百合の花の下には
鶯雛ちる
その1 : 欄干は仄かに甘い香りがする
町の向こう、はるか遠くにそびえる
奥の川面は青々と空の空気を映し取ってみせたが、波に反射した陽光がきらきらとかき消してしまいよく見えない。水は足元に近づくほど空の模写を諦め、透き通る清らかな流れが川底の石ころたちをぐにゃぐにゃに歪めて楽しむ。
そんな自然の暇つぶしを錆びた橋の上から何の気なしに眺めていた。軋む欄干を乗り出して橋から顔を出してみると、今度は私の顔をぐにゃぐにゃ歪めて面白がるようにして水がたゆたう。
日は正午を少し過ぎた頃だった。川の上は寒くてときどき吹き付ける風に思わず目をぎゅっと閉じる。水面の波が僅かに立って水の中のもう一つの世界が小刻みに揺れる。まるで魔法のようだった。そんな素敵な幻想世界にひとり取り残されていた私の手を少しばかり強引にぐっと引いて現実に引き戻すような、そんな声が私の鼓膜を揺らした。
「なーに黄昏てんのよう」
右肩に手をかけられたので何の気なしにそちらへ振り向く。やられた。肩に置かれた手指は人差し指だけがぴんと伸ばされたままで、私の右頬を突き刺していた。いつもは長い爪が食い込み、しばらく痕が残されるのだが、今回は珍しく手加減してくれたのか、爪が綺麗に揃えられていた。柔らかな指先の温度が頬に伝わった。振り向ききれず手持ち無沙汰になった首をそのまま、背中の彼女のいたずらにむっと頬を膨らます。それが合図となり、柔らかな指の感触が頬から離れる。
こんなことを私にしてくる人間なんて私は一人しか知らない。首を戻して、目線は水面に落としたまま、
「
「いい加減学習したら?」
後ろの気配、夏美の肩が揺れている。口元に手を当て笑っている。音を殺して笑おうと努めているが、抑えきれなかった声が息と交じってときどき漏れ出る。そんなに面白いか。
向こうの水面は相変わらず光をきらきらとさせて青い世界を隠している。どこからか鵜が一匹飛んできて、川中に小さく積まれた白い洲に降り立ち、羽を乾かし始めた。よく見ると水面のあちこち、草木の陰や、水の流れのなくなって滞っているところに水鳥が浮いている。私の目は他ならぬ水鳥であり、心は夏美だった。
ようやく笑い飽きたのか、夏美が軽いステップを踏みながら私の隣に来て、橋の欄干に背中からもたれかかった。古い欄干が音もなく揺れる。
ちらりと夏美に目をやる。少し小柄な少女 ――私よりも10センチほど小さいか―― で、まつ毛の長いぱっちりとした二重まぶたの瞳が、冬の乾燥のせいか、笑い涙なのか、きらきらと可愛らしく輝く。こちらも乾燥のせいか赤みがかった頬がぷっくらと少女らしい曲線をつくっている。小さな鼻と口は柔らかく尖り、潤った唇が蛭のように動く。本人曰く、生まれつきだと言う少し明るく見えるブラウンの髪は首元あたりから短く切りそろえられており、頭部の丸みが幼げで可愛らしい。前髪は遊ばせながら蟀谷に向けて流されていた。
紺色の生地がベースで白い襟カバーの名古屋襟の下に赤色のリボンをのぞかせた冬用のセーラー服の上から、チャックが開いたままのウィンドブレーカーを着込んでいて、首元にはもこもことしたティペットを巻きつけている。
暖かそうに着込んだ上半身とは対照的に下半身はミニスカート、太ももをさらしたまま、学章の入った膝下までの靴下の上から艷やかな革靴を履いている。
足下には学生鞄と部活用具やら何やら ――筆だけでもほんとうに使い分けているのかと疑問に思うほどの種類があって、絵の具やら顔料について教えてもらったときはもはや英語の長文読解問題を突きつけられるがごとく、私にはお手上げだった―― を詰め込んだらしい手提げを転がしている。
夏美は美術部だった。幾つか彼女の作品を見せてもらったことがあるが、素人目の私から見るとなんと素敵な絵を描くのだろうと感服するものばかりだった。彼女の内面を表すかのように、繊細で美しくもどこか力強いものを感じられた。何故かコンクールなどに一度も出品したことがないらしかったことが不思議に思うほどだった。
「ねぇ、それさ。また私のことも描いてよ」
「ん?ん~~」
問の返答を風と一緒に流すようにして何故かはぐらかそうとする。夏美を相手に私もめげずに、
「前に描いてくれたのも、完成したのに見せてくれないじゃない」
川上の風が二人のスカートを揺らす。
