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百人の部員からスタートした神宮中央高校野球部だったが、その前途は多難だった。元プロ野球選手の監督とコーチの指導を受けられたのはたったの一日だった。野球のプロアマ規定に抵触したのが原因だった。
当時は今ほどプロとアマの交流は盛んではなく、一度でもプロを経験した者はアマチュアの指導ができなかったのだ。協会から違反通告を受けた理事長は金で解決しようとした。だが逆効果だった。協会だけでなく、他の野球有力校から物凄いバッシングを受けたのだ。結果、司法を動かすほどの大問題となり、このままプロ野球経験者を指導者に置くのなら、公式戦に参加させないという判決が出たのだ。
理事長は仕方なくそれに従った。いや、実際は仕方なくではなかったのだろう。なぜなら、その騒動で神宮中央高校は全国的に有名になったからだ。そもそも学校の知名度を上げるために、甲子園に出るような強い野球部をつくろうとした理事長だったから、裁判騒ぎでその目論見は達成されたことになる。その時、彼の中では甲子園とか、高校野球とかいうツールに興味はなくなったのだ。
だから、野球部を解散させようとした。いや、理事長が解散宣言をする前に、ほとんどの部員が辞めていった。だが、納得いかない秋葉たちは契約を盾に理事長に直談判した。理事長はまた金で解決しようとした。しかし、秋葉たちは金など欲しくはなかった。野球をしたかった。純粋に、野球ができればよかった。
理事長はなかなか首を縦に振らなかったが、やがて秋葉たちの熱意に打たれたのか、部の存続を認めてくれた。今なら、決して秋葉たちの熱意に負けたわけではないことはわかる。金などいらない、ただ野球ができればいいと訴える秋葉たちなら、ひょっとして甲子園に出るくらいのチームになるのではという計算が働いたのだろう。もしそれが実現すれば、甲子園出場校の理事長ということでまた有名になることができるからだ。とにかく、金と権力、名誉欲に飢えた理事長だった。
部を存続させる条件として、監督やコーチは置かず、すべてにおいて選手が自主的に部を運営するということが決められた。何があっても学校は責任を負わないと。もし部が成功したら学校の手柄、いや、理事長自身の手柄にするくせに、随分勝手な条件だと今では思うが、高校生だった当時は、野球さえできればそれでいいという気持ちが強く、気にならなかった。ただ、形式的だが、顧問が必要だったため、運動などしたことのない美術教師に名前だけ借りることになり、神宮中央高校野球部は改めてスタートを切った。
百人でスタートした神中高野球部だったが、再スタート時はたった九人だった。それだけ、プロ野球経験者に指導を受けたい者が多かったということだ。それが叶わないなら、ケチがつき、先行き不安な新設校で野球をすることにメリットがないと判断したのだろう。
つまり、残った九人は、純粋に野球が好きで、とにかく野球がやりたいメンバーだった。
結城もその一人だった。結城は物心つく前に父親を事故で亡くしていた。父親と息子のキャッチボールを知らずに育った結城は、それでも女手ひとつで育ててくれた母親を大切にしたそうだ。その母親も、結城が中学生の時に病気になる。癌だった。病気が発覚した時にはもう末期だった。体に異常を感じながらも、働きづめだった母親は、なかなか病院にすら行けなかったのだ。ようやく病院に行った時にはすでに肺から骨に転移していた。高校受験を控えていた結城は進学を諦め、就職先を探す。だが、中卒だった母親は高校へ行けと言った。中学まで続けていた野球もやり続けてほしいと言ったそうだ。学費なら何とかなると。結城は迷った。迷い、悩んだ末、定時制の高校に通うことにする。昼間働いて稼いだ金を治療に充てたいと考えたのだ。結城は野球を諦めた。だが、満足だった。母親の役に立っていると思えたから。
しかし……入学して間もなく、懸命の治療と結城の看病むなしく、母親は帰らぬ人となった。結城は荒れた。昼間働いていたボルト製造工場も学校も辞めてしまった。自暴自棄になった結城は千葉から東京に出てきて、繁華街で喧嘩に明け暮れ、腹が減ると、カツアゲや引ったくりで飢えを凌いだ。死にたかった。死んで両親の元へ行きたかった。だが、どうやって死ねばいいかわからず、死ねないまま命を削る日々を送っていた。本職からスカウトもされた。また、本職とトラブルになり、袋叩きにもあった。それでも結城はヤクザの世界には入らなかった。心のどこかに、野球をやりたい、誰かに救ってほしい、まだやり直せるという想いがあったのだろう。
