第十九幕


 第十九幕



 やがて人数分のホットマサラチャイを飲み終えた僕ら三人は早々に席を立ち、会計を終えると、何故だか分からないが駅舎と建屋を共有するような格好でもって営業していたインド料理店を後にした。そして店舗の正面玄関の扉を潜って戸外の空気へとその身を晒せば、既に陽が落ちた夜空は真っ暗で、頬を撫でる真冬の寒風はまるで冬将軍の氷の剣の一撃のように僕らの背筋を震わせる。

「寒っ! ちょっと、もうこんな夜中だってのに、ホントにこれからその修道院なんかまで行くつもりなの? 正気?」

 すると僕の隣に立つ淑華が真っ白に凍る息を吐きながらそう言って、今後の予定について疑義を呈するが、この場の主導権を握るグエン・チ・ホアはこれに応じない。

「ええ、勿論、正気でしてよ? むしろ夜になって人の気配が無くなってからの方が、何かと行動し易いのではないかしら?」

 淑華が呈した疑義をまるで全否定するかのような格好でもってそう言ったグエン・チ・ホアは、アイルズフォード駅の駅前に一台だけ停まっていたタクシーの傍らへと歩み寄ると、そのタクシーの運転席側の扉の窓ガラスをこんこんとノックした。すると運転席で居眠りしていた運転手がはっと眼を覚まし、未だ眠たげに眼をぱちぱちとしばたたかせながら、ノックされた側の扉の窓を開けてこちらに眼を向ける。

「何だい? あんたら、お客さんかい?」

「ええ、そうね? アイルズフォード修道院までお願いしたいのですけれども、よろしくて?」

「ああ、別に連れて行ってやる分には構わないさ。しかしアイルズフォード修道院だったら残念ながら、もう閉館時間を過ぎてるよ。だから今から行っても、また明日になってから出直して来いって言われて門前払いされるのがオチだがな」

「ええ、そうね? 別にそれで構わなくてよ? たとえ修道院の中にまでは入れなかったとしても、その敷地の傍まで連れて行ってくださればよろしいのではないかしら?」

 タクシーの窓枠越しに、純白のアオザイ姿のグエン・チ・ホアはそう言って、典型的な田舎の英国人と言った風貌の運転手に向かって微笑んだ。すると不意に笑顔を向けられた運転手は如何にも怪訝そうな眼差しでもって、余所者のアジア人である彼女の顔をじろじろと覗き込みながら逡巡した後に、肩を竦める。

「まあ、いいさ。こっちも商売は商売だし、客は客だからな。いいよ、乗んな」

 引き続き怪訝そうな眼差しをこちらに向けながらも、運転手がそう言って乗車を促したので、扉を開けた僕と淑華とグエン・チ・ホアはタクシーの後部座席へと乗り込んだ。そして三人の乗客達全員がシートベルトを締め終えたのを確認した運転手がエンジンを始動させ、アクセルペダルを踏み込めば、僕らを乗せたタクシーはアイルズフォードの村を覆う夜のとばりの内側へと滑り込む。

「お客さん達、こんな何も無い田舎まで、どちらの国から来なすった?」

 アイルズフォード修道院までの道すがら、村道を疾走するタクシーの車内でもって、ハンドルを握る運転手がそう言って後部座席に腰を下ろす僕らに向けて問い掛けた。そこでグエン・チ・ホアが僕ら三人を代表して「フォルモサでしてよ?」と言って返答したものの、あまり聡明そうには見えない運転手は首を傾げるばかりである。

「フォルモサか……済まんが、良く分かんねえや! 何せ俺なんかに言わせれば、アジアの国の人達はどいつもこいつも同じ顔をしてるからな!」

 そう言ったタクシーの運転手はげらげらと声を上げながら笑っているものの、アジア人を嘲笑するかのような冗談のネタにされた僕らは正直言って、あまりいい気分であるとは言い難い。そしてそんなこんなで車内の会話が全く盛り上がらないままに、僕らを乗せたタクシーはメドウェイ河を越えると、やがて宵闇に包まれた村道の一角でもって静かに停車した。

「ほら、着いたよ。もう寝てるかもしれない神父様達を起こしてしまわないように車ではこれ以上近付けないが、この道をまっすぐ道なりに進んで行けば、その内に修道院の建物の入口が見えて来る筈だからさ。済まんがそこまでは、歩いて行ってくれ」

 停車したタクシーの運転手が前方を指差しながらそう言ったので、僕ら三人が運賃を支払い終えてから下車すれば、人気の無い無人の村道の中央でもってぐるりとUターンしたタクシーは宵闇の向こう側へと走り去る。

「修道院、意外と駅から近かったですね」

「ええ、そうね? こんな事でしたら、徒歩でもってお訪ねしてもよろしかったのではないかしら?」

 同意を求める僕の言葉に対して、グエン・チ・ホアはそう言って首を縦に振った。実際問題としてアイルズフォード修道院は直線距離でもって駅からほんの数百メートル程しか離れておらず、メドウェイ河を越えるための橋までの道順さえ知っていれば、タクシーを拾う必要が無かった程の距離である。そして走り去るタクシーを見送った僕ら三人が真冬の村道を道なりに歩き続ければ、やがて月明かりにぼんやりと照らし出された何棟かの煉瓦造りの建物と、背の低い鉄柵に囲まれただけの修道院の入り口が見て取れた。

「あらあら、随分と不用心ね? こんな柵だけですと、まるでどうぞ侵入してくださいとでも仰っておられるのと同じじゃない?」

 そしてそう言ったグエン・チ・ホアが鉄柵の傍らへと歩み寄り、それをひょいっと乗り越えて修道院の敷地内へと侵入してしまったので、僕と淑華の二人は驚かざるを得ない。

「ホアさん、ちょっと、何やってるんですか! 不法侵入ですよ!」

「ちょっとあんた、勝手に中に入ったりして、もし仮に誰かに見付かったら怒られるじゃないの! ああ、もう、気持ち悪い。吐きそう。頭痛い」

 しかしながらそう言って驚く僕ら二人を尻目に、修道院の敷地を囲む鉄柵を乗り越えてしまった当のグエン・チ・ホアは、涼しい顔でもってほくそ笑むばかりである。

「あらあら、万丈くんも淑華ちゃんも、そんなに大声を出さないでくださって? 修道院の関係者の方々が集まって来てしまいましてよ? それにどうせ、これから執り行うつもりの事に比べればこんな不法侵入くらい些細な事なのですから、どうぞお二人も、あたしの後に付いて来てくださるかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアはくるりと踵を返し、敷地の奥の修道院の建屋の方角へと足を向けると、そのまますたすたと軽快な足取りでもってその場から歩み去って行ってしまった。そこで彼女に置いて行かれまいと焦った僕もまた急いで鉄柵を乗り越え、修道院の敷地内へと足を踏み入れたが、淑華ばかりはその限りではない。