橋下の鯉が足許の水面の奥からゆらゆら見えて、上から反射して見える私の影との二重写しとなって世界が淡い幻想となって揺れる。ときどき水面から顔を出す鯉の背びれや頭部だけがはっきりと私をこの世に引き止めた。
夏美が少し遅れて、
「描いてもいんだけど、さぁ…」
鈴を転がすような声で、ごにょごにょと口ごもりながら、ああでもないこうでもない、次の言葉を探している。
「
意味がわからない。回答にならない回答を聞いてふと、夏美に目をやると、冬の乾燥のせいか、寒さのせいか、頬が赤く火照っているように見えたが、私たちのほぼ真上に置かれた陽の光が彼女の頬を照らしてよく見えない。
夏美と目が合う。
私たちの下、川面から鯉が跳ねてぱちゃりという水の音がした。私と夏美の横顔が視界の端、微かに揺らめく。
黒い瞳を隠してしまうほど長いまつげが清らかな水に濡れて、こちらも淡い幻想を讃えていた。私はどきりと少したじろいだ。夏美が夏美ではない何かに変わって、その美しいまつ毛の光の幻想に私を引き込んで離さないような、夏美の瞳がそんな危険な光の渦となり私を包み込むようだった。その淡く美しい世界もすぐに揺らいで、いつもの夏美のかわいらしい二重が私を見上げていた。
彼女の頬がすっと上がり、目が細められ、微笑むようにして笑顔の形をつくる。童顔な彼女の笑顔はどこか幼気で、ふっくらと赤らむ頬がその顔を子供らしく歪ませる。そうだと言うのに、どこかおとならしい、妖艶めいた雰囲気をのぞかせた。それがなんとも不思議で、彼女を彼女たらしめるものがそこにある気さえした。蛭のように赤く潤った唇を動かして、
「でも、ね。私には描けないよ。やっぱり。前のも上手く描けなかったの。千里にも見せられないかも…。うん、見せられないなぁ…」
澄んでまっすぐに伸びる声は妙な響きを残した。彼女らしくない透き通る音が私の鼓膜を静かに揺らす。最後に続けた。
「千里には…」
そこで言葉が途切れた。諭すように薄く、でもどこか楽しげに笑う夏美の顔には日の光が讃え、鼻先や頬を照らしている。ブラウンの髪が明るくその縁をきらきらと彩っていった。
私は彼女の話をしばらく黙って聞いていた。彼女の笑いに応えるようにして私もその目尻に笑い返してやる。照らし出される顔の輪郭を見つめながら、
「なに、それ。よくわかんないけど…。夏美のほうがずっとかわいくって、モテるじゃない」
我ながら、よくわからないことを口走ったなと思った。これではないなと、咄嗟に今の発言を取り消そうとしたのだが…。夏美のほうから先に反論してみせた。
「そ、そんなこと、ない…」
語尾にかけてどんどん声が小さくなっていった。少し照れているような、彼女らしくない消え入りそうな声で、
「そんなことないよ。私は千里のほうが…」
そこまで言って見せ、口ごもる。血色のよいほの赤い頬がぷっくらしている。
寒々とした空に彼女だけが温かな色をもっているようだった。橋の下にいた鯉はいつの間にか姿を消していた。
夏美はしばらく口元をごもごもと光らせて遊んでいたがやがて、やっぱりなんでもない。わすれて。と、はぐらかした。わざと話題を変えんとして、
「ね、千里は冬休みなにするの?」
鈴がころころと鳴るような、どこか弾んだ、もとの夏美の声に戻っていた。
「ん、特になんにも。家でゆっくりするかな。宿題もそれなりにあるし…」
「じゃあさ、じゃあさ」
ころころと鈴がなる。
今日は二学期の終業式だった。生徒は寒い体育館に集められ、学校長や生徒指導部のつまらない話 ――そういえば学校長とは本の趣味が合うらしく話の中に盛り込まれた引用を探すのは面白かった―― を小一時間ほど聞かされ、授与式やら校歌斉唱ののち、こちらも寒い教室に戻り、宿題やプリントを受け取って、十二時過ぎに解放された。
いつもの通学路は昨夜の暗く冷たい空気を残した朝の日差しの中にも、暮れていく日が彩る橙色に染まった町々に北の空から紫色のグラデーションで包みこまれる夕闇の中にもなく、きらきら光る青空の下、真昼の日差しにくっきりと照らされた町々は生き生きとしていて、少しばかり新鮮だった。
そんな日差しの中、二人の肩や袖元が紺色の上から強い光によって淡い白に塗り替えされていく。夏美の声が続く。
「二人でさ、遊びに行かない?ほら…、クリスマスとか…、さ」
