第十六幕
第十六幕
翌朝、朝食を摂るべく訪れたホテルの食堂でもって真っ先に不調を訴えたのは、淑華であった。
「気持ち悪い。吐きそう。頭痛い」
客室で目覚めた僕がホテルの廊下で待ち合わせたその瞬間から、顔面蒼白の淑華は僕の顔を見るなり「気持ち悪い」「吐きそう」「頭痛い」の三つのセンテンスを口から垂れ流し、それを延々と繰り返すばかりである。そしてその醜態から推測するに、たったグラス一杯のシードルでもって酔い潰れてしまった彼女は今朝からずっと、つまりベッドの上で目覚めた瞬間からこの調子であった事は想像に難くない。
「あらあら、淑華ちゃんったら、大丈夫でして? それにしましても、淑華ちゃんがこんなにまでもお酒に弱かっただなんて、これは驚くべき事実なのではないかしら?」
ホテルの食堂の一角で、テーブル席に腰を下ろしたグエン・チ・ホアが昨日の朝のそれとほぼ同じ内容の朝食を口へと運びながらそう言って、くすくすと愉快そうにほくそ笑んだ。
「ちょっと、あんた、さっきから何へらへらと笑ってんのよ! こっちは今すぐにでも二日酔いでもって倒れて死にそうだってのに! ああ、もう、気持ち悪い。吐きそう。頭痛い」
昨日の朝のそれとほぼ同じ内容の朝食、つまり大きな皿一杯に盛られた『フル・イングリッシュ・ブレックファスト』を上品な仕草でもって食み続けるグエン・チ・ホアとは対照的に、完全に二日酔いの様相を呈した淑華は砂糖をたっぷり溶かした甘い紅茶だけをずるずると啜っている。
「おい淑華、お前、ホントに大丈夫か? 僕だってお前と全く同じ量とアルコール度数のシードルを飲んだ筈なのに、お前一人だけがそんな酷い二日酔いになるだなんて、さすがに酒に弱いにも程があるぞ?」
「何よ、もう、最悪! そこのベトコンの年増女だけじゃなくって、よりにもよって万丈まで一緒になって、そんな薄情な事ばかり言っちゃってさ! あたしだって、好き好んで二日酔いなんかになっちゃってるんじゃないんだから、少しは気を遣いなさいよね! ああ、もう、気持ち悪い。吐きそう。頭痛い」
そう言って悪態を吐いた淑華は味の濃い固形物を胃の中へと流し込めるような体調ではないからなのか、それとも出来るだけ多くの水分を摂って少しでも早く酔いを醒ますつもりなのかは分からないが、とにかく甘い紅茶をひたすら飲み続ける事に余念が無い。
「ところでホアさん、僕らは今日この後、ロートンの町を離れてからどこに行って何をする予定なんですか?」
そこで僕は気を取り直し、二日酔いから当分醒めそうにない淑華の事は放っておきながら、そう言ってグエン・チ・ホアに今後の予定について問い掛けた。
「ええ、そうね? まず何と仰いましても昨夜の降霊術の続きを執り行わなければなりませんので、ヴォーティガン上級王閣下の霊魂との交信状態を早急に改善すべく、取り敢えず彼の
するとそう言ったグエン・チ・ホアの言葉に耳を傾けていた淑華は眉間に皺を寄せ、白磁のティーカップに注がれた甘い紅茶をずるずると啜り続けながら、頭の上に見えない疑問符を浮かべるばかりである。
「は? 降霊術? ヴォーティガン上級王閣下? 霊魂? ねえ、あんた、さっきから何言ってんの? 少しはあたしにも理解出来るような言語でもって喋りなさいよね、まったく! ああ、気持ち悪い。吐きそう。頭痛い」
眉間に皺を寄せながらそう言った淑華の言葉から推測するに、至極当然の事ではあるものの、どうやら酔い潰れたまま熟睡してしまっていた彼女は昨夜の降霊術の事は一切覚えていないらしい。
「だったらホアさん、そのアイルズフォードの村とやらまで、この朝ご飯を食べ終えたらすぐにでも出発するつもりですか?」
しかしながら僕はそう言って、二日酔いの様相を呈したままぐったりするばかりの淑華を敢えて無視しながら、グエン・チ・ホアに問い掛けた。
「ええ、そうね? 可能であれば今すぐにでも出発してしまいたいところなのですけれども、あたし達三人の中にどなたかお一人、そうも言ってられない方が