そんな生活が三年ほど続いたある日、結城は路上に貼りつく古新聞に、神宮中央高校の野球部員募集記事を見つける。路上から新聞を引き剥がした結城は、その足で神宮中央高校に応募へ向かう。そして試験にパスし、監督問題に揺れた後もやめず、九人の中の一人に残ったのだった。
九人はそれぞれ個性が強く、チームとしてとてもまとまりそうな要素はまったくなかった。だが、野球が好きだという点は一致していた。野球をよく知っているという点も。そして負けず嫌いという部分でも。チームの全員が負けず嫌い。その気持ちが合わされば、そして相手チームに対してそれをぶつけられれば、強いチームになっていく。
名前だけの顧問はグラウンドに降りてくることは一度もなかった。だからとりあえずキャプテンを決めることになり、秋葉が選ばれた。経験したポジションを全員が発表していく中、秋葉だけはどこでもやれると答えた。少年時代、人数の少ないチームでプレーする中、どこのポジションもこなさなければならなかった。だからある程度のプレーはどのポジションでもできた。それが決め手となり、秋葉がキャプテンになった。何かと便利だと思われたのだろう。その程度のものだった。
なぜなら、秋葉自身自覚していたからだ。九人の中で一番自分が下手だと。北海道のシニアリーグでは知らぬ者がいないほど有名で、数々の高校から特待生として来てくれと言われたものの、あくまでそれは北海道の中だけの話で、自分は井の中の蛙だったことをすぐに思い知らされたのだ。
だから秋葉は、個性派揃いのメンバーをまとめていくことよりも、雑用に徹した。グラウンド整備、道具の手入れ、高野連への連絡係、他校との調整役。もちろん練習は人の何倍もした。空いていたショートストップが秋葉の正ポジションだったが、馬鹿正直に全部のポジションでノックを受けた。別に皆を引っ張っていくために背中を見せたわけではなかった。パフォーマンスでもなかった。単純に下手だったから、ある意味器用貧乏だったから、練習を繰り返したのだ。
日が経つにつれ、チームは次第にチームらしくなっていった。点が線になり、それが輪になっていくようだった。キャプテンの秋葉がそんな調子だったから、チームをまとめる者がいなかったのに、チームはまとまっていった。影で武藤がまとめてくれていたのだ。あの喧嘩自慢の結城も、武藤の迫力には一目置いていた。だが、決して力で抑えつけていたのではなく、懐の深さ、人間の大きさでナインをまとめてくれていた。
そして練習メニューは叶を中心に、森田も加わり、決めてくれた。当時では珍しかったチューブを使った負荷トレーニング、呼吸法を取り入れたランニングでの基礎体力アップ法、イメージトレーニング、どれもこれも当時では否定されていたものばかりだった。だが、それらを取り入れたチームは個人力がアップし、ひいてはチーム力も上がっていった。特に、卓越したバッティング技術と理論を持った叶のアドバイスで攻撃面が格段に向上していった。どれもこれも見た目は楽そうな練習だったが、かなり厳しいものだった。だが不満を漏らしたり、サボったりする者は一人もいなかった。皆、野球が好きで、野球のできる喜びに溢れていたのだ。
そして何よりゲームで力をつけていった。練習のための練習は意味がない、試合に備える練習、そして試合での反省点をふまえての練習こそが本来のそれだというのが叶の持論だった。だから練習試合は頻繁に組まれた。森田の肩を休めるため、秋葉は何度もマウンドに立った。もちろん、勝つ試合もあれば負ける試合もある。負けず嫌いの集まりだったから、負けた日は全員で悔しがり、全員で反省した。誰が指示を出さなくても、勝つために何をするべきかということがわかっているメンバーだった。いや、そんなメンバーになっていった。いつしかグラウンド整備や雑用も、みんなでやるようになっていた。
みんな野球が好きだった。野球をやれる喜びに溢れていた。だから野球のためなら何でもできた。好きこそものの上手なれという諺があるが、まさにその通りだ。好きなことは強さだ。
秋葉はそんな、みんなに支えられたキャプテンだった。
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