「いいか、余計なことは言うな」

「わかっていますよ」


 几帳きちょうの隙間から見える顔はとても美しく、正式な女房装束でなくてもどこぞの姫君と言っても申し分ない。しかしその中身は蔽衣山おおえやまに棲むあの鬼だった。

 あの日、我を忘れるように鬼と交わった俺は、目が覚めるのと同時に愕然とした。あれほど必死に己を保とうとしていたのに鬼が鬼らしく変化へんげした途端に惑わされ、最後には自らの意思で鬼と交わってしまった。どれだけ交わっても熱が収まることはなく、鬼が美しく啼く姿を見るたびにこの腕で抱きしめたのを覚えている。そうして何度も交わり、気がつけば昇り始めた朝日に屋敷のあちこちが照らされていた。


(まさか一晩中、行為に及んでしまうとは……)


 項垂れる俺に、鬼は気だるい色気を漂わせながら「これでは孕んでしまったやもしれませんね」と言ってのけた。その言葉にギョッとした。しかしよく考えれば相手は男、まさかそんなことはないだろうと一度は思い直した。それでも人とは違う鬼である以上、たとえ男であってもそのようなことが起きないとは言い切れない。

 奥歯を噛み締める俺に「汗を流してきます」と言った鬼が素っ裸のまま立ち上がった。あまりにも美しい後ろ姿に思わず視線を向けてしまったが、足に濡れた痕跡を見つけさらに愕然とした。


(もしかして本当に孕ませてしまったかもしれない)


 屋敷の女房相手でさえ気をつけていたのにと頭を抱える。しかし起きてしまったことは仕方がない。

 俺は覚悟を決め、身を清めさっぱりした鬼に向かって「責任を取る」と申し出た。すると今度は鬼が驚き黒目を見開いた。しばしじぃっと見つめていた鬼は「ふふっ」と笑い、「そんな必要はありませんよ」と口にした。

 結局、その場で何度も責任を取る、その必要はないというやり取りをすることになった。途中からは鬼のほうが呆れ顔になり、最終的には言い負かすことができ都に鬼を連れて帰ることになった。


「責任を取るだなんて、鬼を相手によくそんなことを考えるものです」


 あの日のことを思い出しているのか美しい顔に笑みが浮かんでいる。


「うるさい。こういったことはきちんとすべきだと俺は思っている」

「わたしは鬼ですよ?」

「……鬼だろうが、もし子ができたならそれは俺の子だろう」


 都へ帰る旅の間、幾度となくくり返してきたやり取りは都に到着してからも続いている。そのたびに鬼は呆れたような笑みを浮かべるが、同時に熱のこもった眼差しを向けられた。その視線の意味はわからないが、見つめられるとどうにも腹の奥がざわついて仕方がない。


「鬼とはいえ、わたしは男です。子ができると本当に思っているのですか?」

「俺は鬼のそういうことに詳しくない。本当かどうかはわからないが、もし本当だったらやはり責任を取るべきだ」

「あなたは真面目なのですねぇ」


 鬼の言葉にぐぅと口を結んだ。

 真面目で面白味がなく、武士もののふの真似事ばかりしている三の姫宮様の末若君――俺は長らくそう言われてきた。鍛錬にのめり込むばかりで、帝や貴族が開く歌の席に参加することもせず笛や書をたしなむこともしない。二十を過ぎたいい歳の貴族なのに姫君たちの元へ通うこともなく、ただひたすら太刀の腕を磨く姿に眉をひそめる貴族が多いことも知っている。

 関白を輩出してきた由緒正しき藤北家ふじのほっけに生まれ、母は内親王だというのに俺にだけ縁談の話が来ないのもそういうことが原因なのだろう。母を同じくする二人の兄には何人もの奥方がいることを考えても、俺の評判がどうなのかわかるというものだ。


「貴き血筋の貴族だというのに、まるで僧のように真面目」

「仕方ないだろう。それが俺の性分なんだ」

「そういう真面目なところも好ましく思っているんです。だって、責任を取るということは、この先ずっとわたしだけを抱いてくれるということでしょう?」


 思わず口ごもってしまった。この鬼は思った以上に淫らだ。こうして昼日中から、しかも兄上の屋敷だというのに平気でこんなことを口にする。


「わたしは鬼ですから欲も人の男以上に強いのです。それを慰めてもらうには十分に抱いていただかなくてはいけない。そのためにも、できればわたしだけを抱いてほしいのですけれど」

「おまえ、は……! そのようなふしだらなことを口にするなと何度も言ってるだろう!」

「ふふっ、これくらいで顔を真っ赤にするなんて、本当にかわいい方」

「~~ッ」


 これではまるで既知の友のような言い合いだ。いや、友ならこんな淫らな会話はしない。しかし思わずそう思ってしまうほど鬼の態度は親しげだった。これも一緒に旅をしたからだろうか。鬼につられるように俺も親しげになってきた自覚はある。こうした言い合いはいつものことで、話せば話すほど親しい間柄のような錯覚さえし始めた。


(いや、やはり鬼が淫らなせいだ)


 宿に泊まるたびに鬼に攻め寄られ、それに応えてしまったからだ。何度も行為を重ねれば、たとえ相手が鬼だったとしてもそれなりに情が湧くというもの。そのせいで親しく感じるようになってしまっただけだ。


(……いや、宿だけじゃない)


 この鬼は油断すると人気のない道端でさえ俺を惑わしてきた。そのせいで数度、藪の中や朽ちた小屋の陰で行為に及んでしまったこともある。あのとき感じた高揚感は太刀の稽古でも得たことはなく、例えようもないくらい……いや、俺は何を思い出しているんだ。