するとそう言ったグエン・チ・ホアと僕の視線が淑華の顔へと注がれたので、二日酔いから来る体調不良でもって顔面蒼白の彼女は、即座にぶんぶんと激しく首を横に振って拒絶の意を露にする。
「無理無理、絶対無理だってば! 馬鹿言わないでよね! こんな最低最悪の反吐が出るような体調だってのに、それを我慢して今すぐにでも出発しろだなんて、そんなの絶対無理なんだから! ああ、もう、気持ち悪い。吐きそう。頭痛い」
そう言ってぐったりするばかりの淑華の姿を眼にしては、さすがの僕もグエン・チ・ホアも、当初の予定を変更せざるを得ない。
「ええ、そうね? つい先程お伝えしました通り、今すぐにでも出発してしまいたいのは山々なのですけれども、淑華ちゃんがこのような有様では出発を延期しなければならないのは火を見るよりも明らかでしてよ? ですから取り敢えず、チェックアウトの期限である本日の午前十一時までお部屋でお休みになられた上でもって、今後の予定を改めて再確認する事になさいましょうね?」
そう言ったグエン・チ・ホアの言葉を要約するならば、取り敢えずチェックアウトの期限ぎりぎりである午前十一時まで淑華を客室で休息を取らせた上でもって、今日中にアイルズフォードの村まで旅立つか否かを改めて検討すると言う事らしい。
「うん、分かった。そうしてもらえると助かる。それじゃあ、あたしは先に部屋に帰って寝てるから、部屋の鍵、貸して」
いつに無く力無い表情と口調でもってそう言った淑華が腰を上げ、掌を上に向けた右手をグエン・チ・ホアの眼前に差し出せば、彼女は差し出された淑華の右手に客室のルームキーをそっと握らせた。そして「客室までエスコートして差し上げなくても、大丈夫かしら?」と言ったグエン・チ・ホアの問い掛けに、ふんと鼻を鳴らしながら「結構です!」と言ってこれを拒絶した淑華は、ふらふらと覚束無い足取りのままホテルの食堂を後にする。
「淑華の奴、あんなにふらふらしてるけど、ホントに大丈夫かな?」
「さあ、どうかしらね? けれどもこう言った想定外のアクシデントもまた旅の醍醐味の一つでもありますし、後々になってから今日の出来事を思い返した際の、良い思い出の一つにもなるのではないかしら?」
くすくすと愉快そうにほくそ笑みながらそう言ったグエン・チ・ホアと共に、僕は食堂のテーブルの天板の上に並べられた皿の上の朝食、つまりイングランドの伝統的な朝食である『フル・イングリッシュ・ブレックファスト』をむしゃむしゃと食み続けた。そしてトマト味のベイクドビーンズにブラック・プディングと呼ばれる豚の血のソーセージ、それにジャガイモのハッシュブラウンやバターとマーマレードが塗られたトーストなどを食べ尽くしたならば、やがて山盛りの食材でもって隠されていた皿の底もまた露になる。
「ごちそうさまでした」
「ええ、ごちそうさまでして?」
たっぷり山盛りのご機嫌な朝食を食べ尽くし、すっかり満腹になってしまった僕ら二人はそう言って席を立ち、そこそこの数の宿泊客達でもってそれなりに賑わっているホテルの食堂を後にした。そしてエレベーターに乗って客室が在る階まで移動してから、廊下を渡った先のシングルの客室の扉の前で足を止めると、今まさに扉を開けんとする僕をグエン・チ・ホアは呼び止める。
「万丈くん、ちょっとよろしいかしら?」
「え? 何ですか?」
不意にグエン・チ・ホアに呼び止められた僕がそう言って振り返ると、彼女はそんな僕の手から、今まさに僕が開けんとしていたシングルの客室のルームキーをひょいと取り上げた。
「?」
そして彼女の意図するところが理解出来ずに呆けている僕に、グエン・チ・ホアはそれとなく、しかしながら異論を許さぬような表情と口調でもって命令する。
「こちらの客室はあたしが利用させていただきますので、あなたはあちらのツインの客室でもって、二日酔いで臥せっている筈の淑華ちゃんの様子を見て来てくださってもよろしくて?」