「おい淑華、そんな所でぼーっと突っ立ってないで、お前も僕と一緒にホアさんの後を追うぞ!」

 僕は淑華に向かってそう言って手招きしながら、僕と一緒にグエン・チ・ホアの後を追うよう促したが、鉄柵の向こうの彼女はこれを固辞する。

「は? 馬鹿言わないでよね! 地権者の許可を得ないで勝手に土地や建物の内側に入ったら、不法侵入になっちゃうじゃないの! 万丈、あんた、あたしに犯罪者になれって言うつもりなの?」

 どうやらそう言った淑華はこの期に及んで、真面目に法律を守るつもりでいるらしい。

「おい淑華、お前、今更何言ってんだよ! 今年の初めにアメリカに行った時の僕ら三人なんて、キャンベルさんと一緒に、厳戒態勢中のホワイトハウスの建物の中にまで忍び込んだじゃないか! あれに比べたら、こんな古臭い修道院の中に忍び込む事くらい、何でもない筈だろ? 違うか?」

「万丈ったら、あんたこそ何言ってんのよ! ホワイトハウスなんて大統領が住んでるだけの只の大きな住宅だけど、ここは修道院、つまり神様と聖職者の人達が住むお家じゃないの! そんな神聖な場所なんかで罪を犯したら、罰が当たるじゃない! そんな事も分からないの?」

「えー……」

 想定外の淑華の言い分に、そう言った僕はぽかんと口を開けたまま言葉を失い、文字通りの意味でもって絶句してしまった。まさか彼女にとっての修道院はホワイトハウスよりも畏れ多く、足を踏み入れ難い神聖な場所だったとは、想定外にも程がある。

「そうか、分かったよ! だったら淑華、お前はそこで、僕らが戻って来るまで待ってればいいじゃないか! ここから先は僕とホアさんの二人だけで、用件を片付けて来るからさ!」

 そう言った僕もまた鉄柵の向こう側に淑華を残したままくるりと踵を返すと、修道院の建屋の方角へと姿を消したグエン・チ・ホアの後を追うべく駆け出して、急いでその場から走り去った。そして真冬の夜空の下を眼を凝らしながら疾走し、やがて闇夜の中を歩き続けるグエン・チ・ホアに追い付けば、そんな僕をちらりと一瞥した彼女は僕に問い掛ける。

「あら、淑華ちゃんは? 一緒ではなくて?」

「それが淑華の奴、神様の罰が当たるから、修道院の中には勝手に入れないなんて言うんですよ? どうかしてますよね?」

「あらあら、それはまた随分と殊勝な心掛けね? それにしても勝手に修道院の中に入ったら神様の罰が当たるだなんて、ひょっとして淑華ちゃんったら、敬虔なカトリック教会の信者の方だったりするのかしら?」

「いや、そんな事は無い筈ですよ? あいつは別にカトリックのキリスト教徒でもなければ、そんなに神様や仏様を信じるタイプでもない筈ですから。只ちょっとだけ委員長気質と言うか、昔から頭が固くて真面目過ぎるところがあるんですよね、あいつは!」

 そう言った僕は淑華の生真面目さに呆れ返りながら肩を竦め、かぶりを振り、深い溜息を吐いた。そしてそんな僕の隣を並んで歩くグエン・チ・ホアもまた淑華の生真面目さに呆れ返りつつも、その頭の固さを面白がるかのような格好でもって、くすくすと愉快そうにほくそ笑んでいる。

「さて、でしたらそろそろ本格的に、ヴォーティガン上級王閣下の亡骸の在り処を突き止める事になさいましょうね?」

 やがて修道院の敷地の奥の、大聖堂や宿舎や食堂などと言った様々な施設の建屋が立ち並ぶ箇所まで侵入すると、そう言ったグエン・チ・ホアは不意に足を止めた。そして手にしたラタンの旅行鞄の中から再びペンデュラムを取り出し、そのペンデュラムの鉱石が取り付けられていない方の鎖の末端を摘まみ上げ、真下に垂らした鉱石に向かって囁き掛けるかのような格好でもって口を開く。

「天上天下、あまねく世界を満たして止まぬ四大元素の精霊達よ、人々と神々との悠久の契約に基く召喚に従って、我らが求むるべき座標を指し示してはくださらないものかしら?」

 グエン・チ・ホアがそう言って、インド料理屋の店内でもってそうしたのと同じように四大元素の精霊にお伺いを立てたかと思えば、彼女の指先から垂らされたペンデュラムの鉱石がぶるぶると小刻みに震え始めた。

「さあ、でしたら精霊達よ、ヴォーティガン上級王閣下の亡骸が今どこに在らせられるのか、その詳細な場所を改めて指し示してくださって?」

 するとそう言って精霊達にお伺いを立てたグエン・チ・ホアの言葉を切っ掛けにしながら、ペンデュラムの末端に取り付けられた鉱石がくるくると時計回りに回転し始めたかと思えば、やがてその鉱石は修道院の敷地の奥へ奥へと引っ張られているかのような挙動を示し始める。

「どうやら、こちらのようね?」

 純白のアオザイ姿のグエン・チ・ホアはペンデュラムを手にしたままそう言って、くるりと踵を返すと、そのペンデュラムが指し示す方角へと足を向けた。そして僕もまた彼女と一緒にそちらの方角へと足を向け、宵闇に包まれた無人の修道院の敷地内を足音を殺しながら歩き続ければ、やがて僕ら二人は屋根の上に十字架が掲げられた一棟の煉瓦造りの建造物の前へと辿り着く。

「この中……ですか?」

「ええ、そうね? あたしと契約を交わしておられる精霊達に依るならば、どうやらこちらの大聖堂のどこかしらに、ヴォーティガン上級王閣下の亡骸が眠っておられるのではないかしら?」

 やはりペンデュラムを手にしたままそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、僕らが辿り着いた一棟の煉瓦造りの建造物は大聖堂、つまりこの修道院に通う信者達が神父と共に神に祈りを捧げるための施設であった。ちなみに大聖堂とは言っても、教区司教の指定席である司教座カテドラが据え置かれているため便宜上そう呼ばれているだけで、建造物自体の規模はさほど大きくはない。

「それにあたし達にとっては幸いな事ながら、さすがにこんな夜更けともなれば、中にはもう誰もられないものと思われましてよ?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは闇と静寂とに包まれた大聖堂の門扉の傍らへと歩み寄ると、どうやら青銅で出来ているらしき観音開きの扉の片側に手を掛け、それをそっと押してみた。すると不用心にも鍵が掛かっていなかったらしき扉は蝶番ちょうつがいが軋む際の微かな金属音と共に押し開けられ、既に灯りが消された真っ暗な大聖堂の内部の様子が露になる。

