人畜無害な婚約者が、浮気相手の殺害を計画していると知ってしまった
有沢楓花
第1話 人畜無害な婚約者が、浮気相手の殺害を計画していると知ってしまった
「パトリシア、何度も申し訳ないのだけど」
初夏の陽気に相応しくない、いつかも聞いた沈んだ声音に、喉の奥に雪が詰め込まれる。
「仕事が忙しくて……結婚を延期して欲しいんだ」
振り返れば婚約者のルーファスが、四度目の結婚延期を言い出したところだった。
トフィーブラウンの細い眉につられて、目が伏せられる。長い睫毛は、髪よりも濃色の瞳に影を落とした。
中性的で優しげな顔立ち。落とした肩に、後ろでリボンで結んだ短い髪先がかかっている。叱られる前の長毛種の犬のようだ。
ロウ子爵家の
出版業を営むオーウェル家の婿で、社長候補として。
普段態度から表情まで控えめな彼のそんな顔に、私は無理やりつめたいものを飲み下し、つい「いいよ」と言ってしまいたくなる。
だって彼は、私に謝るようなことをしたことがないから。この件以外は。
でも、二年近く四度の先延ばしは、いくら多忙が理由でも……すこし、いや、かなり許容範囲を超えている、と思う。
「……以前、これ以上の延期は厳しいって言わなかったかしら」
二回目までは笑顔で承知した。
三回目、やんわりとくぎを刺した。
四度目も来るだろうなという予感は残念ながら当たったわけだ――そうなったら、はっきり言うしかないと、ひと月前から決めていた。
私は手をきつく握り込む。
「披露宴でお出しする料理だって季節が変われば、食材から考え直しでしょう。延期した方が余計に時間がかかることは少し考えれば分かるはず」
自分で想定したより私の喉から出た声は冷えていて、棘があった。
「ドレスの採寸だって、やり直しかもしれないし」
これは、かもしれないじゃなくてほぼ確定。卒業前に頑張って絞ったウエストは、仕事と延期のストレスからくるヤケ食いでもとに戻った自信がある。
「……本当にごめん」
頭を下げられれば、まるい頭頂が見えた。見たくもない姿に、イガイガする喉から言いたくもない言葉をぶつける。
「これは両家の結婚式なの。籍だけ入れる、式だけで披露宴をしない訳にいかないって分かってるわよね。友人たちにもせっつかれているし、私の仕事にも影響が出るの」
私は今、父の会社で主に女性向けの雑誌や書籍の、企画と編集をしていた。特に私のような貴族の末端から
最近増えた女子学生向けの本や、流行を集めた雑誌、それに家庭を切りまわす奥様――主婦層向けの実用書は年々売り上げを伸ばしている。
今後もリサーチと売り込み、説得力のためには、学生時代の貴族の友人たちとの交流に加えて、既婚と言う肩書きが重要なのだ。
「……忙しいのも準備がなかなか進まないのも、半分は父のせいだし、それは私からも言っておくけど」
ルーファスは一般向けの実用書を担当しつつ経営を学び、更には最近始めた小説部門の編集業務まで担当させられていて、忙しさは私の比ではない。
とはいえ、いつまでも後回しにしていたら、一生結婚できない。
――でも、本当に言いたいのはそんな、仕事にかこつけた可愛げのない言葉じゃなくて。
息を吸えば、彼から控えめなインクの香りがした。
それをゆっくり吐いて、なるべく柔らかい声音になるように気を付けて。
「でももう半分、たまには自分から休みをもらっていいと思うの。
今回の延期は、分かった。だけど……今度決める日程で、最後にしましょう?」
「……そうなるといいな」
自信なさげに頭を上げた彼の、頼りない微笑は、そのまま彼の存在ごと消えてしまいそうで、口をつぐむ。
学生時代から断定を嫌がるのは知っているけれど、それはたんに慎重で根拠を重視する性格だからで、こんな風に無気力だからではない。
自分から延期を言い出しているくせに、私より打ちひしがれていく姿では。
だから、追い詰めたくなくて、本当に言いたかったこと――なんでそこで「そうしよう」にならないの? と。最初から結婚する気がなかったの? と問い直す勇気がなくなってしまう。
本当はたくさん聞きたかった。
残業が長引いて家に帰れず、会社と近い我が家に寝泊まりする時も、絶対に私の部屋には挨拶に来ないのは何で、とか。
話し合う時間を作るつもりがないんじゃないか、とかも。
「……」
私は「そうするの」と言う気にもなれず、足元に目を落とす。
そこに、庭の芝生の上に広げたピクニックバスケットの、手付かずのままになっていた料理を見付けた。
ローストビーフのサンドイッチ、苺のコンポートとビスケット。それに紅茶。
「そろそろ食べましょう。せっかくコックが作ってくれたんだもの」
私は何とか笑顔を作って顔を上げ、促す。
ルーファスもまた顔を上げてピクニックシートの上に腰を下ろし、神妙な顔でサンドイッチに手を伸ばす。
