、何等かの方法で衝突の衝撃を和らげることが出来たのだろう。しかし、ニヒトにはそれができなかった。

 慌てて立ち上がり、黒髪の男の顔を覗き込んでみるが、意識が戻る気配はない。ニヒトを庇わなければ受け身ぐらいは取れたであろうに、助けに入ったはずの自分が足を引っ張る結果になってしまったことにニヒトは責任を感じた。

 川を見れば赤黒い魔獣の血液に混じって、千切れた触手の一部分が途中の岩に引っかかってブシュブシュと音を立てている。ここは谷が深く、ニヒトたちの生活圏とも離れている。悪臭を放つ触手は放置してもさほど問題なさそうだが、これだけの傷を負っても本体はまだ生き残っている。魔獣がいたことを村に伝え、駆除についての判断を仰ぐ必要があるだろう。

 そして、魔獣よりも更に厄介な問題が一つ残されていた。

 地面の上に転がり、深く目を閉じた黒衣の男の処遇についてだ。

 ニヒトは谷底から空を見上げる。

 崖の高さはニヒトの身長の何倍もある上に急峻で、一人で登るだけでも時間がかかる。まして、この男を連れてゆくのであればニヒト一人では到底無理だ。じきに陽も暮れる。そうなれば山からの吹きおろしが谷底を流れ気温は一気に低下し、よしんば崖を上れたとしても森の中を歩いて帰ることも出来ない。


「ヴィータ……」


 ニヒトはどこかにいるであろう、聖獣に声を掛ける。

 ニヒトを振り落とし、川に放り投げた張本人だ。聖獣が何を思ってこんな行動を取ったのかは分からない。ヴィータに何かを依頼する時、ニヒトは言葉でそれを伝えるが、言葉を持たないヴィータが要求を伝える時はいつもこんな調子だ。


「ヴィータ、どこにいる? こいつを運びたいんだ。手伝ってくれないか?」


 しばらくすると、崖の上から白い顔が覗いた。

 耳と鼻がツンと尖った賢そうな顔である。

 彼が一体幾つなのか、ニヒトはもちろん、村の誰も知らない。ただ、ヴィータは聖獣にしては珍しく、大昔から村に居て人間と共に暮らしていた。どうやらこちらの言葉は完全に理解できているらしいが、彼が命令を聞くのはユーフィンの中でもニヒトだけだった。

 銀箔の輝きを纏った聖獣は急峻な崖を難なく降りて、ニヒトの元へとやってきた。その背には鹿の革で出来た荷袋が結ばれており、道具が入った麻袋と木の実や山菜、そして落下を免れた甘夏の実が数個入っていた。 

 ニヒトは荷袋を下ろし、代わりに気絶している男の身体をヴィータの背に乗せようとした。


「くっ……」


 自分よりも背が高い姉よりもさらに大きな男の身体は、脱力している上に濡れた衣類の重みも加わり、ニヒトは持ち上げるだけで精一杯だった。

 酔っ払った姉を寝所まで運ぶことは度々あったが、がっちりとした筋肉を備えた身体はそう簡単に移動できるものではない。

 自分は無力であるが非力ではないと信じていたニヒトは余りにも重すぎる『男性』の身体に、認識のズレとどんなに鍛えてもガロの身体のようにはなれなかった自分との違いを思い知る。

 と、不意に体が軽くなった。


「……ヴィータ……」


 二進も三進も行かないニヒトを見かねたのか、ヴィータが黒服を噛み、立ち上がった。

 まるで母猫が咥えた子猫のように、口先に屈強な男をぶら下げたヴィータは、下から見上げてくるニヒトに「ついて来い」とばかりに先を歩き出した。

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