「あらあら、やはり誰もられないようね?」

 修道院の関係者か誰かに見付かってしまったらどうしようかと怯える僕とは違って、さほど警戒している様子も無いままそう言ったグエン・チ・ホアは、やはりすたすたと軽快な足取りでもって大聖堂の建屋内へと足を踏み入れた。足を踏み入れた大聖堂の建屋内には礼拝の際に信者達が腰を下ろすための木製の長椅子が整然と並べられ、その誰も座っていない長椅子のシルエットが、却ってこの空間が全くの無人である事を如実に強調して止まない。そして色とりどりのステンドグラスが嵌め込まれた窓から差し込む月明かりが幻想的な色彩の渦を纏いながら、神父が説教を行うための説教壇とその後ろに掲げられた大きな十字架を、まるで闇夜の中でそこだけがスポットライトの光を浴びているかのような格好でもって照らし出す。

「ねえ、ホアさん? ホントにこんな所に、そのヴォーティガン上級王閣下とやらの亡骸が眠ってるんですか?」

 ステンドグラス越しの月明かりによって照らし出された説教壇と十字架の姿に気圧されつつも、その説教壇と十字架の方角へと足を向けたまま歩きながら、僕は僕の前を歩くグエン・チ・ホアの背中に問い掛けるかのような格好でもってそう言った。

「ええ、そうね? その証拠に、あたしのペンデュラムはこちらの祭壇の壇上、いえ、その真下を指し示しておいででしてよ?」

「真下?」

 僕はそう言って鸚鵡返しになりながら問い返したが、確かにグエン・チ・ホアの言葉通り、彼女が手にしたペンデュラムの末端に取り付けられた鉱石は、説教壇のちょうど真下に向かってぐいぐいと引っ張られているかのような挙動を示して止まない。

「真下って事は、この建物の地下室って事ですか?」

「それがね、万丈くん? 先程からそれらしき移動手段を探しているのですけれども、いくら探してもこの建物の内部には、下の階へと下りるための階段なりエレベーターなりと言った構造物の類が見当たらないのよね?」

 まるで大聖堂を埋め尽くす信者達に向かって滔々と説教の言葉を並べ立てる神父さながらに、無人の大聖堂の説教壇に立ちながらそう言ったグエン・チ・ホアは嘆息し、すっかり困り果ててしまったかのような様子でもって肩を竦めるばかりである。

「えっと、それってつまり、階段もエレベーターも無いけれど、この祭壇の真下に何か在るのは間違いないって事ですか?」

「ええ、そうね? こうなってしまわれたからには、ほんのちょっとばかり乱暴な手段に訴えなければならないと思うのですけれども……ねえ、万丈くん? 申し訳ありませんけれども、出来る事ならばほんの少しの間だけ、あちらを向いていてくださらないものかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアが説教壇が在るのとは反対側の大聖堂の出入り口の方角を指差したので、僕はそちらの方角に相対するかのような格好でもって、説教壇とその傍らに立つ彼女に背を向けた。すると次の瞬間、背後から、まるで雪崩か土砂崩れでも起こったかのようなぶるぶると身を震わせる程の破砕音が鳴り響いたものだから、そちらの方角に居る筈のグエン・チ・ホアの身を案じた僕は彼女の言い付けを破って振り返らざるを得ない。

「何ですかホアさん、今の音は!」

 そう言いながら振り返った僕は、振り返ると同時に視界に飛び込んで来た予想外の光景に呆気に取られ、左右の眼を大きく見開いたまま言葉を失った。何故ならつい今しがたまで説教壇が在った筈の祭壇の床のど真ん中に、およそ直径1mから2m程の大きさの縦穴が穿たれ、地下へと続く空洞がぽっかりとその口を開けていたからである。

「え? え、何? 何なのこれ?」

 驚きの余りそう言っておろおろと狼狽うろたえるばかりの僕とは対照的に、地下へと続く縦穴の傍らに立つグエン・チ・ホアは至って涼しい顔のまま、その縦穴の奥底を覗き込んでいた。

「あらあら、どうやらこちらの大聖堂の地下には、また別の空間が存在していらしたようね?」

 グエン・チ・ホアは涼しい顔でもってそう言うが、地下へと続く縦穴を前にした僕は慌てふためき、それどころではない。

「ちょっとホアさん、何でそんな呑気な事が言ってられるんですか! あんな大きな音を立てたら、せっかく今の今まで誰にも気付かれる事無く潜入出来てたって言うのに、すぐに修道院の関係者の人達がここの様子を確認しに駆け付けますよ! それに、ひょっとしたら警察を呼ばれて、僕らは逮捕されるかもしれない! いや、そもそもホアさんはどうやって、こんな大きな穴を開けたんですか? さっきまで、ここにこんな穴は無かった筈ですよね?」

 慌てた僕はあわあわと泡を喰いながらそう言って捲くし立てたが、一体何がそんなに可笑しいのか、グエン・チ・ホアは涼しい顔のままくすくすと愉快そうにほくそ笑むばかりである。

「ええ、そうね? どのようにしてこちらの穴を開けられたのかと問われれば、あたしはほんのちょっとだけ床を踏み付けてみただけの事ですので、きっと地下の空洞に溜まった地下水か何かが染み出して床が老朽化しておられたのではないかしら? それに音に気付かれたどなたかが駆け付けて来られたとしましても、あまり心配なさらずともよろしくてよ?」

 グエン・チ・ホアがくすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言っている間にも、大聖堂の外の宿舎の方角から聞こえて来る、古い造りの扉を開け閉めする際に蝶番ちょうつがいが軋む微かな金属音が耳に届いた。そして扉を開け閉めする音に続いて、やがて硬い踵の靴を履いた人の足音が、その足音を立てている人物の気配と共にこちらへと近付いて来るのが感じ取れる。

「ヤバいですよホアさん、やっぱり誰か来ました! その辺の物陰に隠れて、やり過ごしましょう!」

 やはりあわあわと泡を喰いながらそう言った僕は一旦縦穴に背を向け、相変わらず涼しい顔のままのグエン・チ・ホアと共に、大聖堂の壁際に設置されていたパイプオルガンの陰へと身を隠した。すると僕らが身を隠してから数秒後、大聖堂の扉が開け放たれたかと思えば、一灯の懐中電灯を手にした一人の高齢男性が姿を現す。