「え? あ、はい。別に、構いませんよ。でも淑華の様子を確認するだけだったら、男の僕じゃなくって、女同士のホアさんの方が何かと都合が良くありませんか?」
しかしながら僕がそう言って疑義を呈すれば、グエン・チ・ホアは小さな溜息を吐きながら
「あらあら? 万丈くんったら、幾らあなたが鈍感だからと言ったって、限度と言うものがありましてよ? あなたは淑華ちゃんにとって特別な存在なのですから、こう言った時に一人の男として彼女の力になってあげなければ、一体いつ活躍するつもりでして?」
「はあ……」
「とにかく今は細かい事は気になさらずとも結構ですので、可及的速やかに、淑華ちゃんが待たれている筈のツインの客室へと急いでくださらないものかしら? そして彼女をそれとなく力付けて差し上げる事に成功したならば、あなたの男としての株も、一気に急上昇する事間違い無しと言うものでしてよ?」
僕から取り上げたシングルの客室のルームキーを手にしながら、グエン・チ・ホアはそう言って、くすくすと愉快そうにほくそ笑んだ。そして彼女が口にした言葉が事実であるとするならば、どうやら僕がツインの客室へと赴いて淑華を力付けると、何故だか分からないが僕の男としての株が急上昇すると言う事らしい。
「でしたら万丈くん、どうぞ、ご健闘くださって?」
そして最後にそう言ったグエン・チ・ホアがシングルの客室の扉の向こうへと姿を消してしまったので、ホテルの廊下に一人取り残された僕はくるりと踵を返し、昨夜彼女ら二人が宿泊した筈のツインの客室の方角へと足を向ける。
「おい、淑華、居るか?」
やがて廊下を渡った先のツインの客室の扉の前へと辿り着いた僕は足を止め、その扉をこんこんと二回ノックしながらそう言った。すると暫しの間を置いてから、かちゃんと言う小さな金属音と共に解錠された扉が静かに開いたかと思えば、やはり顔面蒼白のままの淑華が扉の隙間から姿を現す。
「……あれ? 万丈? あんただけ? あの年増女は?」
「ああ、何だか良く分かんないけど、僕一人だけでもってお前の様子を確認しに行って来いって言われたからこうして足を運んだんだが……迷惑だったか?」
「……あの年増女め、さてはあたしに恩を売る気ね?」
扉の隙間から垣間見える淑華は舌打ち交じりにそう言って、僕に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でもって愚痴を漏らしたが、僕には彼女の言葉の意味するところもまた良く分からない。
「なあ、淑華、そろそろ部屋の中に入れてくれないか? 向こうの客室からも締め出されちゃったもんだから、こっちの客室に入れてもらえないと、どうにも行く所が無いままなんだよね」
「ええ、どうぞ。勝手に入ったら?」
そう言った淑華の言葉に甘えるかのような格好でもって、僕は彼女が開けてくれたツインの客室の扉を潜り、その扉の内側へと足を踏み入れた。足を踏み入れた客室は至ってシンプルな造りの、昨夜この場所で降霊術が執り行われたとは思えない、どこにでもありそうな安ホテルの何の変哲も無い客室である。
「部屋に入るのは勝手だけど、静かにしててよね。あたしの酔い醒ましの邪魔をするようだったら、出て行ってもらうからさ。ああ、もう、気持ち悪い。吐きそう。頭痛い」
淑華はそう言うと外出着を着たままベッドの上でごろりと横になり、少しでも体調が回復する姿勢を探すような格好でもって数回寝返りを打ってから、すうすうと小さな寝息を立て始めた。そこで僕は彼女が横になっているベッドの隣の、昨夜グエン・チ・ホアが寝ていたであろうもう一つのベッドの縁に腰掛け、淑華の様子を見守る。
「……」
眠っている人を見守ると言う行為は、誤解を恐れずにはっきり言わせてもらうとするならば、特にやる事が無い無駄な行為の一つであるに違いない。何故なら僕がこうして淑華を見守っている間にも、彼女は
「……ねえ、万丈、未だそこに居る?」
するとその時、眠っていた筈の淑華が不意にそう言って僕の名前を口にしたので、僕はちょっとだけ驚いてついと顔を上げる。どうやらベッドの上で横になった彼女は熟睡しておらず、眠りに就いたふりをしていただけの事らしい。