私も隣に座って一口かじれば、薄くホースラディッシュを塗ったそれは、コックも熟知している彼好みの味だ。
「半月ぶりかな、一緒に食事するの。本当はもっと時間が取れたらいいんだけど」
「……そうね」
多忙が嘘じゃないのは良く分かっている。職場が一緒で、仕事場は隣の部屋だ。たびたび席を外していることも知っている。
だから婚約者のくせに、レストランで食事したことなんて、この一年なかった。
だけど、その一年前だって、多分親が同席して仕事の話をしていた。
……いや、婚約前からだって、初めて会った時からたいていの会話は、紙をはさんでいたっけ。要するに他愛のない会話は殆どしたことがない。
よくある、複数人の候補の中から条件で決まった、ありふれた政略結婚。
「……どうしたの、パット?」
優しいテノールで遠慮がちに問いかけられれば、私は咄嗟に冷めたお茶を喉に流し込んだ。
呼び名が、愛称に変わる。そういう時、私の胸はざわつく。
いつからか呼ばれ始めた愛称を聞くと、政略結婚なのか、なんなのか、距離感が分からなくなってしまうから。
「婚約のずっと前、初めて会話した時のことを思い出してた」
「二年次の近代技術史のレポートの評価が君が一番目で、僕が二番だったね。まさか技術史で印刷から農村の福祉まで話が繋がると思わなかったからよく覚えてる」
「ルーファス……ルーがね、おめでとうって言ってくれた」
「そうだったかな」
ルーファスは、細い指でコンポートをおっとりと、でも器用にビスケットに乗せて口に入れた。
「女子に負けるなんてって男子たちに言われてたのにね。何人かの教授たちだってそう。通わせた父ですら、成績はそこそこで良いって言ってたのに」
「それはパットの発表がすごくよくできてたから、当然賞賛を受けるべきだと思ったんだよ。それに、図書館に通い詰めてたのも見てたから」
ビスケットを飲み込んだ口は、簡単にそんなことを言ってしまう。
彼は、私のように勉学や人間関係が仕事に役立つからと、大学に行かせられた訳ではない。いや、子爵はそうだっただろうけれど、彼自身は純粋な学問のしもべだった。
あの時の私は、評価されたら針山の晒しものにされるなんて想像もついていなくて、一度は辞めてしまおうかとまで思った。
彼が祝ってくれたから、他の生徒たちから拍手をもらえたのだ。
「あなたより評価されたのは、後にも先にもその一回だけ。実を言うと出版業と私のアピールのためにも、絶対に一番を取るんだって気合を入れてた課題だったの。
それなのに発表後、祝われた上に参考資料を聞かれて、敵わないって思って――」
この人は純粋に勉強が好きなんだなと、尊敬した。
目で追うようになって、物静かな佇まいと、資料を丁寧に扱う手つきに恋をした。
だから。
あなたはそのまま学者になるんだって思ってた、という言葉を飲み込む。
「今の仕事が大変でも。仕事が軌道に乗ったら、きっと歴史書も発行できるし専念できる。私みたいに、編集者兼執筆者って珍しくもないし」
――私は嘘つきだ。
こうやって相手も自分も仕事にかこつけてなだめて、誤魔化して、言いたいことも言わずに、いつか彼が情を移してくれないかなあなんて時間を稼いでいる。
ルーファスがピクニックシートの布地の上に体を横たえたので、私が青いデイドレスの膝上をあけると、遠慮がちに頭を乗せてくる。
抱き合ったこともないけれど、偶然頭が乗った時に私が拒否しなかったので、それ以降庭で彼は、人目がない時はこうするようになった。
そうするとルーファスの、澄んだ瞳と以前より濃くなっているクマがはっきり見える。
「歴史書か……できるかな」
「きっとできるわ。ルーには知識はもちろん、うまくまとめる才能があるもの。編集の方だって、お茶会じゃうちの新レーベルの話でもちきりなんだから」
私もロマンス小説は専門外だったけど、彼が担当しているアンジェリカ・エアハートはぜんぶ読んだ。
ヒロインがとっても可愛くて魅力的で。男性たちとのやりとりが砂糖漬けみたいに甘いのに、物語の筋は歴史や政治の話題と絡み合っててスパイスが効いている。
新刊が出るたびにルーファスに感想を話していたけれど、半分は単なるファン心理だった。
「この前の新刊も発売日に買って、その日のうちに読み終えちゃった――おかげで次の日は寝不足」
「それは嬉しいな。どこが良かった?」
「色々あるけど、いちばんはメインヒーローとの再会の場面! 長い間会えなかったからなかなか言葉にならなくて、それから『いま何を言葉にしても、うまく伝えられずに嘘になってしまう気がする』って」
「そうか、頑張った甲斐があったね」
ルーファスは私を焼き栗みたいな色の瞳で見返して、とろけるような笑顔を見せた。
寝転んでいるときだけは――眠いからだろうけど――こうして見せてくれる表情に、結婚するつもりがあるのかもなんて、希望にすがってしまう。