「そこに、誰かられるのですか? もしられるのであるならば、返事をしなさい! 警察を呼びますよ!」

 寝間着の上から薄手のカーディガンを羽織っただけの姿の、手にした懐中電灯の灯りでもって大聖堂の内部をくまなく照らしながらそう言った高齢男性は、おそらくこの修道院の維持管理を任されているカルメル会の神父か司教なのではないかと思われた。そしてその神父か司教は先程の大きな破砕音の正体と出所を突き止めるべく、懐中電灯の灯りを頼りに大聖堂の建屋内をゆっくり慎重に探索した後に、やがて祭壇の床のど真ん中に穿たれた大きな縦穴を発見して天を仰ぐ。

「何だこれは! ああ、神様、一体誰がこんな事を!」

 地下へと続く縦穴を前にした寝間着姿の高齢男性はそう言って、その縦穴の底を懐中電灯の灯りでもって照らしながら仰天し、酷く狼狽している様子であった。

「ああ、神様! こんな時、私はどうすればよろしいのですか! ああ、そうだ、とにかく大司教様と市長と、それに警察に連絡しなければ!」

 やはり先程までの僕と同じように、あわあわと泡を喰いながらそう言った高齢男性は寝間着のポケットから一台のスマートフォンを取り出すと、どこかに電話を掛けるべくそのスマートフォンの液晶画面をタップし始める。

「あらあら、司教様ったら、ちょっとだけお待ちになってくださって? 警察への通報などと言った無粋な事はなさらずに、どうか暫しの間だけ、あたしのお話に耳を傾けてはくださらないものかしら?」

 すると高齢男性がスマートフォンの液晶画面をタップし終える寸前に、不意にパイプオルガンの陰から姿を現したグエン・チ・ホアがそう言って問い掛けたものだから、虚を突かれる格好になってしまった高齢男性は「ひっ!」と小さな悲鳴を上げて驚かざるを得ない。

「だ、だだ、だ、だだだ誰ですかあなたは! こんな夜更けにこんな所で、一体何をしているのですか! いや、そんな、まさかとは思いますが、ひょっとして、あなたがこの穴を開けたんじゃないでしょうね? だとしたら、神の家である修道院でのこのような行為は、決して許されるようなものではありませんよ! 今すぐ警察を呼びます! そこで大人しくしていなさい!」

 激しく動揺しながらそう言って捲くし立て、今にも舌を噛んでしまいそうな程の早口でもって警告した高齢男性は、再びスマートフォンの液晶画面をタップし始めた。

「あらあら、やはり無粋な司教様ね? けれども警察に通報されるその前に、互いの眼と眼を合わせながらあたしのお話に耳を傾けてくださったとしましても、罰は当たらなくてよ?」

 しかしながらそう言ったグエン・チ・ホアが彼女の左眼に当てられた医療用の眼帯を捲り上げれば、こちらの一挙手一投足に警戒の眼を向けていた高齢男性は反射的に、その眼帯の奥の眼窩と眼を合わせてしまわざるを得ない。

「……」

 そしてグエン・チ・ホアの左の眼窩を覗き込んでしまった高齢男性は一瞬にして言葉を失い、まるで酔っ払ってしまったかのようなとろんとした恍惚の表情を浮かべながら、彼の左右の眼の焦点が合わなくなる。

「でしたら司教様、あなたはこの大聖堂でもってどなたとも出会わず、如何なる異常も発見出来なかったものですから、大人しくご自分の寝床へと戻られればよろしいのではないかしら? そして明日の朝までぐっすりと熟睡し、今宵見聞きした全ての出来事を、すっかり忘れ去られてしまわれる事をお薦めさせていただきましてよ?」

「……はい……そうさせていただきます……」

 グエン・チ・ホアによる催眠術の虜となってしまった高齢男性はそう言うと、まるで焦点の合っていない虚ろな眼をしたままゆっくりと踵を返し、大聖堂の出入り口の方角へと足を向けた。そしてふらふらとした覚束無い足取りでもって大聖堂の建屋内を縦断した彼は、やがて出入り口の扉を潜って大聖堂から退出したまま、僕らの視界から姿を消す。

「ホアさん、また例の、お得意の催眠術って奴ですか?」

 カルメル会の神父か司教なのではないかと思われる高齢男性が姿を消してから、僕もまた身を潜めていたパイプオルガンの陰から姿を現すと、そう言ってグエン・チ・ホアに問い掛けた。

「ええ、そうね? 教会の司教様の様な純粋で純朴な方ですと、猜疑心の強い俗世の方よりも催眠術が掛かり易くてよ?」

 くすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアの口振りに、僕はほんのちょっとだけゾッとする。

「さあ、でしたら邪魔者は立ち去ってくださいましたので、さっそく穴の底へと下りてみる事になさいましょうね? 万丈くん、準備はよろしくて?」

 改めてそう言ったグエン・チ・ホアと共に、僕は大聖堂の祭壇のど真ん中に穿たれた縦穴の傍らへと移動し、恐る恐る身を乗り出しながらその内部を覗き込んだ。覗き込んだ縦穴の内部は殆ど真っ暗で何も見えなかったが、月明かりが僅かに遮られている事から鑑みるに、およそ2mから3mほどの深さに底が在る事が確認出来る。そして決してこの縦穴が底無しではない事を確認し終えると、僕はか弱き女性である筈のグエン・チ・ホアに先だって、意を決して縦穴の中へと飛び込んだ。

「よっ……と!」

 真っ暗な縦穴の底に着地すると同時にそう言った僕の声が周囲の壁や床に反響し、幾重にも重なった音の波となって僕の鼓膜を震わせている事から察するに、どうやら縦穴の底にはそれなりに広範な空間が広がっているであろう事が予想される。

「万丈くん、大丈夫? 怪我は無いかしら?」

「ええ、僕なら大丈夫です。ホアさんも、気を付けて下りて来てください」

 縦穴の底に着地した僕は頭上を見上げながらそう言って、これから下りて来るであろうグエン・チ・ホアに注意を促した。すると次の瞬間、彼女は音も無く、まるで虚空を漂う小鳥の羽毛か何かのような軽やかさでもって縦穴の底へと舞い下りる。

「あらあら、予想はしておりましたけれども、やはり穴の中は真っ暗ね?」

 周囲をきょろきょろと見渡しながらそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、縦穴を下りた先に広がっているであろう地下の空間は、頭上の穴の入り口から差し込む僅かな月灯りに照らされた範囲以外は全くの暗闇であった。前後左右どちらの方角を向いても壁も床も見通せず、地下水が漏れ出ているのか頬を撫でる隙間風はじっとりと湿っていて、不快なかび臭い匂いがつんと鼻を突く。

