14 浅瀬を渡る

 スポーツにおける、エースという言葉の意味を辞書で引く。

 チームが勝つために、尤も大きな働きをする選手。


 例えばこれが野球だったら、テレビのニュースで連日名前を聞くような、そんな活躍をする選手をエースという言葉で呼ぶ。おれはそう認識している。

 でも、考えてみてほしい。いま現在エースだと大きく持ち上げられている人間より、もっともっとすごい人間が周りに現れたとしたら、テレビのフォーカスはすぐにそっちに向くだろう。


 ――一回負けただけで、エースって呼べなくなるの?


「……それは、普通はそうじゃないの?」


 だから松井田まついだの問いに関しては、おれはイエスと返すしかないんだけど。

 何故か、松井田はそれを聞いて首を傾げた。


「うーん。シュンはそう思うのか」


 なにその反応。まるでおれが間違ったことでも言ったみたいに。


 視界の端に見えるレジの向こう側では、店員さんたちが忙しなく働いている。店内はおれたちの他に二組くらいしか見えず空いているけれど、休日なのもあってドライブスルーの対応が忙しいようだ。

 この後に予定がないこともあって、そんな慌ただしさとは無縁のおれたちだったけれど、考え込むように唸った松井田にしびれを切らしたのはおれだった。


「なに、松井田はそう思わないんだ?」

「うん」


 松井田は躊躇いなく頷いた。相変わらずその瞳は一直線おれを見つめてくる。目を逸らしたくなるほどまっすぐに、けれど目を逸らす行為に罪悪感を覚えさせるほど愚直に。


「確かに、昨日シュンはコータにタイムを抜かれたけどさ。オレは、それでもうちのエースはシュンだって、言い切れるよ」


 だって、お前は本当にすごいやつだし。松井田が笑った。

 松井田には悪いけど、わからないな、と率直に思った。すごいって言われたって、何処が、って思ってしまう。昨日の今日だからなおさらだ。

 だって結果で証明された。おれは広瀬ひろせにタイムで負けた。加えて、広瀬ひろせ晃太こうたの驚異の成長速度は松井田だって知っているはずなのに。 

 なにより。


「……おれ、次も広瀬に負けるかもしれないのに?」

「『負けるかも』、だろ? じゃあ、次は勝てるかもって可能性も同じくらいあるじゃん」


 いつの間にか、松井田は両手を机について、おれの方へ身体を乗り出していた。


「お前の部長は確かに先輩たちからの指名だったけど、エースって呼び始めたのは、先輩たちじゃなかったろ。他校のやつだって、いつも注目してたのはお前だったろ。広瀬を含めたオレたち同級生の総意で、お前がエースなんだ」


 どくん、とおれの心臓が大きく跳ねた。

 肌の表面がざわつく。びり、とした震えが心臓から体の末端に迎えって走り抜けていく。

 一息に言い切った松井田が、我に返ったのかおそるおそる前のめりになっていた身体をひっこめて、深々とソファーに背中を預けた。けれどその顔に照れは見られず、どちらかといえばどこか拗ねたような表情が残っていた。


「……だからさ、シュン。もっと、自信を持ってよ。お前、たぶんお前が思っているよりもずっとずっとすごくてカッコいいんだから」


 松井田の凄いところは、最後までおれから目を逸らさないところだ。ちゃんとおれを見て、まっすぐに言ってくれる。

 ――おれを、見て。


(……ああ、そっか)


 それに気付いた瞬間、おれは目の前の世界が生まれ変わるような感覚を覚えた。まるで、目に見える世界にジグソーパズルのような皹が入って、ばらばらと一瞬で崩れていくような。そうしてピースがひとつも残らず消え去った世界で、おれは自分の目からこぼれた鱗の色を知る。――そっか、おれは。


 ずっと、おれ自身のことを見ていてほしいと願っていた。


 リビングに増えていく浩一郎こういちろうのトロフィーや賞状。それらを綺麗に飾っていた母は、いつだっておれに浩一郎の姿を重ねていた。浩一郎の弟なのだから、もうひとり兄とは違って同じ陸上の道を選んだおれだって同じくらいの「カミサマからの贈り物」があって、すごい結果が出せるだろうって。

 その言葉が嫌いだった。おれの重ねてきた努力がおれのものじゃないみたいで。仮にその贈り物があったとしても、浩一郎と同じ結果を出せないおれには絶対にそんなものはなくて、努力でも浩一郎のいるステージには届かないって言われているみたいで。


 長男の宗一郎そういちろうだって、家を出ていったのは何かと浩一郎と比べる母に嫌気がさしたからなのに、おれと時折食事をする際は必ず母のことを聞いてきた。おれに聞かないで直接自分で会いに行けばいいのに、毎回おれに尋ねるから、それもなんだかおれがオマケみたいに思えて嫌だった。


 ――最後に、広瀬。

 同じ競技、同じ種目。ノウハウも全ておれが教えて、でもその成長速度におれはあいつのことをいつの間にかライバルのように思っていた。けれど、同じトラックを走る広瀬の目におれは超える対象どころか競う相手とすらも映っていないように思えて仕方なかった。


 一緒に走っていればわかる。だって、ずっとおれは見てきた。

 中学から高橋ゆきを、高校からは広瀬晃太を見てきたんだ。

 ――あいつが追い付こうとしているのは、選手だった高橋ゆきだ。

 あいつは隣を走るおれじゃなくて、過去を走っていた高橋ゆきの姿を前に見て、走っている。


 それが、おれは悔しくて。

 だからこそ広瀬に本番で抜かれた時にショックだった。きっと広瀬がおれをライバルとしてみることはこの先はないんだって。そう思って。

 もう誰もおれを等身大のおれとして、おれの見てほしいかたちで見てくれはしないのだと。

 そう、思っていたんだ。


「……お前ってすごいな」

「え?」


 俺が口を開けば、松井田が困惑したような声を出した。


「うん? 急に何? なんでオレ? シュン、どうした?」

「正直、軽率に惚れちゃうかものレベルですごいよ」

「待て待て待て待て何の話!?」


 怖い怖い怖い! と叫びだす松井田に、エース以前に部長のおれは店の迷惑になるだろ、と本来なら注意する立場のはずなのに、いまは笑いが止まらなくなっているものだから職務放棄するしかない。怖いってなんだよ、心外だ。


 傲慢だった。視野が狭かった。勝手に自分自身の展望を狭めて、見落としていたものがたくさんあった。

 ちゃんとおれのことをおれとして見てくれるやつが、近くにいた。

 おれだって、人のことを言えない。見てくれないなんて言って、見てくれている人を視界の外に追いやって、細くなった望遠鏡の筒の中、自分のみたいものしか見ていなかったのだから。

 嬉しい、と思う。そして同じくらい、自分のなかに変わらない傲慢な感情が燃え続けていることに気付いて、呆れるを通り越してもう笑うしかないなとも思う。


 ああでも、ゴールは見えた。


「ありがとう、松井田」

「うぇっ、……え? えー……?」


 納得いかない顔で松井田が顔を顰める。「いや、お前がいいならいいけどな……? ……いいのか……?」などとぶつぶつ言い始めた松井田の前に置かれたトレーの上はもう中身のない包み紙ばかりだ。

 今度こそ部長らしく退店を促しながら、おれはじわじわと身体を温めて溶かしていくような気持ちをかみしめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る