「ふふっ、兄上様への挨拶が終わったら、その火照った体を慰めて差し上げましょう」

「……ッ!」


 旅の間のことを思い返し、うっかり体が熱くなっていることに気づいたのだろう。鬼の手が几帳の下からぬぅと現れ、意味ありげに俺の太ももを撫で始めた。


「おまえは……!」


 思わず声を荒げたとき、部屋に人が近づいてくる気配がした。慌てて身をただし、まだ太ももを撫でている鬼の手を几帳の奥へと押し込む。鬼の手が引っ込んだと同時に長兄が部屋へと入って来た。


「久しぶりだな」

「ご無沙汰しています」

「母上にお変わりはないか?」

「はい、健やかに過ごされています」

「それならばよい」


 兄上が座った上座には視線を向けず、頭を軽く下げたまま手前にある段差の辺りをじっと見る。


「それで、そちらが此度こたびの姫君か?」

「はい」


 几帳に兄の目が向いているのを感じながら、余計なことは口にするまいと返事はひと言だけにとどめた。


「斎宮様にお仕えしていたと聞いたが」

「母君と共に幼い頃から仕えていたそうです」


 これは俺が考えた鬼の身の上だ。斎宮に仕えていたとなれば完全な平民ではなく、それでいて都を知らなくてもおかしくない。代々ともなれば斎宮に付き従った貴族の子孫であり、土着の民と紹介するよりも周囲からあれこれ詮索されなくて済む。予想どおり母上は疑うことなく鬼を受け入れた。


(まぁ、鬼の美しさに惑わされたといったほうが正しいのかもしれないが)


 鬼が言うには、異性同性関係なく惑わす力を持っているらしい。力があふれ出れば相手を興奮させ肉欲に堕とすこともできるのだそうだ。

 その力で、これまで鬼退治に来た猛者もさたちを惑わしてきたと聞いた。「人の精を食らわねば生きていけませんから、わたしにとっては食事のようなものです」とは鬼の言葉で、命まで取ろうとは考えていないらしい。それでも数多の死者が出ていると言われているのは、鬼に惑わされると体力精力ともに奪われ尽くされるからに違いない。なにせ鬼を前にすると精魂尽き果てるまで行為に没頭してしまうのだ。現に俺も惑わされ、毎日干からびるほど……いや、俺はまた何を考えているのだ。


「おまえがそれでよいと言うなら、わたしに言うことは何もない。なにより独り身のおまえに奥方ができたのは喜ばしいことだ。あとで祝いの品を届けさせよう」

「……ありがとうございます」

「それに鬼の腕の礼もある」

「帝の勅命となれば当然のことです」


 兄上を騙していることに多少の罪悪感はあるものの、鬼のおかげで兄上が関白の地位を取り戻せたのだから兄上も許してくれるだろう。


「弟は貴族らしくなく太刀などを振り回すような男だ。それでもよいと言ってもらえるのはありがたいことだと思っている」


 兄上の声が几帳へと向いた。


「こちらこそ、迎え入れていただきましてありがたく存じます」


 鬼がそつなく答える。女の声にしては低いが、姫君が話しているのだと思うと不思議なことに違和感がない。これなら兄上も不審に思うことはないだろう安心したが、こういうところも鬼のなせる技かと思うと恐ろしくもあった。


「名はなんという?」


 兄上の言葉に珍しいこともあるものだと思った。兄上たちは不出来な俺に関心がなく、これまで付き合いのある貴族や武士もののふにもまったく興味を示さなかった。さすがに奥方となれば違うのかとわずかに視線を上げると、いつになく強い眼差しの兄上の姿にわずかに違和感を覚える。


(いや、兄上の様子を気にしている場合じゃない)


 俺は鬼の名を知らない。出会ってから都に戻るまで俺は鬼のことを「おまえ」と呼んでいて、鬼も名乗ることがなかったからそのままにしていた。というより、会話のほとんどが淫らなことばかりでうっかりしていた。


「ええと、名は……」

「金色に咲く花と書きまして金花きんかと申します」


 俺の言葉に被せるように鬼が答えた。「そうか、金花というのか」と初めて知る名を頭の中でくり返したところで、さらに珍しく兄上が言葉を続けた。


「金花というのか。涼やかなれど甘い声は、たしかに金の花の名にふさわしい」

「もったいないお言葉でございます」

「声だけでその美しさ、さぞや麗しいかんばせをされているのだろうな。几帳からのぞく着物も上質なものとお見受けする。色合いも模様も都の姫君に劣らぬほどあでやかだ」


 兄上の言葉にギョッとした。いまの言葉はまるで姫君の元へ通う公達のようではないか。すらすらと流暢に出てくるのが、また兄上らしい。


「都は初めてと聞いた。弟は雅なことに疎い。何か見たいものがあればわたしが案内して差し上げよう。そうだ、近々華裳祭かものまつりが行われる。せっかくだ、御所車を出すゆえ……」

「兄上、そろそろよろしいでしょうか」


 兄上の言葉を遮ったのは生まれて初めてだったが、そうせずにはいられなかった。俺の強い声色に驚いたのか、兄上がわずかに目を見開いている。


「旅の疲れを癒す間もなく、こうして挨拶に伺っています。そろそろ……、妻を休ませたいと思います」

「あ、あぁ、そうだな。ご苦労だった」

「はい。ではまたご挨拶に参ります」


 まだ少し驚いている様子の兄上を残し、几帳の向こう側の鬼を連れて足早に屋敷を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る