「こんな事になるんだったら、催眠術に掛けて追い払うついでに、あの司教様が持っていた懐中電灯を拝借するんでしたね。失敗でした」

 真っ暗闇の中に立たされた僕はそう言って肩を落としながら後悔するものの、聡明で博識で用意周到なグエン・チ・ホアは、その辺りはまるで抜かりない。

「あらあら、万丈くんったら、そんなに気に病まれる必要は無いのではないかしら? 灯りが必要なのでしたら、あたしが事前に用意して来ておりましてよ?」

「え?」

 するとそう言って驚く僕を尻目に、グエン・チ・ホアは彼女が手にしたラタンの旅行鞄の中から、ステンレスとガラスで出来た小さなランタンを取り出した。それは見た目こそアンティークな造りではあるものの、裸火ではなく充電式のLED電球でもって周囲を照らす、キャンプや夜釣りと言ったアウトドア活動には欠かせない今風のランタンである。

「備えあれば憂い無しとは、まさにこのような状況を表すことわざなのではないかしら?」

 ランタンを手にしたグエン・チ・ホアはそう言って、くすくすと愉快そうにほくそ笑みながら、そのランタンのガラス製のグローブの中央に取り付けられたLED電球の灯を灯してみせた。そして煌々と灯されたランタンの灯りによって、さっきまで真っ暗だった周囲の様子が明らかになったところで、僕は思わず「ひぃっ!」と小さな悲鳴を上げざるを得ない。何故なら明るくなった地下空間の僕らの周囲には、おびただしい数の人間の白骨死体や頭蓋骨が、ごろごろと無数に転がっていたからである。

「ちょ、ちょちょ、ちょ、ちょっと待って待って! ホアさん、な、ななな何ですかこれは? 骨だらけですよ!」

 無数の白骨死体に取り囲まれた僕はそう言って気が動転するばかりだが、LEDランタンを手にしたグエン・チ・ホアは顔色一つ変えぬまま周囲の様子を観察し、その整った顔立ちに浮かべた涼やかな表情を微塵も崩さない。

「あらあら? どうやらこちらの修道院の地下に広がる空間は、イタリア語でもって言うところのカタコンベ、つまり地下墓所の一種でいらっしゃったのね? でしたら1242年にこの地に設立された筈のアイルズフォード修道院は、故意にそうされたのか、それとも単なる偶然なのかは存じ上げませんけれども、より古い時代の支配者の墓所の真上に建てられたと言う事でよろしくて?」

 僕ら二人の周囲をぐるりと取り囲む白骨死体や頭蓋骨の、まるで木のうろの様に虚ろな眼窩の数々に見詰められながら、グエン・チ・ホアは至って涼しい顔でもってそう言った。そしてそんな彼女の言葉に依るならば、どうやらこのアイルズフォード修道院の真下に在った地下空間は、かつてこの地を支配していた人々の共同墓所か何かであると言う事らしい。

「そうね、副葬品に施された特徴的な意匠から推測させていただきますならば、どうやらこれらの遺骨はケルト系民族の方々、それも大規模ないくさでもって亡くなられた戦士階級の方々の遺骨なのではないかしら? だとすれば前ローマ時代のブリトン人、つまりあたし達が亡骸を探しておられるヴォーティガン上級王閣下が存命であらせられた時代と、ほぼほぼ一致しましてよ?」

 地下空間の壁沿いにずらりと並べられた無数の白骨死体の傍らへと歩み寄ったグエン・チ・ホアはそう言って、それらの白骨死体が身に着けている装身具や副葬品の数々を手に取りながら、まるで物怖じせぬままそれらを検分し始める。

「と、言う事は、つまりこのカタコンベの中に、そのヴォーティガンとか言う名前の王様の亡骸が眠ってるって事ですか?」

「ええ、そうね? そしてもし仮に、これらの遺骨がおよそ455年頃に勃発したアイルズフォードの戦いでもって亡くなられたブリトン人の軍勢の遺骨であるとするならば、その軍勢を率いておられたヴォーティガン上級王閣下の亡骸は、最も目立つ場所に埋葬されておられるのではないかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアは手にしたLEDランタンの灯りでもって、学校の体育館よりちょっと狭いくらいの広さの地下空間の、ちょうど対角線同士が交差する中心地点を照らし出した。するとそこには床から50cmくらいの高さの祭壇の様な段差が存在し、その祭壇の上には、一基の石の棺が据え置かれているのが見て取れる。

「この中に、その亡骸が?」

 僕は階段状の段差を踏んで祭壇の壇上に上ると、そこに据え置かれた石棺を見下ろしながらそう言って問い掛けた。

「ええ、そうね? 四大元素の精霊達によるお導きと、あたしの推測が正しければ、その筈でしてよ?」

 そして自信ありげにそう言ったグエン・チ・ホアが棺本体と同様の素材で出来た石棺の蓋に手を掛け、少なく見積もっても100kgかそれ以上の重量が在る筈のその石の蓋を易々と持ち上げてみせれば、およそ1600年近い年月に渡ってこの地で眠りに就いていた筈の石棺の中身が露になる。

「あらあら、これはまたご立派なご遺体なのではないかしら?」

 石棺の中身を一目見るなりそう言ったグエン・チ・ホアの言葉通り、人一人が横になれる程度の大きさの石棺の中には、皮と金属で出来た立派な鎧と兜に身を包んだ一体の白骨死体が横たわっていた。そしてその身を包む鎧と兜だけでなく、遺体と一緒に棺に納められた斧や盾などと言った武具の類にも、やはりこれまた見事なケルト模様がびっしりと刻み込まれているのが見て取れる。

「この骸骨が……僕らが探してたヴォーティガン上級王閣下の亡骸なんですね?」

「ええ、そうね? でしたらさっそくこちらの亡骸に、あたし達がお尋ねしたかった事柄につきまして、ウィジャ盤とプランシェットを用いずに直接お伺いしてみる事になさいましょうね?」

「え?」

 白骨死体に直接話を伺おうと言うグエン・チ・ホアの言葉に、僕はそう言って思わず頓狂な声を上げ、驚きを隠せなかった。何故なら眼の前の白骨死体はとっくの昔に死んでしまっているのだから、どう考えたって直接会話をする訳にも行かないし、そもそもおよそ1600年前の時代を生きたブリトン人と現代人である僕らの間で会話が成立するとも思えない。しかしながらグエン・チ・ホアはそんな事を考えている僕には眼も呉れず、石棺の中の白骨死体の頬を左右の手の指先でもって撫でながら、やはりぶつぶつと聞き慣れない言葉の羅列を呪文の様に唱え始める。

「我が麗しのヴォーティガン上級王閣下の霊魂よ、我と我があるじの命に従い、そのお姿を現しになられてはくださらないものかしら?」

 聞き慣れぬ言葉の羅列による呪文に引き続き、グエン・チ・ホアが白骨死体の頬を撫でながらそう言ってヴォーティガン上級王閣下の霊魂に命じたならば、その白骨死体の頭蓋骨とその周囲がぼうっと青白く光り輝き始めたのだから僕は驚かざるを得ない。

