【常世の君の物語No.10】美映

くさかはる@五十音

第一章:美映

一筋の涙が、頬をついと流れた。


それを肌で感じ取って、美映みばえはうすく、目を開ける。

「美映よ、そんなところで眠っていたら、風邪をひくぞ」

自分を呼ぶ声に半身を起こすと、美映は塗れたばかりの頬をぬぐった。

なるほど、近所では一等大きな屋敷の一角にあって、この部屋は最も風通しがよい。

見ると庭の木々は色づき始めている。

そういえば、暦の上ではもうじき霜降である。

「よう寝ておったのぅ」

言いながら美映の顔をのぞきこむのは、一つ上の従兄弟の次郎である。

端正な顔立ちのその従兄弟は、片手に焼き鳥を盛った皿を持ち、今一つを口に運ぼうとしている。

「美映も食うか」

次郎が手に持つ皿を、美映に寄こす。

山盛りの焼き鳥のうち、一つをつまみあげ、美映も習い口に運ぶ。

記憶の中の次郎は、幼い頃からいつも焼き鳥を口に運んでいる。

「本当に焼き鳥が好きだな、次郎は」

言われて次郎は右の口角をぐいとあげると、はははと笑って、己がどれほど焼き鳥が好きかを論じ始めた。

いつもの流れになってきたので、美映は耳にたこができるとばかりに視線を次郎から外す。

気が付けば、家の表の方から、険しい母の声が聞こえている。

焼き鳥を一羽分たいらげた美映は、すっくと起き上がると表へ続く廊下へと身を躍らせた。


美映の母は金貸しをしている。

なんでも、母の父の代に西で大戦があり、戦働きをした代わりに貰えるはずの土地をもらうことが出来ない侍が大勢いたそうな。

そのせいで、親の代からうちに借金をしている家が、この伊勢の地でも沢山あった。

美映の家では祖父の代から金貸しをしているが、婿養子に入った父が早くに亡くなってからは、母が女で一つで、この八代家を切り盛りしていた。

そんな母の恰幅は、よい。

よすぎるくらいで、使用人に抱えてもらわねば歩けないほどである。

廊下から頭ひとつ出して表をうかがうと、そんな母の大柄な体躯がゆさゆさと揺れているのが目に飛び込んできた。

母の背後では、よく禿げあがった使用人頭の吉さんが、帳簿とにらめっこしている。

もっとよくのぞいてみると、何やら母は、玄関先で一人の侍と言い合っているようであった。

耳をそばだてて聞いてみると、「もう待てない」だとか「あんたとは長いつきあいだからこれまで待ってやった」とかいう母の声が聞こえてくる。

侍の方も引き下がらないようで、「長いつきあいじゃないか」とか「生活が出来なくなってしまう」などと言っているようである。

こうした時の美映の母の対応は、幼い頃から見ているが、子供の美映にも分かるほどの大きくゆっくりした声で、それこそ大人が子供を諭すように、相手に向かって語りかけるのが常であった。