「ああ、ここに居るけど……何?」
「こんな事をお願いするのはホントは悔しくて恥ずかしくて仕方が無い筈なんだけど、でも、二日酔いのせいで心も身体も弱ってるから仕方無くお願いするんだけどさ……あたしの手、握っててくんない?」
ベッドの上でごろりと横になった淑華は眼を閉じて、眠りに就いたふりをしたままそう言うと、柄にも無く、彼女の左手をそっとこちらへと差し出した。
「何だよ淑華、手を握っててくれだなんて、お前らしくもないな?」
「いいから、握っててってば!」
そう言った淑華に半ば強制されるかのような格好でもって、僕は小さな溜息を吐きながら彼女の手を握り、淑華もまたそんな僕の手をぎゅっと握り返す。
「……」
イングランドの首都ロンドンの郊外の、静かなロートンの町の中心部に建つこれまた静かなホテルの客室の一角で、ベッドの上で横になった淑華と僕の二人は互いの手と手を握り合っていた。さほど広くもない客室の内部は充分過ぎるほど暖房が効いており、毛布を被らなくても平気で寝られるほど温かく、快適である。そして健康な男子高校生である僕のそれと比べると淑華の手はとても華奢で小さくて、二日酔いでもって身体が火照っているせいか、何だかちょっと熱いくらいぽかぽかと発熱しているのであった。
「……」
やがて三十分、いや、もしかしたら一時間ばかりも経過した頃だろうか。それまで無言のまま眼を瞑っていた筈の淑華が不意に眼を開き、こちらを向いて、口を開く。
「……ねえ、万丈?」
「ん?」
「どうしてあたしの手、握っててくれるの?」
「え? あ、いや、それはほら、お前に握っててくれってお願いされたからだけど……何か、おかしいか?」
「ううん、そうか、そうだよね、そうに決まってるよね」
そう言った淑華はその顔に、それとなく嬉しそうな、しかしながらその一方で、ほんのちょっとだけ寂しそうな微妙で複雑な表情を浮かべていた。
「だったら万丈、そろそろあたしは寝ちゃうつもりだから、もう手を握ってなくてもいいよ。それに、いつまでもここに居ないで、自分の部屋に戻っちゃっても構わないから」
やがて淑華はそう言って、僕と握り合っていた手を放し、本格的に就寝するために呼吸を整え始める。
「ホントか? 未だ二日酔いは、治ってないんじゃないのか?」
「そうね、未だちょっと具合が悪くて頭痛も収まってないけれど、万丈が手を握ってくれていたおかげで、かなり気分が良くなったから。もう大丈夫。きっともうちょっとだけ寝ておけば、治る筈だから」
ベッドの上の淑華がそう言って再び眼を閉じたので、僕は「そうか、それなら僕は、ホアさんと交代するからね」と言いながら腰を上げ、ツインの客室を後にした。そしてホテルの廊下を渡ってシングルの客室の扉の前まで移動してみれば、そこには既に、純白のアオザイ姿のグエン・チ・ホアが待ち構えていたのである。
「淑華ちゃんの具合は、如何でして?」
「未だ二日酔いは完全には治ってないけれど、ちょっとだけ具合が良くなったって言ってました」
「あら、そう? でしたらこのままチェックアウトの時間まで、あたしもあちらのお部屋でもって、淑華ちゃんと一緒にお休みさせていただく事になさいましょうね? それに万丈くんもチェックアウトの期限である午前十一時まで、こちらのお部屋でもってゆっくりお休みになられては如何かしら?」
「ええ、そうさせてもらいます」
僕はそう言ってグエン・チ・ホアの提案に賛同すると、淑華が待つツインの客室の方角へと足を向けた彼女とは一旦離別し、シングルの客室の扉の内側へと足を踏み入れた。そしてポケットの中から取り出したスマートフォンのアラームを、午前十一時ちょうどに鳴るようにセットし直してから、ベッドの上でごろりと横になってチェックアウトまでの時間を潰す事にする。
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