「ヴォーティガン上級王閣下の霊魂よ、あたしの声を聞き届けてくださって?」

 やがて充分に機が熟したであろうタイミングを見計らい、グエン・チ・ホアはそう言って、ぼうっと青白く光り輝くヴォーティガン上級王閣下の亡骸に向けて問い掛けた。

「……女よ……余の眠りを覚ます貴殿は……一体どこの何者だ……」

 すると暫しの間を置いてから、おびただしい数の白骨死体や頭蓋骨が転がるカタコンベの壁や床や天井に反響しながら、そう言って僕らに問い返す壮年の男性の声が耳に届く。いや、その地鳴りの様に腹に響く重低音の男性の声は、普通の人間の声の様に耳の奥の鼓膜に届く空気の振動と言うよりも、むしろ僕らの大脳皮質の後頭葉に在る聴覚野に直接訴え掛けて来るかのような不思議で不気味な声であった。

「あたしはグエン・チ・ホアと言う名の、しがないフォルモサの一介の古物商に過ぎぬ者でしてよ? そしてあたしの求めに応じてくださったあなた様こそは、かつてこの地を支配されたブリトン人の王のお一人であらせられるところの、ヴォーティガン上級王閣下の霊魂でよろしいのかしら?」

 そしてグエン・チ・ホアがそう言って彼女の素性について返答し、また同時に石棺の中で横たわる白骨死体に向かって重ねて問い掛ければ、またしても不思議で不気味な壮年男性の声が聴覚野に直接訴え掛けて来る。

「……如何にも……余の名はヴォーティガン……大ブリテン島を統べる……偉大なるブリトン人の王であるぞ……グエン・チ・ホアと名乗る者よ……頭が高い……身の程をわきまえよ……」

 不思議で不気味な壮年男性の声はそう言って、彼自らがヴォーティガン上級王閣下その人の霊魂であると主張し、尊大な態度を隠そうともしなかった。そしてこの霊魂との交流と言う超常現象を身を以て体験してしまった事により、驚きを隠せぬまま言葉を失う僕に向かって、グエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑みながら問い掛ける。

「如何かしら、万丈くん? あたしの降霊術の腕前の以てしたならば、ウィジャ盤とプランシェットに頼ったりなさらずとも、こうして歴史上の偉人の方々との会話もまた可能でしてよ?」

 くすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアの問い掛けに、驚きの余りすっかり言葉を失ってしまった僕は無言のままこくこくと何度も何度も首を縦に振り、これを認めざるを得なかった。

「それにしましても閣下ったら、サブローマン・ブリテン時代を生きられた方にしましては、現代の英語がとてもお上手なのではないかしら?」

「……当然だ……余の亡骸がこの地に埋葬されて以来……千と数百年……数え切れぬほどの数の下賤の輩どもが余の頭上でもって生まれ出で……歳を重ねて子孫を残し……やがて老いさらばえて死んで行った……そんな名も無き下賤の輩どもが口にする言葉にける事など……偉大なるブリトン人の王である余にとっては造作も無い事よ……」

 そう言ったヴォーティガン上級王閣下の言葉から察するに、どうやら彼が言うところの下賤の輩ども、つまり庶民の方々の会話を通して現代人の英語を学び取ったらしきこの王の霊魂は、意外と勤勉な性分であるらしい。

「でしたら閣下、さっそくで申し訳無いのですけれども、是非とも閣下にお尋ねさせていただきたい事柄がありましてよ?」

「……そうか……貴殿は余に何を尋ねる……申してみよ……」

 やはり聴覚野に直接訴え掛けて来るかのような格好でもってそう言ったヴォーティガン上級王閣下の霊魂に、グエン・チ・ホアは昨夜と同じ疑問を再び投げ掛ける。

「この大ブリテン島の歴史上、アーサー・ペンドラゴンなる名の王は実在されまして?」

 昨夜の交信不良に終わった降霊術の際に引き続き、グエン・チ・ホアは改めてそう言って、果たしてアーサー王が実在したのかどうかと言うイングランド史上最大の歴史的な命題について問い掛けた。そしてこの問い掛けに対するヴォーティガン上級王閣下の霊魂の返答に、アーサー王伝説の真偽についてそれなりに関心が無い訳ではない僕は、ごくりと固唾を飲む。

「……知らんな……そのような名の王は……聞いた事も無い……」

 しかしながらアーサー王伝説を信じる人々の期待を真っ向から裏切るかのような格好でもって、ヴォーティガン上級王閣下の霊魂はそう言ってアーサー王の実在をあっさり否定してしまったものだから、伝説をほんのちょっとだけ信じていた僕はがっくりと肩を落とさざるを得ない。

「あら、そうですの? アーサー王伝説に記された有名なエピソードに依るならば、閣下はアーサー王の父であるユーサー・ペンドラゴンとアンブロシウス・アウレリアヌスの手によって討ち取られた事になっておりますけれども、これら全ても後世の創作だったと言う事かしら?」

「……貴殿らの伝説がどうであれ……余はにっくきサクソン人の侵略者どもとのいくさでもって命を落としたのであって……そのような名の者どもに……討ち取られた訳ではない……」

 グエン・チ・ホアの問い掛けに対してヴォーティガン上級王閣下の霊魂はそう言って断言し、アーサー王伝説の内容を重ねて否定した。そしてそんなヴォーティガン上級王閣下の霊魂は、今度は逆に彼の方からグエン・チ・ホアに問い掛ける。

「……しかしてグエン・チ・ホアなる名の女よ……そのアーサー・ペンドラゴンなる名の実在せぬ王は……一体どこの何者だ……」

 ヴォーティガン上級王閣下の霊魂がそう言って問い掛ければ、名指しでもって問い掛けられたグエン・チ・ホアは、これに返答するにやぶさかではない。

「ええ、そうね? アーサー・ペンドラゴンはブリトン人の王として大ブリテン島のみには留まらず、その近隣に在るアイルランドやアイスランドやオークニー諸島、更にはノルウェーやデンマークやガリアまでをも征服して大帝国を築き上げたとされる伝説上の王の名でしてよ?」

「……ふん……あり得ぬな……そのような偉業を成し遂げた王が……この大ブリテン島に実在したとするならば……その名声が余の耳にまで届かぬ筈も無い……所詮は伝説上の王に過ぎぬ……名ばかりの存在よ……」

「あらあら、そうですの? でしたら伝説に語られたアーサー・ペンドラゴンなる名の王は、やはり実在されなかったと言う事でよろしくて?」

「……ああ……その通りだ……」

「けれどもあたし達は今現在、そのアーサー王の名をいただきながらブリトン騎士団を名乗る方々に追われて困ってしまっているのですけれども、このブリトン騎士団とやらは実在されておりましてよ?」