「だからね、その売り上げを回せるんじゃないかしら。二人で早く父を引退させてやりましょう」
ルーファスは小さく頷いてから欠伸をすると、腕を伸ばしてきた。
緊張に身を固くしていると、私の目尻の辺りにこぼれた、ぱっとしない茶髪にそっと触れてから、そのまま手を戻す。
目を擦った。
「ごめん……パット。最近寝てないんだ」
「うん、おやすみルー」
たまの休憩時間はいつもこんな風に昼寝してしまう。
私は頭をそっと撫でた。
普段手に触れることも少ないのに、これもつい、私が撫でてしまってからの習慣のようになった――何故か拒否されたことはないのをいいことに。
見た目よりもずっとさらさらとした髪の毛は指通りが良くて柔らかくて、気持ちがいい。
そんなことを知っているのは、これからも私だけでいい。
「……ごめんね」
呟いたのは私の方だった。
結婚してくれれば私の夢はふたつ叶ってしまうだろう。
ひとつは彼と結婚すること。
もう一つは、いずれ「これ」と見込んだ学問的な価値のあるものや、初学者向けの参考書を出版すること。そのために理解のあるパートナーを得ること。
今はまだ高等教育は余裕のある人たちだけに占有されているけれど。工業と印刷技術は発展し続け、出版も勢いがある。
都市部でも読書人口が増えたから貸本屋ができて鉄道の駅々にも貸小説が置かれるようになった。村に届く雑誌は、農村の子供たちにも世界や自分にも手の届く憧れを見せた。
これからきっと女性や、奨学金で通うような人たちの中からもルーファスのような才能が出てくる。
……父は、採算が取れないからと私の考えには渋い顔をする。
きっと多くの男性もそうだろうと、大学に行って実感した。彼のように、学問に理解があってなおかつ女性に意見や立場を譲れる男性はそう多くないのだ。
けれど。
お互い成人して、納得の上だとしても。
それは私と両家にばかり利があって、どう考えてもルーファス個人には――経済的にはともかく、夢をすり潰してまで得られるものなんてないように思える。
ルーファスの「好き」は学生時代いつだって歴史の研究や勉強に向けられてきた。私の持っている少ない宝飾品や、家に飾ってある絵画や食器と同じくらい――いや歴史があるからこそ、それらや、書籍や原稿を扱う手つきが優しい。
そして、傷めないように注意を払って角を揃える指先や眼差しが、私は「好き」なのだ。
彼の好きなものは、才能があったとしたって、出版ではない。
(……ほとぼりが冷めた頃に、解放してあげたほうがいいのかな)
静かな寝息が聞こえてきてから、私は昼寝に備えて持って来たアンジェリカの新刊を開いた。
そこには現実とは違うキラキラした世界が広がっている。
私やルーファスと同じ茶色の髪に茶色の目の一見ぱっとしない令嬢・パメラが、持ち前の能力を発揮して宮廷で活躍。様々な男性に求愛されながら幼馴染の貴公子と愛を育むという王道ラブロマンスだ。
ドレスに宝石、舞踏会。テラスでの密会、カフェでのデート。甘い口説き文句にひたむきな告白。
『あなたに出会ってはじめて、僕の世界に色が付いた気がしたのです』
万事控えめなルーファスからは絶対に囁かれることのないような、溺れてしまいたいような甘い言葉。
でも、そうでなくとも「君は大輪の薔薇のようだ」なんてありふれた美辞麗句さえ口に出す男性は実際に多くないから、読者の支持を得ているのだろう。
ヒーローはそれにパメラの努力や、一見平凡な茶色に別の色が混じっていることにも気付いたりしてくれる。
『他の人には見せないで』
パメラが馬車でタウンハウスまで送ってもらった頃、私はルーファスのジャケットから一枚、折りたたまれた紙が零れ落ちたのに気付いた。
風で飛んでいかないようにと拾い上げてから、それが会社で使っている便箋で、書きかけであることに気付く。
「……仕事かしら」
私は本をぱたりと閉じた。
私も、正直なところ仕事と式の準備で手いっぱいだけど、ルーファスよりはましだ。
何か肩代わりできないかなと、裏に透けるメモ書きに興味を引かれて開いてみれば。
――『もう限界だ。アンジェリカを殺すしかない。』
荒いけれども確かにルーファスの筆跡で、そう書かれていたのだった。
周囲の音が遠くなった。
耳の中で心臓がどくどくと、早鐘を打つ音だけが響く。
結婚を先延ばしにしたいのは、何故?
アンジェリカと関係があるの?
私と結婚したくないから? 巻き込まないため?
このまま私は殺人犯と結婚するの? それとも、類が及ばないようにこちらから婚約破棄するしかないの?
いつ、殺すつもりなの?
私は喉を鳴らすと、紙を慎重に折りたたんで、そうっとジャケットのポケットに押し込む。
それから暖かで人畜無害そうな婚約者の面立ちを、瞼が開くまで眺め続けた。
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