今日も、ゆらゆらと揺れる背中に母の頼もしさを感じながら、美映は帳簿とにらめっこしていた吉さんに声をかける。

「おはよう、吉さん。母はまだかかりそう?」

「おう、起きたのかお嬢さん。なに、もうじき終わるよ」

吉さんが言うように、しばらくして母の「今日は帰った帰った」といういつもの決まり文句が聞こえたかと思うと、表の喧騒はぴたりとやんだ。

「あら、美映」

大きな体を使用人に支えられながら母が振り向く。

「お疲れ様、母上」

美映は満面の笑みを母に向ける。

「いやだわ、仕事をしている姿を見られるのは好きじゃないって言ってるでしょ」

そう言うと、母はどっかと板の間に腰を下ろす。

「いいじゃない。私もいつか母上のように立派な金貸しになるんだから」

美映は腕で握りこぶしを作り、それをぶんぶん振り回す。

「あらあら、勇ましいこと。でも勢いだけじゃあ、この商売はできないからね。頭がよくなくちゃあ」

「はいはい母上は頭がようございますよ」

美映はぷくっと頬を膨らませる。

「ちゃかすんじゃないの。本当の話よ。仕事の話を聞いているんなら、そのあたりしっかりと学んでおきなさいね」

母はぴしゃりと言い置くと、何かに気が付いたように鼻をならした。

「あら、焼き鳥のにおいじゃないの」

「おばさん、鼻がいいな」

振り向くと次郎が柱のそばに立っていた。

無論、その手には焼き鳥の皿が乗せられている。

「美映に比べれば次郎君の方がまだ頭がいいわね」

「ひどい母上」

母はにやにやと笑いながら、早速焼き鳥に喰らいついている。

「まぁ食べな美映」

次郎が差し出す焼き鳥を受け取りながら、母と次郎を交互に見やり、なんだか面白くはない美映であった。


それが今日のお昼のことであった。

夕方になり、美映は近くの神社にお参りに出かけた。

それは数少ない、美映の日課であった。

幼い頃からの習慣なので、今更何を祈るでもないが、とりあえず習慣として、家族の大事を毎日祈っていた。

神社へ向かう道すがら、道の両側に広がる稲穂は美映の腰ほどもあり、それが大層重々し気に揺れているのが目に入った。

また、あたりをせわし気に飛び交うとんぼたちが、秋の深まりを感じさせていた。

なんとなく、ここではないどこかへいざなわれそうな、そんな心地のする、夕暮れであった。

そんな幻想的な、いつもと少し異なる感覚を抱きながら、美映は、小高い山のふもとにある、いつもの神社へと続く階段の上に、あった。

足元に広がる落ち葉の上に、かさり、かさりと体重を乗せて歩を進めてゆく。

肌に触れるのは、夏の頃よりもいっそう冷たくなった秋の風である。

木枯らしにはまだ早い。

耳に届くのは、さやさやと風に吹かれ、こすれる木々や草の音。

そして、どこかから聞こえてくる、赤子の声――。

赤子?

美映は、はっとして歩みを止めた。

このあたりに、赤子のいる家は、ない。

しかし、美映の耳には、今、はっきりと赤子の鳴き声が聞こえている。

何故――どうして――。

美映はあたりを見回す。

取り立てて変わったところのない殺風景な境内の景色が眼前に広がっている。

どこから聞こえるの――。

美映は、両の目をじっと閉じ、一心に耳に集中した。

よく聞いてみると、声は赤子の声に似てはいたが、どこか鳥の声にも聞こえる。

そんな、不思議な鳴き声に導かれて境内の奥へと歩みを進めると、社の裏、果たしてそこに、一人の子供の姿があった。

しかし、ここいらの子供にしては、めっぽう派手ないでたちをしている。

丸いほわほわしたものが着いた極彩色の陣羽織など、美映ははじめて見た。

それに、子供は右手にヤツデの葉のようなものを持っていた。

そうして、極めつけは、体が妙に赤いのである。

しかしその泣きようが大層なので、美映は困った顔になり、思わず声をかけていた。

「もし」

子供の泣き顔が、急にしゅんとなったかと思うと、次の瞬間には目をぱちくりさせて美映を見つめていた。

なんと言ってよいものか分からず、美映は苦笑いを作る。

「もし、どうかしたの」

子供は、くりくりした目を美映に向けて、首をかしげている。

「そんなに泣いて、どこか、痛いの?」

美映はおそるおそる子供のそばにかがんでみる。

「痛くはないぞ」

子供から発せられた声は、思いのほかはっきりとしていた。

なんだ、言葉が通じるじゃないか。

美映はほっと息を吐くと、にっこりと笑顔を作っってこう言った。

「ひとり?親御さんは?」

見たところ、十六になる美映よりは五つは年下であろう。

そして、おそらく男の子であった。

「おっとうが、いる」

子供はそう言うと、満面の笑みを美映に向けた。

「そう、おっとうがいるの。私には、おっかあがいるのよ」

そう言って、美映はふふふと笑って見せた。

「名前はなんて言うの?おっとうはどこ?」

子供が理解しやすいように、美映はゆっくり、丁寧に語りかける。

「俺はこてんぐ。おっとうは仕事でいない。ここで待つように言われたが、飛び回っておったら枝に羽をやられた。落ちて尻もちをついたので泣いておった」

「羽?」

見ると、こてんぐと名乗った少年の背中には、烏のものを大きくしたような、黒々とした羽が生えていた。

いつもとは異なる景色を目にした直後ということもあり、美映の頭の中で、この世ならざる者である存在と、目の前の少年が結びついた。

こてんぐとは、「子天狗」とでも書くのだろうか――。

ともあれ、目の前の少年には羽が生えており、そして、よく見るとその羽から血が出ているではないか。

黒い羽に赤い血なので、目立たなかっただけで、血はたらたらと流れ続けているようである。

「怪我してるじゃない。待って」

美映はそう言うと、自分の服の裾を八重歯でかみちぎった。

それを石清水で濡らし、子天狗の羽を流れる血をぬぐってやる。

何度かそれを繰り返し、傷口を洗ってやると、美映は「これでよし」と一息ついた。

なされるがままになっていた子天狗は、目をぱちくりさせて美映の仕草を見守っていたが、ようやく作業が終わると見るや、のっそりと起き上がってこういった。

「傷の手当をしてくれたのだな。感謝する。おぬし、名は何という」

居住まいを正し礼をとった子天狗に対し、美映はちょっとこそばゆい思いで自分の名を告げた。

「みばえ。美しく映えると書くの」

「そうか、美映というのか。ありがとう、美映。この恩は必ず」

そう言うと子天狗は、手に持っていたヤツデに似た扇をひと払いした。

突如一陣の風が起こる。

と、とっさに目をつむった美映が再び目を開けてみると、そこに子天狗の姿は見当たらず、ただ子天狗がいた場所だけ、木の葉が吹き払われて地面があらわになっているのであった。

美映は、夢でも見ていたのだろうかと思ったが、自分の服の裾がちぎれているのを見て、ふっと力が抜けた。

そうして、なんだかこのことは家の者にも、誰にも言うまいと思うのであった。

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