 グエン・チ・ホアはそう言って、アーサー王の実在を幾重にも重ねて否定するばかりのヴォーティガン上級王閣下の霊魂の言葉に対して疑義を呈した。

「……愚かなり……実在せぬ偽りの王の名をいただくなど……誇り高きブリトン人もまた……地に堕ちたものよのう……」

 その声色や口調こそ殆ど変わりはせぬものの、やはり聴覚野に直接訴え掛けて来るかのような格好でもってそう言ったヴォーティガン上級王閣下の霊魂の言葉の端々からは、怒りや軽蔑と言った負の感情の昂ぶりが色濃く滲み出る。

「……そのようなケルトの民としての道理も誇りも失った愚かなブリトン人の出来損ないどもには……大ブリテン島を統べる真のブリトン人の王として……余……自らが天罰を下してやろうではないか……」

「あらあら? それは閣下が直々に、あたし達に協力してくださると言う意味だと解釈させていただいてもよろしくて?」

「……ああ……無論だ……女よ……そのブリトン騎士団とやらのねぐらまで……余を案内するが良い……」

 するとヴォーティガン上級王閣下の霊魂はそう言って、何某かの手段でもって彼自身をブリトン騎士団のねぐら、つまり所在地まで案内しろと言うものの、そんな彼の懸念点はもう一つあるらしい。

「……ところで女よ……もう一つだけ……聞かせてもらおう……」

「あら、何かしら?」

「……アーサー・ペンドラゴンなる名の偽りの王と……その下僕であるところのブリトン騎士団とやらは……如何なる神を信仰している……」

「ええ、そうね? アーサー王伝説の記述に依るならば、アーサー王はその身を包む鎧の肩に、もしくは盾に、永遠の処女である聖母マリアの偶像をいただいていたとされておりましてよ? ですからやはり彼自身と彼を慕った円卓の騎士達、そしてブリトン騎士団の方々は、敬虔なキリスト教徒なのではないかしら?」

 ヴォーティガン上級王閣下の霊魂が口にした疑問に、グエン・チ・ホアはそう言って返答した。するとこの返答が、彼の逆鱗に触れる。

「……何と愚かな……ブリトン人が……誇り高きケルトの民が……異教の神を信仰するなどと言う事は……あってはならぬ……やはり天罰を下さねば……」

 そう言って嘆き苦しむヴォーティガン上級王閣下の霊魂の言葉の端々から滲み出る、怒りや軽蔑と言った負の感情の色の濃さは、先程までの比ではなかった。

「ところで閣下、閣下のご希望通りブリトン騎士団のねぐらに閣下をご案内したいのは山々なのですけれども、果たしてどのような手段でもってこちらのカタコンベから閣下を連れ出せばよろしくて? さすがにあたし達が閣下のご遺体を背負ったまま街中を移動されると言うのは、幾ら何でも目立ち過ぎてしまいましてよ?」

 グエン・チ・ホアがそう言って問い掛ければ、ヴォーティガン上級王閣下の霊魂はこれに対して、代替案を提示する。

「……案ずるな……余をブリトン騎士団とやらのねぐらまで案内するのに……余の亡骸を丸々全て移動させる必要は無い……頭の骨さえ在れば……余の意志と力は移動が可能だ……」

 そう言ったヴォーティガン上級王閣下の霊魂の言葉に依るならば、どうやら頭の骨、つまり頭蓋骨さえ在れば、彼の意志と力はこのカタコンベの外まで移動出来ると言う事らしい。

「あら、そうですの? ケルトの方々は昔から頭蓋骨には特別な力や魂が宿ると信じておられたと聞き及んでおりますけれども、その影響かしら?」

 するとそう言ったグエン・チ・ホアはおもむろに手を伸ばし、まるで躊躇する様子も無く「でしたら閣下、失礼させていただきましてよ?」と言ってから、石棺の中で横たわるヴォーティガン上級王閣下の白骨死体の頭蓋骨にそっと手を掛けた。そしてそのまま頭蓋骨を持ち上げれば、その頭蓋骨と干乾びた薄皮一枚でもって繋がっていた下顎骨や頸椎の骨がぼろぼろと剥がれ落ち、やがて頭部が無くなった首から下だけの白骨死体が石棺の中に残される。

「閣下ったら、これでよろしくて?」

「……ああ……問題無い……良きに計らえ……」

 ヴォーティガン上級王閣下の霊魂がそう言えば、グエン・チ・ホアはその場でくるりと踵を返し、手にした頭蓋骨をこちらへと差し出した。

「はい、万丈くん? こちらの閣下の頭の骨は、あなたが持っていてくださるかしら?」

「え? は? うわ、ちょ、待って、そんな、おっと」

 僕は差し出された頭蓋骨をついつい反射的に受け取ってしまったが、次の瞬間にはまるでお手玉をするかのような格好でもってそれを掴んでいいのかどうか逡巡し、貴重な遺物である筈の頭蓋骨をうっかり取り落としてしまいそうになる。

「さあ、でしたらそろそろ、こちらのカタコンベからは退散させていただく事になさいましょうね?」

 するとそう言ったグエン・チ・ホアはさっきまで頭蓋骨を持っていた右手にLEDランタン、左手にラタンの旅行鞄を携えながら祭壇から床へと降り立つと、まるで来た道を引き返すかのような格好でもって再び縦穴の下へと移動した。そしておよそ頭上3mの高さで口を開けている、大聖堂の床であり、また同時にカタコンベの天井でもある縦穴の縁に手を掛けたかと思えば、そのまままるで小鳥の羽毛か何かの様な身軽さでもって穴の上まで飛び上がってみせたのだから驚かざるを得ない。

「さあ、万丈くん? こちらに手を差し出していただけて?」

 ぽかんとした表情のまま驚いている僕を尻目に、そう言ったグエン・チ・ホアが縦穴の上からこちらへと手を差し伸べて来たので、僕はまず一旦ヴォーティガン上級王閣下の頭蓋骨を僕のデイパックの中へと無造作に放り込んだ。そしてそのデイパックを背負い直してから差し伸べられたグエン・チ・ホアの手を取ると、殆ど彼女に引っ張り上げてもらうかのような格好でもって、どうにかこうにか穴の上へと移動する事に成功する。

「ふう」

 縦穴の上へと移動する事に成功し、再びアイルズフォード修道院の大聖堂の床へと降り立った僕はそう言って、額に浮いた玉の様な汗をジャンパーの袖でもって拭い去りながら一息吐いた。

「あらあら、万丈くんったら、そろそろ今日一日分の疲労が溜まってしまわれた頃合いなのかしら? でしたら一刻も早く修道院の外で待たれておられる筈の淑華ちゃんの元まで戻って差し上げないと、彼女もまた疲労が溜まって、待ち草臥くたびれてしまわれておいででしてよ?」