夏美の言葉で二学期最後の私の恥辱がそっと掘り起こされた。もちろん、夏美に他意はない。おそらく…。ひとりうなだれながら、
「あれ、クリスマスはクラスで集まるんじゃなかったっけ。」
手相を弄りながらそんなことを言った。
昨日のことだ。私たちのクラス ――私と夏美は県立日名高校に通う一年生、クラスは三組―― の男子たちがクリスマスにクラスの皆で集まって遊ばないかという提案を持ち出した。近所の公園で行われる毎年恒例のイルミネーションを見たあと、男子の中でもリーダー格の丸山クンのバイト先、小さなレストランを貸し切ってもらい、ちょっとしたパーティをするとのことだった。
この企画の進行に先立って男子どもの注目は夏美が今回のパーティに参加するのか、否かだった。今回のパーティの趣旨は伏せられていたが、おそらくは女子とふたりきりになる口実作りだろう。そして、夏美は誰の目から見ても、最も競争率の高いクラスのマドンナ ――と、いうには少し顔立ちが幼い気もするが―― だった。
しかし、当の本人はこの企画に乗り気ではなかった。そこで、私に白羽の矢が立った。彼らが言うにはこうだ。
夏美にこの企画に参加してもらうために私から誘ってはくれないだろうか。いつも一緒で仲の良い私からの誘いなら断らないだろう、とのこと。
私としてもこの企画には夏美と同様、乗り気出なかった。もともと引っ込み思案な私はとりわけ大人数で動くことが好きでなかった。ましてや、食事やパーティとなればなおさらだ。
だと言うのに、生来の口下手な私は、とうとうこの依頼を上手く断ることができなかった。普段から交流の少ない人間、しかも異性となるとちょっとした会話でも萎縮してしまうのだ。意見を言おうにもこうなってしまうと声が出なくなってしまう。
こうして、私は夏美にクリスマスのお誘いをして二人揃って行きたくもないパーティに行かなくてはならなくなった。我ながら情けないと思う。私が不甲斐ないばかりに私ひとりならともかく、夏美まで巻き込んで彼女の大事な時間を無駄にさせてしまうことになった。クリスマスなんて嫌いだ。
とはいえ、夏美のほうは私の誘いに二つ返事で答えてみせた。はじめはあんなに渋っていたのにどういった心境の変化だろうかと思ったが、おそらく私に気を使ってくれたのだろうとすぐに思い至った。明るくて、誰にでも気さくな、時々何も考えていないのではと思えるほどの彼女だが、いや、だからこそ彼女は筋金入りの気にしいで、気遣い屋なのだ。しかも、それを表に出そうとしない気難しさも持っていた。それゆえに、彼女のあの気さくさは天性のものだと思われることが多かった。
「あ、そか。じゃあ…、初詣!とか…?」
夏美が別の提案を出してきた。初詣か。去年は家族揃って氏神様に初詣に行ったっけ。
今年は夏美と一緒に…。
でも…。
「うん、初詣も行こう」
いったん言葉を区切る。息をついて、
「でも、なんにもない日にも、会ってもいいんだよ?さっきも言ったけど、私はこの冬、案外暇なんだ」
夏美が二重まぶたをぱちくりさせる。そんなことは案中になかったのか、静かに驚いたようだった。それから、かわいらしい瞳をきらきら輝かせて、
「じ、じゃあ、明日。明日は?」
彼女がいつもよりも弾んで、小さな鈴がころころと音を立てて、
「ショッピングに行こうよ!ほら、クリスマスパーティでプレゼント交換するんでしょ。私まだ買ってないから、さ。千里も買ってないんでしょ?」
「あっ…!」
失念していた。そういえばそんな話も出ていたなと思い出す。例のパーティの途中、プレゼントをひとり一つずつ持ち寄って交換するというイベントをするらしいのだ。そんなこと、すっかり忘れていた。
「ちょっと、千里。わすれてたんじゃないでしょうね、私を誘っておいて?」
むぅ。図星だった。こういったとき、夏美は勘が鋭いのか、物事をよく見ているのか分からないが、言わずに隠そうとしたことをずばりと言い当ててしまうことがしばしばあった。そして、いつも夏美には敵わないと思い知らされるのだった。そういうとき、彼女は必ずにやにやとからかうように笑ってみせるのだった。
彼女の目元が眩しくて、きらきら向こうの川面が見えた。
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