 そしてそう言ったグエン・チ・ホアが薄暗い大聖堂の出入り口の方角へと足を向けたので、そんな彼女の背中に僕は改めて問い掛ける。

「ねえ、ホアさん? 一応確認させてもらいますけど、さっきまでこのヴォーティガンとか言う名前の王様の頭蓋骨が喋っていた事は、嘘じゃないんですよね? まさかとは思いますけど、降霊術じゃなくて、ホアさんが腹話術でもって王様の霊魂のフリをしていたなんて事はありませんよね?」

 僕はそう言って問い掛け、随分と失礼な事を確認させてもらってしまっているとは思いながらも、グエン・チ・ホアによる降霊術が法螺やペテンの類ではない事を確認せずにはいられなかった。しかしながら問い掛け終えた次の瞬間、背中に背負ったデイパックの中から再びあの聴覚野に直接訴え掛けて来るかのような声が聞こえて来たものだから、僕は考えを改め直す。

「……よりにもよって……余を偽物扱いするとは……小僧よ……それ以上余を愚弄するつもりなら……まず手始めに……貴様から天罰を下す事にさせてもらうぞ……」

「ひっ!」

 不意に背後のデイパックの中から聞こえて来た声に、僕は思わずそう言って頓狂な声を上げながら、その場でぴょんと小さく飛び上がってしまうほど驚かざるを得なかった。そして「あ、その、すいません! ご免なさい、王様!」と言って謝罪しつつ、己の下衆の勘繰りっぷりを猛省するばかりである。

「あらあら、万丈くんったら、駄目じゃない? まさか閣下のお声をあたしの腹話術と勘違いするだなんて、無礼にも程がありましてよ?」

 そう言ってたしなめの言葉を口にしたグエン・チ・ホアはくすくすと愉快そうにほくそ笑みながら、LEDランタンをラタンの旅行鞄の中へと仕舞い直すと、猛省するばかりの僕と共に大聖堂を後にした。そして人気の無いアイルズフォード修道院の敷地内を縦断し、やがて修道院の敷地とそれ以外とを隔てる鉄柵の元へと引き返せば、そこにはすっかり待ち草臥くたびれてしまった淑華の姿が見て取れる。

「ちょっと、二人とも、どこで何やってたらこんなに遅くなるのよ! おかげですっかり身体が冷えて、風邪引いちゃったかもしれないじゃない! どうしてくれるのよ、まったく!」

 僕らの姿を見るなりそう言って、淑華はすっかりおかんむりの様子であった。

「あらあら、淑華ちゃんったら、ご免なさいね? あたし達ももうちょっと早めに戻って来るつもりだったのですけれども、何やかんやで色々ありまして、目的を達成するのに予想以上に手間取ってしまいましてよ?」

 するとグエン・チ・ホアが鉄柵を乗り越えながらそう言ってなだめるが、すっかりおかんむりの様子の淑華は「ふん、何が「手間取ってしまいまして」よ! 知らない!」と言って唇を尖らせ、ぷりぷりと怒りを露にするばかりである。

「そうだぞ淑華、ホントに色々あったんだからな? ほら、これ、中で凄い物を発見したんだ!」

 そこで僕はそう言うと、背負っていたデイパックの中からヴォーティガン上級王閣下の頭蓋骨を取り出し、それを淑華の眼前に差し出した。

「な? 凄いだろ?」

 僕が頭蓋骨を差し出しながらそう言って同意を求めれば、淑華は最初、それが何なのか理解出来ずにきょとんとしていたものの、次の瞬間にはぎょっとして飛び退る。

「ちょっと万丈、何よそれ! まさか、本物の人間の骨じゃないでしょうね!」

「いや、それがさ、凄いんだって! これはヴォーティガンって言う名前の王様の頭の骨でさ……」

「何がヴォーティガンよ、気持ち悪い! そんな物、こっちに近付けないでよね! 早く捨てなさい! ほら、早く!」

 歴史上の人物の遺骨の発見と言う世紀の大発見に対する喜びを、彼女にも共有してほしかった僕の意に反して、そう言った淑華の怒りはまるで収まる気配が無い。そこで僕は仕方無く、取り敢えず彼女の機嫌が少しでも良くなるように、ヴォーティガン上級王閣下の頭蓋骨をデイパックの中へと仕舞い直した。

「ほら、淑華、これでいいだろ?」

 ヴォーティガン上級王閣下の頭蓋骨をデイパックの中へと仕舞い直した僕が両手を広げながらそう言えば、淑華はようやく、ほんのちょっとだけ機嫌を直した様子である。

「まったくもう、あんな気持ちの悪い骨なんて、もう二度とあたしの眼の前に持って来ないでよね!」

 するとそう言って怒りを露にする淑華と僕に向かって、グエン・チ・ホアが「さあ、でしたら万丈くんも淑華ちゃんも、そろそろ街へと戻る事になさいましょうね?」と言いながら踵を返し、街道の方角へと足を向けた。そこで僕ら三人がぞろぞろと連れ立って歩き始めたところで、不意に前方の暗闇の向こうから、ヘッドライトを点けていない一台の大型ワゴン車がこちらへと接近しつつあるのが見て取れる。

「?」

 こんな深夜だと言うのに何故ヘッドライトを点けていないのか、僕がその点をいぶかしみながら歩いていると、前方から接近しつつあるその大型ワゴン車は次第次第に速度を落とし始めた。そして歩道を歩いている僕らとすれ違った次の瞬間、徐行していた大型ワゴン車が不意に急停止したかと思えば、車内から一斉に飛び出して来た数人の男達が僕ら三人に襲い掛かる。

「!」

 大型ワゴン車の車内から飛び出して来た数人の黒ずくめの男達、それも俗にバラクラバと呼ばれる眼出し帽を被って顔を隠した男達は、無防備な僕らをあっと言う間に羽交い絞めにしてしまった。そしてナイロン樹脂製の結束バンドでもって左右の手首同士を後ろ手に縛り上げられた僕ら三人は、頭の上から視界を奪うための麻の布袋をすっぽりと被せられ、そのまま大型ワゴン車の車内へと強引に押し込まれる。

「よし、捕らえたぞ! 早く車を出せ!」

 すると僕ら三人が大型ワゴン車の車内へと押し込まれたのとほぼ同時に、男達の内の一人がそう言って運転手に発車を命じれば、命じられた運転手はすぐさま大型ワゴン車を急発進してみせた。つまり僕と淑華とグエン・チ・ホアの三人は正体不明の黒ずくめの男達の手によって、一言の悲鳴を上げる間も無いまま誘拐、もしくは拉致されてしまったのである。

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